放課後になると、依恋はここ最近見たことがないほど上機嫌になっていた。何かいいことでもあったのかと聞いてくるクラスメイトに、彼女はいよいよ秘めたる野望を打ち明ける。
「マジー? そのミスコン、すっごい注目してたんだ!」
「さっそくフォローさせてもらうね!」
「碧山さんなら、いい線どころかグランプリ狙えるぜ」
「だよな。碧山さん以上の女子は、そういないだろ」
女子だけでなく、男子も依恋の壮大なるチャレンジを応援している。
ただでさえ人より輝けるのに、応援されて、なおいっそう光を放てる。依恋はきっと、そういう星の下に生まれたのだ。
「んじゃ、新聞部までご足労願えるかな」
「りょーかい! 悪いけど部活遅れるって紗津姫さんに言っといて」
「ああ……」
浦辺と一緒に、依恋はウキウキと教室を出て行った。
取材は長引いて、遅れるどころか休むことになるかもしれない。部室に向かった来是は、とりあえず事情をそのまま伝えたが、ここでも大騒ぎが待っていた。
「なんですって! その取材風景、ぜひ私も見学させてもらわなければ!」
「山里さん、ちょい落ち着け」
「だって、新聞ができるの待ちきれないですよ! みんなだってそうでしょ?」
「う、うん。またとない機会だよね」
「碧山先輩がどんなにいい人か、うちらの口からお話すればさ、取材に協力できそうじゃない!」
山里を筆頭に、すっかり興奮しきっている一年女子たち。新聞部の邪魔になってしまうとか、そのあたりの考えはまるで頭にないようだった。
「……どうします?」
紗津姫に目配せしてみると、彼女は予想外のことを口にする。
「いっそ、今日は部活はお休みしましょうか。依恋ちゃんの取材を見に行きたい人は、どうぞ行ってください」
「い、いいんですか?」
「たまにはこういう日も、あっていいかなって」
三分と経たぬうちに、すべての一年生が部室から姿を消した。そんなことより将棋をしていたい――なんて言われるのも微妙な感じがするし、確かにこういう日があってもいいかもしれない。依恋が愛されている証拠だ。
「金子さんも行くのか?」
「まあ、せっかくですし。春張くんは?」
「俺は遠慮しとくよ。新聞ができるのを楽しみにしとく」
「いやー、それにしても驚きですね。去年の学園祭のミスコンとは、わけが違いますもん。まさに全国ナンバーワン美少女を決める戦いですよ。先輩はJKミスコンのこと知ってました? 私はまったく知らなかったですけど」
「同じくです。そういうコンテストがあること自体、知りませんでした。知らない人のほうが、女子高生としては珍しいのかもしれませんね」
「BL女子部門とかあれば、エントリーしたのに!」
「未来永劫、そんなのはできないと思うぞ」
金子も新聞部へと向かっていった。
いつものように、紗津姫とふたりきりの夕方。しかし今日は、充分に時間がある。
よく考えてみれば、部活は休みになったが帰る必要はない。紗津姫と個人的に対局できる、またとないチャンスではないか。彼女も断りはしないだろう。
と思っていたら爆弾が炸裂した。
「来是くん、よかったら……私の家に来ませんか?」
「……はい?」
「私の家に……来ませんか?」
小鳥のさえずりのように甘い声。紗津姫の頬は、少しばかり赤みを帯びている。自分の頬はそれ以上に赤いだろうし、全身がにわかに硬直してきた。
「ど、どど、どうして?」
「明日のフレッシュカップに備えて、トレーニングしたいと思って。今の来是くんなら、私も全力を出せそうですし」
紗津姫が登場する女子将棋フレッシュカップは、いよいよ明日土曜日に迫っていた。プロが相手なのだから、前日にしっかりとトレーニング。なるほど理由は真っ当なものだが、それならこの部室で充分……。
「喜んで、お邪魔します!」
将棋とは別の理由で、誘ってくれた。そんなことがわからないほど、野暮でも朴念仁でもない。堂々と、背筋を伸ばして行かなければ、何が男だろうか?
