俺の棒銀と女王の穴熊〈4〉 Vol.6
☆
「なるほど、春張くんの不調はそういうことだったんですか」
「ま、今頃はなんだかんだで前向きになろうとしていると思うわよ」
「さすが幼馴染、よくわかってるんですね」
「ふふん、まあね」
帰宅後しばらくすると、依恋は紗津姫に電話をした。一応の報告のために。しようと思えば夏休み中にいくらでも機会はあったのだが、なんとなくこのタイミングになったのは、依恋自身も多少の心の整理が必要だったからだ。
「ともあれ、春張くんに告白したのはえらいですよ。やっと一手進みましたね」
「一手というか、半手くらい? そんな言葉はないけどさ。……ともかく、今度は紗津姫さんの番よ」
「はい?」
「紗津姫さん、部活じゃ言わなかったけど……言う必要はもちろんなかったけど、伊達名人からアプローチされたんでしょ。来是から聞いたわ」
「……ああ、知っていたんですか」
声のトーンがやや下がる。紗津姫にとって悩みの種であることが瞬時にわかった。
将棋で自分を超えたなら、来是の告白を受ける。紗津姫はそう明言している。
彼女もまた、来是に好意を抱いている。
だから悩んでいるのは、伊達があまりにも雲の上の存在だからではない。伊達と来是との間で揺れ動いているからではないのか……。
「春張くんは……なんて言ってました?」
「名人が相手だろうが何だろうが、俺は負けないってさ。……そこにあたしが割り込んだもんだから、あいつも混乱してるわけだけど。でさ、伊達さんと紗津姫さんは美男美女、しかも将棋界のトップと最強の女流アマじゃない。年の差はあるけど、お似合いよ。客観的に見れば」
「客観的に、ですか?」
依恋は大事な対局の前のように、気息を整える。
「紗津姫さんが伊達さんとくっついて、あたしは来是とくっついて、それで単純にハッピーエンド! にはならないってことよ」
「……依恋ちゃんは、彼と一緒になれれば、それでいいのでは?」
「あいつはね、あなたを追い越そうと懸命に努力している最中なの。なのに、その努力がまったく無駄になるってわかったら、どれほどショックを受けるかわからない。そんな来是は見たくないわ」
来是の棋力が紗津姫を追い越す。紗津姫は依恋への遠慮を捨てて、彼の告白を受け入れる。限りなく低い可能性だが……もしそうなったら、悔しいけれど、どうしようもない。依恋はすでにそう覚悟している。
しかし伊達名人の登場が、局面を大きくかき乱した。
「紗津姫さんの番ってのはそういうこと。名人のことをどう思ってるのか、はっきりしてほしいのよ。来是だって気になってるに違いないわ。……あいつにとって最悪のケースはね、『私は名人についていくから、春張くんは依恋ちゃんと一緒になってください』って言われることよ。あいつの努力を全部無駄にすることよ」
その瞬間に、来是の情熱は霧散する。紗津姫のハートを手に入れたい一心で将棋に打ち込んできたのに、どうあがいても勝ち目のない人に、横からかっさらわれてしまう。
結果、依恋は来是と一緒になれるかもしれない。でも、そんな棚ぼたで想いを成就させても、心から喜べない。
「だからね、あたしに遠慮する形で伊達名人を選ぶのは、やめてもらいたいの。後味が悪いのはいやなのよ」
「なるほど、よくわかりました……。依恋ちゃんはすごいですね。恋のライバルに対して、遠慮するのはやめてだなんて」
「紗津姫さんとは、将棋みたいに小細工なしの真っ向勝負をしたいの。その上で来是を手に入れるの。それがあたしの考えるハッピーエンドよ」
携帯の向こう側で、クスクス笑う声が聞こえた。
わざわざ難しい手を選んでいる。合理的ではない。自分でもそう理解している。
それでも碧山依恋にとっては、これが最善手なのだ――。
「……もう少し時間をくれませんか? 気持ちの整理に、まだしばらくかかりそうです」
「じゃあ、学園祭の日に答えを聞かせて」
「あら、どうしてその日に?」
「来是があなたに告白するつもりだから」
「え――」
「今まで一度もはっきりした言葉で伝えてないんでしょ? それが男として情けないって思ってるみたいでさ。だから紗津姫さんが二年連続でクイーンになる最高のタイミングで告白するんだって」
「ミスコン、ですか……」
出場すると明言していない紗津姫にとっては、またややこしい話かもしれない。
しかし、出てもらわれなければこちらのモチベーションにも関わる。
「さっきも言ったけど、紗津姫さんが出てくれないと張り合いがないわ。それにあたしがあなたに勝ってクイーンになれば、一気にあいつの心を引き寄せられるだろうし!」
「……その件も、しばらく考えさせてください」
「いいわ。そんじゃ、また明日ね」
長電話を終えて、依恋は全身の力を抜いた。ここまで自分のペースで紗津姫と語り合ったのは、もしかしたら初めてではないだろうか。
依恋に遠慮するのではなく、紗津姫は心から伊達のほうが好きになり、来是は眼中になくなった。――それも悪くない結末だが、きっとそうはならないだろう。あっさり決断できるなら、とっくにそうしているはずだ。
紗津姫は来是をとても気にしている。現学園クイーン、そして最強アマ女王の彼女からそのような感情を寄せられる来是が、むしろ自分のことのように誇らしかった。
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