俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.7
☆
結局その後、五回も相手をさせられた。
成績は来是の全勝だった。ヒヤッとさせられることもなく、いずれも危なげない勝利で、最後になると依恋は泣きっぱなしだった。
なまじ敗北を知らない人生を送ってきただけに、負かされることへの耐性がないのだ。今まで知らなかった一面を見られたなあと思うと同時に、どうしようもない疲労感が襲ってくる。
「お疲れ様でした。ちょうど部活の終了時刻ですね」
紗津姫が掛け時計を見た。もう五時半、春の空はだいぶ暗くなっていた。
依恋と対戦するだけで、入部初日は潰された。先輩に手取り足取り指導してもらうぜ! という野望はいきなりつまづいてしまった。
「今日限りだからな、こんなのは」
「ふんっ! つ、次は勝つんだから……!」
「大丈夫ですよ。これから時間はいくらでもありますから」
「そういうこった。頑張れよ」
途中から来た関根部長も、自分は一切駒に触らず、紗津姫と並んでじっと新入部員の対局を見守っていた。
「それに、負けず嫌いは上達に欠かせない素質だよ。そういう意味じゃ、碧山さんは天性の将棋指しかもしれないねえ」
「そ、そうでしょ? そうなのよ。来是なんかすぐに追い越してやるんだから」
意外と単純な依恋だった。
紗津姫や関根から教わり、一日一回は依恋の相手をする――あと、それとなく恋のアタックも。来是は頭の中で今後の活動方針を立てた。真剣に取り組んで、実りある時間にしようと意気込む。
と、思いついたことがひとつ。
「今後の目標とかは、何かあるんですか?」
「高校生限定の棋戦が、いろいろあるんだ。毎年、できるだけそういうのに参加するようにしている」
「へえ。ちなみに去年は……」
「うちは神薙しか有段者がいなかったから、団体戦はまるでダメ。個人戦も神薙以外はろくに活躍していないよ。今年もそんな変わらないかねえ」
お寒い状況だというのに、関根はあっけらかんとしている。そこまで勝負にこだわりはなく、楽しんで指せればそれでいいというタイプなのだろう。
「ま、一番近い目標は大蘭(たいらん)との新年度交流戦だな。毎年四月の終わりにやるんだよ」
「他校との交流戦ですか?」
頷いて、紗津姫が説明する。
「一駅先にある私立大蘭高校。かれこれ二十年くらい、将棋部の交流戦が行われているんです」
「去年はどうだったんですか?」
「神薙だけが勝った。それも楽勝じゃなかったよな」
「僅差でした。一歩間違えれば負けていました」
アマ女王の紗津姫に肉薄するほどの実力の持ち主……そんな高校生がいたのか。先輩も圧倒的王者というわけではないのだなと、来是は思った。
「で、だ。交流戦は三人一組でやるんだよ。だから君らのうち、どっちかを起用しなきゃならないんだが」
「だったらあたしが出るわ!」
「勝手に決めるな!」
今日連敗しまくったことは、すっかり頭から消えているようだった。
ふと、気になることがあった。
「レギュラーの可能性が高いってのはありがたいですけど、不思議ですね。神薙先輩ほどのスターがいるなら、憧れて入部するって生徒も多いんじゃないですか?」
「俺もそう期待したんだけどな。アマ女王のニュースは、学校中で話題になったし。でも誰かに憧れるだけで将棋をやろうって人は、なかなかいないってことだろ。他にも面白いもんがいくらでもあるわけだし」
他に面白いもの……スポーツ、ゲーム、ショッピング。あるいは恋人とのデート。
それらに比べて、将棋が地味で派手さにかけることは、来是も否定できない。
だけど……。
「俺、初心者中の初心者ですけど……人が大切にするべきものが、将棋にはたくさん詰まっているって思います。神薙先輩が教えてくれました」
「まあ、嬉しい!」
紗津姫は声を弾ませた。
「春張くんのような人がもっと来てくれるよう、宣伝活動もしっかりしないとダメですよね。何が足りないのでしょうか。掲示板のポスター貼り競争に負けてしまったのは痛かったですね……」
「勝って勝って勝ちまくるのが、一番いい宣伝ですよ! 勝利がすべてじゃないことはわかってますけど、やっぱり負けるよりはいいですし。まずは交流戦での勝利を目指しましょう」
そう言うと、紗津姫は見る者すべてをとろかすような柔らかい笑みを浮かべた。
「楽しみですね。それまでに春張くんも碧山さんも、たくさん練習しなくては」
「今月末でしょ? あと三週間もあれば充分よ。レギュラーはあたしのものだわ」
「ほー。今の言葉、忘れるなよ。きっと吠え面かかせてやる」
盤と駒を片付けて、忘れ物がないかをチェックして、部室を出た。他の部もほとんど活動終了しているようで、部室棟はとても静かだった。
自分たちの足音だけが響く。そして憧れの先輩がすぐ側を歩いている。至福のひとときだった。
「では、さようなら」
「はい、さようなら!」
校門を抜けたところで、先輩ふたりと別れた。ゆるやかに手を振る紗津姫を見送りながら、来是はしばらく鼻の下を伸ばしていた。
「ああ、帰り道が一緒じゃなくて残念無念だ」
「これから三年間、将来クイーンのあたしが一緒に帰ってあげるわよ。ありがたく思いなさい」
「ありがたみも何もないよ。幼稚園の頃からずーっとなんだし」
「……バカね。何気ないことが、本当は一番ありがたいことなんだから」
温かい夕暮れの道をてくてく進む。
彩文学園は家から歩いて行ける距離にあるという理由だけで受験した。日本文化云々という校訓はまったく知りもしなかったが、今となっては彩文に入学して心からよかったと思っている。とても充実した通学路になりそうだった。
「あ、あのさ? 紗津姫さんって部長とデキてるってことはないかな」
「……な、なんだよそりゃ」
唐突すぎて、返事に迷ってしまう。
「そんな素振りは全然見せてなかったぞ」
「あたしたちの見てないところじゃ、どうかわからないじゃない。あんたよりずーっと一緒に活動してたんだし、わりと顔はいいほうだし、そういう関係になってもおかしくないでしょ」
「うーん……」
部内交際はよくある話だ。というか、来是自身そうなるように頑張ろうとしているのである。
近いうちに聞いておかなければならないな、と来是は決意した。幼馴染の意味ありげな視線には気づかないままで。
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