br_c_1403_1.gifbr_c_1752_1.gif

     ☆

 将棋を覚えて初めて味わったのが、脳が燃焼するという感覚だった。
 人間の脳は何割かが常に働いていないといわれるが、その部分が強引に叩き起こされて稼働しだすような感覚があるのだ。学校の勉強などよりもずっと脳が熱くなり、見えない汗を掻いているような。
「だからプロの対局でも、タイトル戦ではおやつが提供されるんです。盤を睨みながらケーキを頬張って栄養補給して、次の一手を考えるんですよ」
「わりとシュールな光景ですね、それ。ごちそうさまっした」
 こってり美味しいミックスピザは、すぐに平らげられた。頭蓋骨の内側に新鮮な血液が巡る。失われた脳の栄養を取り戻すのに、これもとてもいい食べ物だったようだ。
「将棋の勉強は、もう少し休憩してから再開しましょうか」
 紗津姫はそう言いながら、ティッシュで口元を拭く。何気なさそうな仕草も、紗津姫の手にかかれば貴婦人のように優雅になっている。
 このミニ合宿で、どれほどこの人の新しい面を見られるんだろう。来是はまるで修学旅行のようにテンションが上がり続けている。
「じゃあ、テレビでも見るか。何か面白い番組あるか?」
 依恋がテレビのリモコンを操作するが、興味を惹かれる番組はないようで、チャンネルを高速で切り替え続けた末にさっさと電源を消した。
「ろくなのやってないわね。土曜の昼なんて、こんなもんでしょ」
「じゃあいっそ、昼寝でもするか」
「昼寝ってあんた……」
「いいと思いますよ。ほんのちょっとのお昼寝は、頭をスッキリさせる効果があるんです。実は私も、休日はよくお昼寝してます」
「よし、決まり!」
「う……」
 急にモジモジする依恋に、来是は小首を傾げた。
「どうかしたか?」
「ふ、普通、女の子と一緒にお昼寝しようなんて言う? そんなの恥ずか――」
「一緒なんて一言も言ってないぞ」
「……」
 しまった、といった顔つき。
「なんだお前、俺と一緒に昼寝するつもりだったのか? 幼稚園児じゃあるまいしー」
「う、うっさーい! あたしは部屋に戻る!」
 依恋はバタバタとリビングを出て行き、階段を上る音を響かせた。紗津姫はクスクスとおかしそうに息を漏らしていた。
「幼馴染って、いいですね」
「何がです?」
「それより、春張くんはどうしますか?」
「俺はあそこの畳でいいです。先輩はそこのソファを使ってください」
「ではそうします。三十分くらいしたら、午後の部を始めましょうね」
 来是は和室に入り、ふくいくとした畳の上に寝転がった。
 ……。
 …………。
 ………………。
 頭が冴えて、ちっとも眠れない。
 理由は明白だった。目と鼻の先で、紗津姫が昼寝をしているのだ。その姿を思い浮かべると、アドレナリンだかなんだかが分泌しまくって眠気を弾き飛ばしてしまう。
 ならば次の一手、最善手は他になかった。
 音を立てないように、こっそりリビングに引き返すと……。
「ぬおお……!」
 思わず声を上げそうになる。
 両手をたおやかにお腹で組み、紗津姫はまっすぐな姿勢でソファに横たわっていた。
 聖母のような寝顔。耳を澄ますと、穏やかな寝息が聞こえる。どうやら完全に睡眠状態のようだった。
 その呼吸に合わせて、ゆっくりと上下している彼女の豊かな山。
「……」
 もうちょっと近寄ってみるべきだろうか。
 そう、遠くから絶景を眺めるより、険しくとも中に入り込んでこその山なのだ。そして俺は将棋で思いきり行くことの大切さを学んだ! 行かずして何とするか!
 というわけで来是は抜き足差し足、その魅力的な嶺に接近していく。
 薄いブルーのワイシャツの中に窮屈そうに収まっている様子が、むしろ脱いでいるよりもセクシーだ。ストレートに言えばエロい。いやエロすぎる。ボタンが今にも弾け飛びそうなのが、また究極にして至高だった。
 こっそり携帯のカメラで撮ってしまおうか。でもきっとシャッター音で起きちゃうだろうな。あれを消す方法ってないのかな……などと不埒なことを考えていると、鋭い叫び声が上がった。
「ちょっと、何をやってるのー!」
「おおう?」
 自室で昼寝していたはずの依恋が、こめかみに青筋立てて急接近してきた。
「あ、あんたって人は、紗津姫さんが寝ている隙に……!」
「べ、別に何もしようとはしていませんコトヨ?」
 我ながら白々しい返事だった。
「ていうかお前こそなんだよ! 足音も立てずに入ってきて! 忍者か!」
「べ、別にいいでしょ! あたしがあたしの家でどう動こうが!」
「ん……どうかしましたか?」
 紗津姫が目をこすりながら、ふんわりと身を起こす。たったそれだけの動作で胸がプルンと揺れた。また見とれていると、依恋に頬をつままれた。
「何でもないから! もう昼寝は終わり!」
「いだだ! 引っ張るな!」
 そんな幼馴染たちの賑やかさに、また紗津姫は微笑を浮かべていた。