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     ☆

 師走の千駄ヶ谷に降り立ち、大熊は白い息を吐き出した。ずいぶんと冷える季節になったが、体調は万全。昨夜は東京に住んでいた頃から愛用している老舗カプセルホテルに宿泊し、大浴場とサウナで心身ともにリラックスした。大熊が都心に出張するときの定跡手順である。
 今日明日と、大熊は連戦に臨む。
 早指し戦の場合、同じ日に複数の対局を行うことはあるが、まったく日を空けず二日連続で別々の棋戦を戦うことは、基本的にあり得ない。しかし大熊のように地方在住の場合、手間の削減のためにこのようなことも起こりうるのだ。
 プロ棋士の対局は、体力と精神力の消耗が激しい。何時間と盤の前に座り、脳をフル稼働させ、苦しみながら最善の道筋を追及していく。対局後に体重が二、三キロ減るというのは、決して誇張ではない。特に決着が深夜に及ぶ順位戦などは、翌日はまるで使い物にならず、丸一日静養に当てる棋士が多い。
 その過酷な順位戦への復帰を、大熊は目指している。二日連続の対局は正直に言って厳しいが、文句を言える立場ではない。
 将棋会館に到着し、対局室に向かう。その途中、将棋界一の色男かつ最強の棋士とばったり出くわした。
「おはようございます、大熊さん」
「よ、名人。今日は免状の仕事?」
「ええ。心を込めて書きますよ」
 アマチュアが初段以上から取得できる免状。この署名も名人の大事な仕事のひとつだ。将来は必ず名人になるからと、プロ入り直後の伊達は将棋より書道の勉強に熱を入れていた、それでも勝ちまくったという、伝説めいたエピソードがある。大熊は直接聞いたことがあるが、曖昧にはぐらかされてしまい、真相はわからずじまいだ。
「しかし、もったいないことです」
「何が?」
「大熊さんの対局が、両方ともモバイル中継されないことですよ。A級順位戦並の注目度でしょうに」
 心底残念、という表情の伊達名人。対局者本人は、そんなことはまったく気にも留めていなかったのに、おかしなものだった。
 公式戦がモバイル中継されるようになって久しいが、一日に数局が配信される程度である。特に女流棋士の対局が中継される機会は非常に少なく、ファンの欲求に応えているとは言えない。
 すべての対局がリアルタイム配信されるのが、究極の理想だが、おそらく実現はしないだろう。コストがかかりすぎる。……目の前のこの名人は、いつかその理想を実現したいと語っていたことがあるが。
「ま、余計なプレッシャーがかからなくていいよ。注目されすぎてもどうかと思うし」
「連勝、期待してます」
「だからプレッシャーをかけるなって」
 踵を返す伊達の背中を見ながら、大熊は回想する。
 フリークラス十年目で引退の危機にある大熊と、将棋界の第一人者であり永世名人有資格者の伊達。実績面ではまったく対極的なふたりだが、同期デビューという共通点がある。結婚式で友人代表として挨拶したのも、その縁からだ。
 十六勝二敗という圧倒的な成績で、地獄の三段リーグ一期抜けを果たした伊達。リーグ在籍十五期目にして、念願の四段昇段を成し遂げた大熊。思えばデビュー当時から対極的だった。周囲の扱いも、おのずと違った。爽やかな天才、将来の名人候補。対して泥臭い苦労人。まったくそのとおりの未来になった。
 どうしてこうも差がついてしまったのか? ネットでそんな風に書かれていることも、大熊は把握している。実際、なぜだろうと真剣に考えたこともあった。デビューしてからは、いっそう研究に力を入れた。勉強不足ということは絶対になかった。それでも、順位戦では思うように勝てなかった。
 結局、勝負とはそういうものだ、と一言で言ってしまうほかないのだろう。最善を尽くせば誰もが結果を出せる、そんな生易しい勝負の世界は、この世のどこにも存在しない。
 だから自分にできることは、いつでも変わらないのだ。目の前の一局一局に、全身全霊で取り組む。たとえ結果が伴わなくとも、自分を信じることだけはやめてはいけない――。
 対局室、所定の位置に座す。そのまま静かに、開始時刻の午前十時を待った。
 今日の相手は、藤田吉保五段。数年前、大熊と同じく成績不振によりフリークラスに降格した。直近の成績は大熊ほどよくはないが、当然ながら順位戦復帰を目指しているのは同じ。ここで勝って弾みをつけたいところだろう。
「ん、ちょっと失礼」
 藤田が盤に手を添えて、ほんのわずか動かす。大熊にはわからない、微妙な角度のずれがあったようだ。彼とは初手合いだが、些細なことが気になってしょうがない人なのだろうと納得しておいた。
 振り駒の結果、大熊は後手となった。
 藤田の棋譜は事前に調べてきた。正統派の居飛車党で、角換わりを得意としている。今、プロ間でもっとも研究が盛んなのが角換わりだろう。もちろん自分も、暇さえあればSHAKEを相手に、この戦型でスパーリングを繰り返してきた。先手でも後手でも、存分に戦えるはずだ。
 午前十時、対局が開始した。先手の藤田は気息を整え、▲7六歩。大熊は即座に△8四歩と飛車先を突く。
 双方とも、さほど時間をかけずに角換わりの定跡を辿っていく。想定どおり。
 ほどなく、先後同型と呼ばれる形になった。五十年も前から盛んに指されている角換わりだが、駒の配置や手順の微妙な違いで、将棋全体が大幅に様変わりする。この局面も、すでに実戦例は少ないはず。
 この先に、きっと未知の局面が待ち構えている。大熊はそう覚悟した。
 したのだが――。

【図は▲5五銀左まで】
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 五十九手目、藤田が指したその手に、大熊は鉛玉を食らったような衝撃に襲われた。あまりにも予想を超えていた。
 △同銀と応じる一手だが、そこで藤田は角取りに▲4七銀とするつもりだ。角の逃げ場所は1三しかないが、そこに引いたところで端歩の追撃がある……。
 銀損して角を無力化するという恐るべき発想。藤田はこの手をほとんどノータイムで放ってきた。つまり、この場で考えたのではなく知っていたということだ。一部の研究会で、情報共有がされていたに違いない。
 ――こんな手順があるのか。
 SHAKEとの練習でも、この手は指されたことはなかった。将棋ソフトはすでにプロを上回っていると言われ、もはや多くの人が疑問を抱いていないが……バカバカしい。こんな発想ができるなら、人間はまだまだやれる。希望はある。
 だが、感傷に浸っている場合ではない。この局面を打破する妙手を捻り出さなければならない。大熊は長考に沈んだ。急速に喉の渇きを覚え、腹の底が震えてきた。