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 先手を持った大和は、どの戦法でいくかギリギリまで悩んでいた。昇段のかかる倉下は、きっと定跡の整備された戦いを望んでいる。序盤は持ち時間を使わずに進めて、終盤のために時間を取っておきたいと考えるだろう。
 ならば、あえて相手の望みどおりにする。その上で勝つ。次期への弾みとするために、大和は決断した。
 双方とも、他の対局者とは明らかに違うペースで、早指しを進めていった。将棋の王道、花形である相矢倉だ。
 五十手、六十手――七十手を超えても、そのペースは緩むことがない。驚くべきことに、まだ定跡が続いているのだ。
 少し前まで、矢倉九十一手組という定跡があった。プロ間ではすでに先手有利と考えられ、指そうとする棋士はいなくなっている。しかし後手が粘れる変化もあり、大和は昨秋の女流アマ名人戦で、後手が入玉勝ちした対局を見ている。
 そのときは、将棋はまだまだ奥深いと感心したものだったが、自身は公式戦で試すことはなかった。矢倉九十一手組は、たとえ後手が勝つにしても、入玉するか受け切るかの二択になる。受けるより攻めるほうが好きな大和としては少々面白くない。
 しかし今指しているこの将棋は、まだ結論は出ていないし、先後ともに攻め合い勝ちが望める。プロが、そして奨励会員たちがこぞって研究しているのは当然だ。

【図は△8三飛打まで】
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 八十二手目、倉下が自陣に飛車を打ち下ろす。
 元いる飛車と並び、壮観な二枚飛車だ。一見、奇妙な光景だが、実に守備力が高い。
「ふっ――」
 倉下はやや前屈みになって、鬼のような形相で盤を睨みつける。
 これまでのプロ棋戦での結果だけを見れば、この形は先手の勝率がかなり高い。それでもあえて乗ってきたとすれば、相応の準備があると見て間違いない。
 ようやく公式戦では前例のない展開になった。ここからは、水面下でどれほど研究してきたかの勝負になる。将棋ファンはもとより、プロでもそうした研究将棋を好ましく思わない人はいる。「プロは研究が仕事で、対局は集金」などというブラックジョークもあるほどだ。
 しかし、将棋に貴賤はない。どんな手段で、どんな局面に至ったとしても、等しく価値のある一局。大和はそう信じている。それ以前に、何が何でも勝たなければならないのが三段リーグだ。
 機を見て、大和は十手ほど前に打ってあった桂をタダ捨てした。伊達との検討の中で見出された一着である。
 ここで初めて、倉下は数分の考慮に入った。
 予想外の手だったのだろうか? それとも困っているように振る舞い、相手を油断させようという目論見なのか。……後者はとてもありえそうにないし、そもそも引っかかるわけもないが、「この男はそんなことを考えているかもしれない」という思考が入ってくるだけで、煩わしいノイズだ。
 盤上没我。その境地には、まだまだ達することができない。いや、人間である限り、それは不可能なことではないのか。心を持たないコンピューターにでもならなければ……。倉下が指さない間、大和は益体もないことを考える。
 倉下の手が動いた。素直にタダ捨ての桂を取る、自然な応手。小考のお返しをすることはなく、大和も当然の継続手を指していく。
 そこからはペースを落としながらも、二十手ほど最善と思われる進行が続くが、やがて事前研究の範囲を超えた。
 詰みまで研究し尽くすことなど、当然ながら不可能だった。将棋がそんな簡単なゲームならば、とうの昔に廃れている。
 結局はどこかで妥協して、あとは自力で指していく。だが、倉下が自分よりもほんの少しだけ、先を研究していたなら……。
 否、それでも勝ち切る。大和は静かに闘志を爆発させて、幾分か強く、駒音を響かせた。
 百五十手目に到達。後手は入玉含みの玉上がりを敢行した。
 自玉はまだ安全だが……寄せの構図が描けない。持ち時間もあとわずか、最後まで最善の道筋を辿れるかどうか。
 しかし倉下のほうが、はるかに焦燥感を覚えているはず。勝てばプロに手が届くかもしれないのだ。上目遣いで覗いてみると、苦渋という表現がこの上なく適切な顔になっていた。目は激しく血走っていて、何度も唇を噛んでいる。ない髪を掻きむしって、坊主頭に赤い線ができている。
 持ち時間を先に失ったのは、倉下だった。これからは秒読みの中で指さなければならない。やはりこちらが精神的に有利。大和は心の中で断言する。
 そのとき――想像もできない異変が起こった。
 倉下が着手後、ものすごい勢いで立ち上がった。そして広間を飛び出していった。
 ――まさか、トイレ? この状況で?
 今は大和の手番だ。彼女が適当に指しただけでも、手番は倉下に移る。当然、その瞬間から容赦なく時計の針は進む。
 結果、彼は時間内に戻ってこられないかもしれない。人生を賭けた大一番を、時間切れで落とすかもしれない。たとえ間に合ったとしても、盤面をしっかり確認し、ろくに考える余裕はないだろう。とても最善手を指せるとは思えない。
 もちろん、大和にはなんの関わりもない話だ。来期の順位を少しでも上げるために、ここは勝たなければならない。
 そうはわかっていても――大和の手は動かなかった。
 こんな形で勝ちを拾っていいのか。勝ったとしても、恥ではないのか。
 ただの奨励会員なら、それでもいいだろう。だが、自分は――。
 ここに来て、奨励会員ではなく女流棋士であるという意識が先行した。
 四段以下はプロ未満。しかし――女流もまた先人たちが必死になって築き上げてきた、もうひとつのプロなのだ。しかも自分はタイトルホルダー。女流の頂点、代表なのだ! 決して恥ずかしい真似はできない――。
 大和は速やかにその選択肢を捨てた。じっと、この局面での最善手を探すことに集中した。
 大きな足音を立てて、倉下が戻ってきた。彼はまだ大和の手番であることを確認して、さすがに安堵したような表情だった。
 情けをかけたのではない。己のプライドの問題。大和は心の中で繰り返した。
 互いに秒読みの中、一進一退の攻防が続いた。だが、それもいつしか終わりを迎える。
 難局を制したのは倉下だった。最後の「ありがとうございました」は、得も言われぬ感情がこもっているように思われた。