俺の棒銀と女王の穴熊【3】 Vol.10
出水との二連戦は、長い電車移動でなまっていた心身を完全に覚醒させてくれた。紗津姫との合宿初対局、いい感じにリラックスして臨むことができた。
そして来是は今、自分が明確に変わっていることを自覚していた。
人を伸ばすものは何か? それは喜びだ。
競技者ならば、勝利の味こそがさらなる飛躍をもたらす。来是は出水に勝ったことで、紗津姫にも負けはしないという自信を得ることができた。
結果、出水戦と同様に完勝に近い形で終局を迎えることができた。数多くの二枚落ち対局をこなしてきたが、まるでお手本のような流れだと自画自賛したくなった。
「あら、これはもう二枚落ちでは勝てそうにないですね。次から飛香落ちにしましょう」
「おっしゃ!」
両拳をグッと固める。唇が笑いの形に曲がるのを止めることができない。夏休みに入るまで、まったく勝つことができなかったのに。
これだから、将棋はやめられないのだ。自分の上達具合が、歓喜とともにわかる。
「依恋、そっちはどうだ?」
「……ちょっと黙ってて」
ピシッと駒を打ちつける。王手。しかし出水はすっと玉を滑らせてかわす。それでもう捕まえられないと判断した依恋は、速やかに投了を告げた。
「ああ、あとちょっとだったのに……!」
「そうね。ちょっと危なかったわ。ちょっとだけだけど」
勝ったというのに出水はまったく面白くなさそうだった。二枚落ちの練習将棋とはいえ、弱っちいと見下していた相手に肉薄されたのだ。どうやら彼女の想定よりも上の実力を、自分たちは身につけているらしい。来是はますます自信を持った。
「あなたたち、この春から将棋をはじめたばかりなんだってね? 出来不出来の差が激しいとはいえ、たいしたもんだわ」
「そ、そうでしょ? あたしの才能をもってすれば初段だってもうすぐ――」
「違うわよ。紗津姫ちゃんの指導力を褒めているの」
どうしても指している本人を褒めたくはないらしい。
もっとも、紗津姫の指導力あってこその今だということは、何の疑いもない。彼女以外の教えを受けていたら、ここまで早く上達できただろうか。
「ねえ紗津姫ちゃん、いっそのこと指導員になってみたら? そうすればプロじゃなくても、将棋の世界で働けるわ」
「え?」
それは紗津姫にとっても、思いもよらない提案だったらしい。目をパチクリさせていた。
「指導員って、要するにインストラクターですか?」
金子が聞き、関根が答える。
「三段以上……女性は二段でもいいんだったかな。免状を取得していて将棋連盟の審査をパスすれば、指導員の資格を持てるんだ。で、連盟公認の将棋教室を開けたりする。神薙だったらプロの推薦も得られるだろうし、余裕でなれるだろうな」
「そういうのがあるんだ。紗津姫さんに合いそうじゃない」
「指導員ってランクアップするんだぜ。連盟にその働きを認められれば普及指導員から棋道指導員に、さらに長年実績を重ねれば、棋道師範ってのになる」
「棋道師範? なにそれ、めちゃくちゃカッコいい!」
「へえー。でも確かに先輩って、先生が似合いそうですよね。教え上手だし、子供にも好かれやすそうだし」
金子の言葉に来是も全面的に同意する。これほど魅力的で礼儀正しい人なら、誰からも慕われる先生になれるはずだ。
紗津姫はプロ棋士にはならない。だが、プロだけが将棋に関わる道ではないはず。彼女は将来の進路をどうするのだろうと思っていたが、本格的にその方向で考えてもいいのではないだろうか。
「先輩は将棋の素晴らしさを世に広めたいんですよね? だったら将棋教室の先生ってぴったりじゃないですか」
「でも、ビジネスとしてやっていけるの? それって」
依恋が素朴な疑問を発した。紗津姫はうっすらと微笑んでいる。
「そもそも将棋の世界自体、あまり大きなビジネス市場ではありませんよね。将棋道場は一部を除いてどこも経営が厳しいようですし、指導員にしても、ほとんどの人はボランティア同然だと思います」
「でも紗津姫ちゃんは違うわ。きっとカリスマ指導員になれるわよ! 下手なプロよりお客を集められるわ」
「そうっすよ、生徒になりたがる人は大勢いますって!」
ちっとも気が合いそうにない来是と出水が意見を一致させた。紗津姫はそれがおかしいのか、笑い声が漏れないようにそっと口に手を当てた。その仕草もとても優雅だった。
「課題がいろいろありそうですが、選択肢としてはいいかもしれませんね。ふふ、そのときは春張くんを助手にするというのもありかも」
「え?」
「なんて、冗談です。春張くんは春張くんで、きちんと将来を考えないと」
「い、いや! 俺は全然それでも構わないですよ? 先輩と一緒に仕事するの楽しそうだし!」
つい勢い任せで言ってしまう。だが、そんな未来があるとしたら……。
そう、公私ともにパートナーになっているということではないか? 冗談というのは照れ隠しで、先輩は俺とそうなりたいと、遠回しに言ったのではないか?
想像する。初心者の子供たちから母親のように慕われる紗津姫。彼女を表から裏からサポートする自分。微笑みの絶えない教室。
そして終業時間になり誰もいなくなると、紗津姫はその爆乳をたわませながらしなだれかかり、私も子供が欲しくなっちゃいましたとか言ったりなんかしちゃったりして――。
「来是、今度はあたしと対局! さっさと準備して」
依恋が鋭い声を発すると、たちまち甘い想像が霧散していった。なんかやたらに闘争心が燃えている幼馴染に、先ほどの出水以上のプレッシャーを感じるのだった。
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