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宿に戻ると、さっそく将棋を再開することになった。
「そういや、合宿ならではの特別コースがあるとか言ってませんでしたっけ」
金子が聞いた。紗津姫はこくりと頷く。
「それが午後からのメニューです。今まで教えなかった戦法を知ってもらおうと思います」
「新戦法っすか! なんか興奮してきた」
「きっと驚きますよ。摩子ちゃん、手本を見せていくので手伝ってください」
「うん! あなたたち、しっかり見ときなさいよね」
紗津姫と盤を挟めるのが嬉しいようで、出水はいそいそと正座する。一年生トリオがその横でじっと見物することになった。関根は後ろに立って見ている。
アマ女王と女流アマ名人が向かい合うその光景は壮観だった。ひょっとして自分たちは、全国で一番恵まれている将棋部員ではないだろうかと思った。
「これは先手番の戦法です。まず初手は▲7六歩。そして相手が△3四歩としてくれたときだけ成立します」
まずは普通の出だしからスタートするようだ……と思っていたら、次の指し手に度肝を抜かされた。
「三手目、▲8六歩」
「は? 何よそれ」
依恋が声を裏返らせた。来是も聞き間違いかと耳を疑った。
しかしこれで正しいのだと、紗津姫はよどみなくその手を指す。
「へえ、紗津姫ちゃんってばお茶目ね」
高段者の出水は、この謎の戦法について知識があるようだった。ふふふと笑っている関根も。
「な、なんですこれ?」
「角の頭にある歩を突き出す。だから角頭歩戦法っていうんだ」
関根の説明を聞いても、よく理解できない。それは今までに教わった将棋の常識から、あまりにもかけ離れていた。
【図は▲8六歩まで】
角は強力だが、前方からの攻めには弱い。うかうかしていると銀やら飛車やらが襲ってくる。だから角頭を守るというのは、将棋の序盤における基礎の基礎。絶対におろそかにしてはいけないポイントだ。だというのにこれでは――。
「依恋ちゃん、後手だったら次はどう指したいですか?」
「あたしは振り飛車しか指さないけど――こうなったら飛車先の歩を伸ばしてくわよ。攻め込んできてくださいって言ってるようなもんじゃない」
「ええ、この戦法を知らない人は、すぐにそう指してくると思います。そこが狙い目なんですよ」
依恋の言うとおりに、出水が飛車先の歩を伸ばした。
その瞬間、紗津姫が角交換を仕掛ける。
「え? いきなりっすか?」
「で、△同銀ね」
序盤における角交換は、仕掛けた側が一手を損している。後手は角を取りながら、銀を前に進めることができるからだ。
来是は――依恋も金子もそうに違いなかったが、もうわけがわからなかった。すでに先手がいいとは思えない。
「そして▲7七桂。これで基本図ですね」
不思議な手の応酬は、どうやらこれで一区切りらしい。
【図は▲7七桂まで】
こんな序盤で桂を跳ねるということも、普通はあり得ないが――よく見れば後手の飛車先の歩がこれ以上進入できないでいる。
「うーん、後手はいろいろ選択肢ありそうですけど、意外とどう指したらいいか迷うかも」
「でしょう? ほとんどの人にとっては未知の局面だと思います」
「部長、これってプロも使う優秀な戦法なんですか?」
「いんや、プロはまず使わないだろ。多少は例があるのかもしれないけど、公式戦でこんなの見た覚えがない」
「かの阪田三吉が、同じように角頭の歩を突いたとき、周りは気でも違ったかと思ったそうよ」
出水は楽しそうに言う。
プロは使わない。それもずっと昔からあまり優秀な戦法ではないと考えられていたようだ。だというのに、なぜ紗津姫はこんな戦法を教えようとするのだろう。
「要するに、奇襲戦法なんでしょ? 相手をビックリさせるのが目的みたいな」
依恋が少し疑わしそうな目を紗津姫に向けた。
「はい。ハメ手とか絡め手とか言われるものですね。とはいえ、対策を知らない相手だったら、かなり勝てると思います」
「ハメ手! 絡め手!」
金子のテンションが瞬時にマックスになった。また変なところでスイッチが入ってしまったようである。
「まあ、こんなんで勝てたら面白いとは思うけど……紗津姫さんって奇襲とかハメ手とか、そういうタイプじゃないと思ってたのに」
「将棋の戦法に、貴賤はありません」
紗津姫は限りなく優しく口にした。
「どれもが等しく、先人たちが苦労して考えた遺産なんです。それに、プロ間での採用率が皆無だとしても、私たちアマチュアには関係のない話じゃないですか」
「……確かにそうですね」
「勝ち負けは大事ですよ。でも将棋は自由なんです。こんな面白い指し方もあるってことを知ってもらいたくて」
なるほど、これは紗津姫の特別メニューに何よりふさわしい。来是の心からは、もはやこの奇想天外な戦法に対する疑惑が消えていた。
先入観に囚われることなく、もっと自由に。それは人生にも通じること。
「むふふ、私、これを本格的に覚えてみたいです! ハメハメしちゃいたいです!」
「じゃあ金子さんが先手を、春張くんが後手を持ってこの先を指してみてください」
「は、はい」
紗津姫が金子と、出水が来是と席を代わった。
手番は後手。下手な手を指したら、すぐさま出水から冷酷な視線が飛んできそうだ。
まったく未知の局面なので、最善手が何かわからない。だから直感で浮かんだ手をそのまま指した。
△8七角。次に△7六角成と、一歩せしめた上で馬を作ろうというたくらみだ。
しかし。
「んー、これってこうすればいいんじゃ?」
金子もまた、6五の地点に持ち駒の角を投入した。
【図は▲6五角まで】
「げ」
次に▲7八銀とされたら、せっかく打った角が死んでしまうではないか! 自分のアホさ加減に頭を抱えたくなった。
「今のは考えられるかぎり、最低の悪手ね」
辛辣すぎる出水の言葉に、反論のしようもなかった。
こうなっては角を助ける道はない。だから△6九角成と特攻したが、こんな序盤で角金交換してしまっては、先手有利は明らか。
なるほど、こうやって悪手を誘うのが奇襲戦法の真骨頂――来是は身をもって学んだのだった。
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