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 終局後、猿渡が先に大広間を出た。大和はそれから少し間を置いて席を立った。
 ところが廊下に出ると、まるで待ち構えていたように猿渡がそこに立っていた。大和は一瞥しただけで通り過ぎようとしたが、彼が話しかけてきた。
「ものすごく失礼だろうが、俺も今日が最後だし、言わせてくれ」
「うん?」
「君は恵まれているよ。もし奨励会がダメでも、女流には復帰できるんだから」
 ――それは、自分以外の三段全員がひそかに思っていたことだろう。大和は冷静に猿渡の言葉を受け止めた。何も驚きはしなかったし、ショックもなかった。
 彼らにはそう思う権利がある。自分だって同じ立場だったら、そう思わずにはいられないだろうから。
 たとえこの先、年齢制限で退会を余儀なくされたとして、大和の将棋人生にぬぐいがたい傷が残ったとして――それでも将棋界にはいられるのだ。今日限りで奨励会を退会し、アマチュアに戻らざるを得ない彼とは、決定的に違う。
 知らないだけで、影ではもっと辛辣なことも言われているかもしれない。奨励会と女流棋士を掛け持ちできる現行制度自体を批判する人もいる。ファンや奨励会員だけでなく、プロの中にも。
 自分は確かに恵まれている。背水の陣とは縁がない。
 だが、すべて承知の上で編入したのだ。
 なんの影響もありはしない。この程度で指し手が鈍るようなら、それまでの人間だ。
 ごちゃごちゃと細かいことは考えない。四段に昇る。それだけが今の大和雲雀のすべて。
「ま、頑張ってくれよ。俺なんかのひがみは、あっさり跳ね返してくれ」
 猿渡はうっすら笑って背を向けた。
 去りゆく者にかける言葉はない。他者を気にかける余裕など、奨励会三段にあってはならない。
 屍を踏み越えて達するのがプロ棋士。それゆえの重みだ。
 やがて、最後の対局がはじまる。
 会館にはテレビカメラが入っていた。NHKの将棋フォーラムだ。後日、新しいプロ棋士誕生の特集が放送されるのだろう。その主役になれないことを、大和は残念に思った。
 だが、これからはじまる戦いは――おそらくは今期でもっとも注目を集める一局。
 本日にかける意気込みなのか、正面に座った相手は青々とした坊主頭だった。目つきは剃刀を思わせる鋭利さ。夜道で出会ったら、大半の女性は逃げ出しかねない。それほどの鬼気迫る表情だった。
 倉下龍太郎三段。二連勝すれば、他力ながら昇段という状況にある。
 彼は一局目を制したと小耳に挟んでいる。ライバルの星までは確認していないが、可能性は充分だろう。しかし、本局が注目を集める理由はそんなことではない。
 倉下は先月に二十九歳になった。勝ち越しを続けることにより、年齢制限を過ぎても満二十九歳までリーグ在籍が可能――その制度の恩恵を受け、諦めることなくプロを目指し続けた男が、ついに最後の戦いに臨むのだ。
 まさに勝てば天国、負ければ地獄。一方、今後負け続けたとしても問題なく女流に復帰できる大和。
 奨励会という世界では、こういったドラマのようなことが――将棋ファンに言わせれば――しばしば起こることは大和も知っていた。自分が当事者になることもあるだろうなと思ってはいたが、ずいぶんと早かった。
 だが、当人にとっては、ドラマでも何でもない。
 食うか食われるか。生きるか死ぬかの削りあいだ。
「お願いします」
 死闘の火蓋が切られた。