俺の棒銀と女王の穴熊【2】 Vol.13
食事が済み、しばしお腹を落ち着かせたら、勉強を再開する。来是が不得意にしている数学だ。基礎問題はどうにかなるが、応用問題となると、途端に頭がこんがらがってしまう。午前の英語以上に、依恋に助けを求める頻度が高くなった。
「あー、数学なんて何の役に立つんだ? 科学者とかプログラマーとかになるなら、きっと必要になるんだろうけど、今のところそんな目標はないし」
「何の役に立つかなんて、どうでもいいのよ」
「どういうこと?」
「学校の授業って、内容よりも問題に取り組む姿勢そのものを身につけさせるためなんだと思うわ。やりたくもない問題をやらなきゃいけないなんて、大人になったらきっと日常茶飯事よ」
「私もそう思います。まだ学生の私たちにはわかりませんけど、世の中は思っている以上に難しいはずです」
「ははあ……なるほど。そんな風に学校の授業を考えたことはなかったなあ」
最低限の雑談も加えながら、勉強タイムはゆるやかに流れる。
依恋は意外なことに「少しは自分で考えなさい」などと文句は言わず、わからないところは丁寧に教えてくれる。おかげでずいぶん飲み込めてきた。
こんなに面倒見がよかったっけ。もしかしたら先輩を見習っているのだろうか。昔から強気な部分ばかり見てきただけに、来是は少しこそばゆかった。
「おやつの時間ですねえ。お菓子持ってきてるんですけど食べます?」
午後三時を回ったところで、金子がバッグから飴玉やチョコレートの袋を取り出す。そこで来是が提案した。
「なあ、ここらで息抜きに将棋をするのはどうだ? 甘いものを食べながらさ」
依恋が教えてくれるのはありがたいが、やはり紗津姫にも教わりたい。勉強が無理なら、せめて将棋で。その欲求が風船のように膨らんでいた。
「息抜きね。まあいいんじゃない」
「なら依恋ちゃん、和服の着こなしを教えてくれませんか? 和服で将棋盤の前に座るのが夢でしたので」
「いいわよ。金子さんはどう?」
「ぜひぜひ! とても似合うとは思いませんけど、一生に一度は着てみるのもよさそうです」
「じゃあ、あっちの部屋で。ママにも手伝ってもらうわ。来是は盤を用意しといて。あとお茶もね。三十分くらいで戻るから、そのタイミングで淹れてよ」
「あいよ」
女子三人は別の部屋へと移動していった。
来是は言われたとおりにいったん机を片付けて、隅に安置されている六寸盤をセットする。ずっしりとした重量感が素晴らしくも恐ろしい。駒と合わせて軽く二百万円はする高級品なのだ。普通なら触ることすらできない。
こうして見ると、盤駒というものはまさに芸術品だ。職人が丹精込めて、想像もできないほどの労力を傾けて、ひとつひとつ作り上げる。日本が誇る宝だ。こんなにいいもので将棋を指せるのだから、依恋には感謝しなくてはいけない。
それからキッチンに向かい、玉露と印字された袋を見つけた。しかしまだお湯を沸かすタイミングではないので、のんびり待機する。
和服の着付けには時間がかかる。だから忙しい現代社会には合わなくなり、特別な日でないと着ることはなくなってしまったのだ。自分だって、機会がなければおそらく一生着ることはないだろう。
そう考えると、特別な日でもないのに和服で登場した依恋は不思議だった。お客を迎えるから張り切ったと依恋ママは言い、なるほどと一応は納得したが……本当にそうだろうか?
――女の考えることはよくわからない。結局来是は、そんな安易な結論で締めることにした。
「そろそろいいかな」
お湯を沸かし、袋の裏に書かれた「おいしい玉露の入れ方」を入念にチェックして、四人分のお茶を淹れる。間違ってもまずいものを紗津姫に出すわけにはいかない。
和室に引き返すと、遅れて女性陣も戻ってきた。
「お、おおお?」
この季節によく似合う爽やかな空色の生地。袴は彼女の成熟性を現したかのような紺色。何よりも内側からにじみ出る大和撫子の香りが、着物というアイテムを得て、いっそう強く発散されていた。
「ど、どうでしょう? 似合ってます?」
初めての和装に、さしもの紗津姫も興奮しているようだ。顔を赤らめながら尋ねるその仕草に、心臓が破壊されそうだった。
「き、綺麗です! もう、本当に綺麗で」
「うんうん。こんなに見事な和服美人、そうはいませんよねー」
金子の着物は紗津姫と対を成すような黄色で、こちらもよく似合っている。彼女も決して不美人ではないのだが、紗津姫との存在感の違いは歴然だった。
「本当ならもっと綺麗になるのよ。胸が大きい人は補整下着を使ってスマートに見せるんだけど、あいにく合うサイズがなかったから」
依恋ママが言った。紗津姫は実に照れくさそうだ。
見れば、彼女の豊乳が帯の上にたっぷんと乗っかる形になっている。着物の常識では好ましくないらしいが、これはこれでグッドだと来是は思った。
「あ、あの、写真撮ってもいいですか? 記念に」
「お願いします。あとで送ってくれますか?」
「はい!」
携帯を構えて、何度もシャッター音を響かせる。いわゆるカメラ小僧の気持ちが、よくわかる気がした。撮影せずにはいられない、魂にまで訴えかけてくる美しさ。これが真の大和撫子! ミスユニバース日本代表にもなれる!
「……し、しまった。あいつ、紗津姫さんにすっかり夢中じゃない!」
「ああ……これは疑問手ってやつでしたか」
依恋と金子の言葉は、来是にはまるで聞こえていなかった。
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