■2
昨夜は興奮しすぎてなかなか寝付けなかった。
いつもより早くセットした目覚まし時計に叩き起こされた来是だったが、完全に寝不足である。しかし集合時間に遅れるわけにはいかないので、何度も顔を洗って眠気を無理矢理吹き飛ばした。
簡素な朝食を取り、荷物を最終チェックしていると、インターホンが鳴った。来是は意気揚々と玄関に出る。
「準備はできてる?」
「おう。ずいぶん大きな荷物だな」
丈の短いワンピースを着こなし、健康的な太ももを露にした依恋。華奢な体に似合わない大きなボストンバッグを抱えていた。中身はほとんど着替えなのだろう。今の服と同じようなのが日数分詰まっているに違いない。
春張家の前に黒塗りの車が止まっている。碧山家自慢のベンツだ。依恋ママが運転席から手を振っている。
「車で送ってくれるのか?」
「合宿に備えて、少しでも体力を温存しないとね」
来是と依恋を乗せたベンツは、優雅に駅までの道を進んでいく。そんなに距離があるわけではないので、心地よい乗車体験はものの数分で終了した。
「おばさん、ありがとうございました」
「頑張ってねふたりとも」
「うん。お土産期待してて」
「本当に頑張りなさいよ、依恋。せっかくの合宿なんだから」
ウィンク&サムズアップする依恋ママ。そして車はさっさと離れていった。
「なんで顔を赤くしてるんだ?」
「べ、別に」
ふたりは電車を乗り継ぎ、集合場所の東京駅に到着する。
有名な待ち合わせスポットである「銀の鈴」に向かうと、すでに彼女は待っていた。遠くからでもその存在感は際立っていた。
「おはようございます!」
「おはようございます。これから四日間、張り切っていきましょうね」
紗津姫は通気性のよさそうな半袖ブラウスとロングスカート。すらっと伸びる細い腕と豊満なバストの対比に目を奪われてしまう。
私服の先輩と三泊四日。誰も見ていなければ踊り出しているところだ!
「依恋ちゃん、この合宿が勝負ですよ」
「……わかってるわよ」
「ん、勝負って何のことだ?」
「こっちの話よ」
「ふうん」
それから関根部長と金子がやってきて、最後に顧問の斉藤先生が姿を見せた。
「お、全員集まってるな。じゃあ行こうか」
普段はろくに顔を見せないが、さすがに学生だけで合宿するわけにはいかず、引率役として同行するのである。
来是は前々から、この名ばかりの顧問の存在が気になっていた。紗津姫がいる以上は指導者としての役目は期待しないが、せめてもっと将棋部が盛り上がるように動いてくれてもいいのではないか。
「先生もこれを機会に将棋を覚えたらどうです? 将棋はやらないってことは聞いてますけど、面白いですよ」
「私はチェス派なんだ。あいにく、新しく将棋を覚えるほどの余裕はなくてね」
予想の斜め上の答えだった。
「チェスですかあ。でも似てますよね? 将棋と」
金子が聞くと、斉藤先生は即座に否定する。
「チェスと将棋はまさに似て非なるものだよ。でも将棋を知っていて手の空いている先生が誰もいなかったから、せめてチェスを知っている人間ならいいだろうと、私に白羽の矢が立ってしまった。役に立たない顧問で悪いがね」
まさかそんな理由で顧問になっていたとは。紗津姫と関根はとうに事情を知っていたようで、何のコメントも発さなかった。
「チェスだったらいくらでも教えてやれるぞ。セットをひとつ持ってきたし、どうだ」
「ま、まあ気が向いたら」
発車時刻が間もなくに迫り、将棋部一同はホームへ移動した。出発を待つ東海道線に乗り込む。あとは乗り換えなしで一路西へ向かうのだ。
来是は個人で遠出をしたことはほとんどない。ボックスシートを目にしただけで、いかにも旅行をしている気分でワクワクしてくる。
「俺、窓辺な!」
「まったく子供なんだから」
四人掛けのボックスシートに来是、依恋、紗津姫、金子が座った。関根と斉藤先生はその反対側のシートだ。
「さて、到着まで何をして時間をつぶそうかな」
「私は本を読んでますね。読書感想文の宿題用の」
金子はムフフ笑いしながら、耽美な表紙イラストの新書を取り出した。何の本かは聞くまでもない。
「BLの読書感想文ってあんた……」
「別に本の種類は問わないって言われましたし。それよりこのタイトル見てくださいよ。『俺が金でお前が玉で』――なんと将棋をテーマにしたBLですよ! この二文字に惹かれるBL作家がきっといるかと思ってたんですが、まさかこんなに早く出てくれるとは!」
……ちょっと興味が湧いてきてしまった。しかし間違っても表情には出さないようにして、来是はさっさと話題を転換する。
「去年の合宿ってどういう感じだったんですか」
「練習対局、詰将棋、プロの棋譜鑑賞、だいたいこの繰り返しです。部活でやる内容をさらに濃い密度でっていう感じですが、合宿ならではの特別コースもありますよ」
「へえ、どんなのです?」
「それは着いてからのお楽しみということで」
紗津姫も読書をするつもりらしく、本を取り出した。将棋関係かと思ったら、昔の文豪の小説だ。
「先輩ってそういう小説が好きなんですか」
「ええ、それに美しい日本語に触れるにはこういうのが一番ですから」
電車が出発する。ゆっくりと車体が動き、窓の外の風景が移り変わる。
来是は真正面に座る紗津姫を眺めた。すらっと背筋を伸ばし、穏やかなたたずまいで文庫本に目を落としている。美しい日本語をゆっくりと味わいながら、静かにページをめくる。同じ読書でも、BL本でニヤニヤ状態の金子とはえらい違いだ。
先輩は何をしても絵になる――この合宿で彼女の新しい姿を次々と見ることができそうで、来是の期待は超新星のように膨らんでいった。
「……ねえ来是、肩を貸して」
「はい?」
依恋がよくわからないことを言った。
「昨夜、あまり寝てないの。ちょっと眠いから枕になって」
「な、なにぃ?」
文句を言う間もなく、依恋は来是に寄りかかった。さっさと目を閉じて体重を預けてくる。
なんでちゃんと寝ていなかったんだとは言えなかった。よく眠れなかったのは自分も同じなのだ。普通にシートに寄りかかれとも言えない。強引にはね除けたら冷たい男のように思われてしまう。紗津姫の前でそんな行動は避けたい。
「ふふん、碧山さんも緊張して眠れないなんてことがあるんですねえ」
金子は何だか嬉しそうだった。
「ふあ……」
大きなあくびが出た。
あろうことか、依恋の寝顔を見ていたら自分まで眠気がぶり返してきたようだ。
「着いたら起こしてあげますから、春張くんも眠ったらどうですか?」
「ん……それじゃあそうします」
やがて車窓に広がるだろう海の景色を見逃したくなかったが、あとに差し支えてもまずい。おとなしく寝てしまうことにした。
さすがに肩を寄せ合うような真似はできないので、ごく正常な姿勢で目を閉じる。
……依恋の体重は別に負担ではなかった。何かいい匂いもして、来是はすぐに眠りに落ちることができた。
コメント
コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。