ふたりは学校から少し離れたバス停まで歩いて、ちょうどやってきたバスに乗り込んだ。窓から流れる景色は、何の変哲もないはずなのになんだか新鮮だった。
およそ十分揺られてバスを降り、静かな住宅立ち並ぶ一帯へと進む。やがて紗津姫は青い屋根と白い壁の、綺麗な一軒家の前で立ち止まった。
神薙、と表札が掲げられている。ここが愛する人のお宅かと思うと、腹の底がキュッと引き締まった。
「ええと……ご家族はいらっしゃるんで?」
「この時間なら、母がいると思います」
……誰もいないから誘ってくれたのだとばかり思っていた。親のいる家に男子を連れ込む。どう思われるか、紗津姫も充分理解しているはずだ。もちろん部活の後輩だと紹介するのだろうし、自分もそう言うつもりだが、どう深読みされるかわかったものではない。
うだうだと思考しているうちに、紗津姫は玄関の扉を開いた。ただいま、と学校では決して聞いたことのない彼女の声に、耳の奥をくすぐられる。
奥の間から、その人は姿を見せた。
「おかえり、紗津姫。……あら?」
「はじめまして! 神薙先輩の将棋部の後輩で」
「春張来是くんでしょう? 知ってます。いつもブログ見てますから」
「あ、それは光栄で……」
「でもあなたのことは、一年前からよく聞いていましたよ。頼もしい後輩ができたって」
肩まで伸ばした流麗な黒髪、母性的な瞳、ふっくらした唇。紗津姫の母は、紗津姫があと二十年ゆっくりと歳を重ねたらこうなるのだろうという人だった。ここまでそっくりな親子を見たことはなかった。もちろんというかその胸元も非常にふくよかで、遺伝バンザイと来是は叫びたくなった。
しかしそれとは別にもうひとつ、服を押しのけて丸く豊かに膨らんでいる部分がある。
「お子さん、生まれるんですか?」
「ええ、もうじき」
「私、お姉さんになるんですよ。だいぶ歳の離れたお姉さんですけど」
「うわ、おめでとうございます! その日が来たら、将棋部みんなで何かお祝いしたいですね」
「いい子じゃない。それで、こんないい後輩くんと一緒に、ふたりきりで何をしようっていうの?」
ちょっと悪戯っぽい笑みを向けられ、紗津姫も困ったように笑った。
「変な想像しないで。明日に備えて将棋の練習に付き合ってもらうの」
「ならお菓子を用意しないと。いろいろあるけど、何がいいですか?」
「えーと、じゃあクッキーとか」
「えらいです。何でもいいなんて言わないところが」
もう臨月という紗津姫の母は、万が一に備えて階段を上ることはないらしい。来是は用意されたお菓子とジュースのお盆を抱え、紗津姫の部屋のある二階へ上がる。女の子の部屋に入るなんて、依恋の家で慣れっこのはずなのに、無性に緊張した。
だが緊張はすぐに霧散し、衝撃と感動が走った。
紗津姫の部屋がどんな風なのか、これまで何度となく想像した。ベッドと勉強机、小さなテーブル、本棚、将棋の本。きっとそれくらいしかない、飾らない部屋だろうなと。それはほとんど当たっていた。
想像とまったく違ったのは、本棚とその中身の数だ。壁という壁に隙間なく本棚が設置されており、定跡書、実戦集、詰将棋、エッセイ、あらゆる将棋本が綺麗に分類されている。将棋が題材の小説と漫画も並んでいて、軽く数百冊はありそうだ。
「将棋の本はたくさん持っているんだろうなとは思ってましたけど……すごいですね」
「もうスペースがなくて、これ以上は揃えられそうにないんですよね。そこが最近の悩みで」
「電子書籍とかは?」
「私、本は紙で読みたい派なんです」
だろうなと思った。彼女にはデジタルよりアナログが似合っている。
「さっそくですけど、始めていいですか?」
「もちろんです!」
紗津姫は隅に置いてあった平たい箱を運んでくる。蓋を取ると、明るい色合いの卓上将棋盤が出てきた。いつも出しっぱなしにせず、その都度しまっているらしい。毎日丁寧に手入れしていることが窺えた。
「いつもこれで勉強してるんですね」
「依恋ちゃんみたいに、本カヤの脚付き盤を持てればいいんですけどね。ふふ、もっとアイドル活動を頑張らないと」
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