俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.25
☆
今日から梅雨入り、土曜日の朝はそんなニュースで幕を開けた。空は一片の隙間もない灰色模様で悪い予感がしていたが、午後になると案の定ぱらぱらと雨が降り始めた。しかし将棋ファンはそんなことで足が遠のきはしない。来是はそう確信しながら家を出た。
そして桃色の傘を差した依恋と遭遇した。
「何やってんだ?」
「お店、一緒に行きましょ」
「あのな、関係者じゃないのに開店前に入れるわけないだろ」
「お願いすれば入れてくれるんじゃないかしら?」
いちいち説得するほうが面倒そうだった。来是は溜息をつきながらさっさと歩きはじめる。
「高遠先生に断られたら、素直にあきらめろよ?」
「りょーかい」
電車に乗ると、さっそくスマホで棋聖戦の棋譜をチェックする。伊達清司郎棋聖に挑戦しているのは、我那覇敬(がなは・たかし)六段。驚くべきことに、伊達と三度対局して無敗という成績を誇っている。その特徴的な苗字も相まって、大いに期待されている若手のひとりであり……。
「棋譜を見るのもいいけど、あたしも見てよ。可愛いでしょこの服」
「ああ、可愛いよ。モデルみたいだ」
「もうちょっと感情込めてよ」
「超可愛い」
「えへへ、ありがと」
揺られている間、依恋はささいなおしゃべりをずっと続けて、来是は棋譜を見ながら適当に相槌を打った。
素っ気ない返事をしたものの、今日の依恋のオシャレは認めざるを得ない。ちょうど梅雨を意識したような、ライトブルーの水玉ワンピース。傘の桃色、加えてノースリーブが強調する肌色との相性が抜群だ。私服のセンスでは、完全に紗津姫より上だと言わざるを得ない。ついそんなことまで思ってしまう。
どんな季節でも、依恋は魅力的だった。直視するとたちまち集中できなくなるくらいに。
「あら、今日は彼女と同伴?」
将棋カフェ・タカトーに到着すると、店主はわざとらしい微笑みで迎えた。
「彼女じゃないですって。無理矢理一緒に来たんですよ。店を開けるまで外で待ってくれって言ってやってください」
「この雨の中? そんなの可哀想じゃないの。遠慮しないで、座って待ってていいわ」
「感謝いたしますわ」
どうやらそんなことまで計算尽くだったらしい。しとやかな所作で、ちゃっかり大盤に一番近い席に座る。
「ふふ、雨の喫茶店って、雰囲気いいですよね。コーヒー片手に、濡れた窓ガラスの向こうを見ながら、好きな人に思いを馳せるとか」
「わかってるじゃない。そういう乙女たちにたくさん来てもらいたいのよ。もちろん男子にもね。春張くんは、そこんとこどう?」
「……どうでしょうね」
来是は紗津姫のことを頭に思い浮かべた。するとタイミングを合わせたように高遠は聞いてくる。
「神薙さんにも好きな人っているのかしら?」
「ど、どうでしょうね」
「いたとしたら、ショックを受ける人も多そうねえ」
ニヤニヤしている。自分が先輩を好きなこと、とっくに感づかれているかもしれない。女性というのはいつになっても恋愛に、それも他人のに興味があるものなのだろうか。来是は何だかむず痒くなった。
「で、その神薙さんは元気?」
「……今日はLPSOのイベントに呼ばれてるんです。あっちもちょうど始まった頃かな」
「へえ、そうなの。……LPSOの人たちとは、あまり一緒になる機会がなくてね」
「やっぱり組織が違うと、そうなるものですか?」
「同じ女流棋士なんだから、もっと交流するべきと思うのよ。このままじゃまずいなって思って、今日は財部さんを呼ぶことにしたわけ」
「なるほど」
女流棋戦の中継サイトで、最近ではNHKの将棋講座で。今まで画面越しにしか見たことがなかった財部瑠衣女流初段が、ちょうどそのときベルを鳴らした。
「こんにちは。財部です。今日はよろしくお願いします」
「よろしくね。まずは一杯ごちそうするわ。コーヒーと紅茶、どれがいい?」
「いえそんな、お気遣いなく。こうしてお仕事をいただけるだけで、もう本当にありがたくて」
今年二十歳になるという財部瑠衣は、実際に見てみると素朴というのが第一印象だった。シンプルに一本にまとめたロングヘアー、無地のベージュのカーディガンと紺色のロングスカート。必要以上に着飾ることはなく、それ以上ないほど似合っていた。先輩とタイプが近いかも、なんて思った。
「バイトの春張です。はじめまして」
自己紹介すると、財部は大きな目を瞬かせた。
「春張……すると彩文将棋部の人、ですか? いつもブログ見てます」
「おお、そうなんですか」
うちのブログ、プロの人たちもたくさん見てるんだよな。地道な更新を続けている自分をちょっと誇らしく思った。
と、財部の視線が依恋に向けられた。その瞬間、彼女の体は電撃が走ったように震えた。
「……も、もしかして?」
「ん?」
「碧山依恋さん? うわ、生で見られるなんて感激です……!」
「ちょ、え……?」
熱く両手を握られて、さしもの依恋も戸惑いを隠せない。
それはまるで、憧れのタレントに出会った少女のようで。
「ファンです! 年下なのに、こんなにカッコ可愛い子がいるなんて、すごく衝撃で」
「あ……ありがとうございます。やだなあ。あたし別に芸能人でもないのに」
「でも、もうすぐなるかもしれないんですよね? JKミスコン、応援してますから」
「ど、どうも」
「なんだか元気が出てきましたよ。よーし、頑張らなきゃ!」
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