furufuruos@n のコメント

furufuruos@n
No.22 (2015/08/03 01:34)
コラム、拝読させていただきました。以下に、少し多めの私見と感想を。

今回は、大口さんの「主体的正しさ」と「恨(ハン)」に係る考察のお話でした。
わたしは、実を言うと「恨(ハン)」という概念をあまり重視してみていませんでした。「恨(ハン)」=「恨み」という単純な見方でよいとすら思っていました。今もある面で、その思いは変わっていません。

理由は簡単です。
「儒教」の祖である孔子は「論語」の学而編の冒頭でこう述べています。
「人知不而不慍、不亦君子(ひとしらずしてうらみず、またくんしならずや)」と。
「儒学的価値観を至高」とする前提に置くなら、真っ先に「恨むと君子になれない」という問題にぶつかるからです。

ちなみにこの文は「論語」を「憲法」とみなすなら、「憲法第一条」の「三節目」に当たる個所に書かれています。
「日本の中学、高校」で学ぶ漢文でも、おそらく皆さんが最初に目にするものの一つと言っていいくらい有名です。

ここで、今回のコラムを読んで思いついた、ある「仮説」を披露したいと思います。
大口さんの話と少し似通っていますが、少し解釈の違うものと捉えていただければ幸いです。

まず、わたしは、かれらの「恨(ハン)」という概念を、「恨み」と「否認による迷路」の結合によってできた「架空の概念」だと考えました。
「否認による思考の迷路」については、「韓国から見たヘイトスピーチ」No.177(記述時点では訂正したため一番最後)のコメントを参照してください。「否定」を使うことにより「問い手」を「話し手優位」の「論理」に「巻き込む」手法だ、と仮に説明しておきます。

「恨み」は自らを「不君子」にしてしまうので、「絶対に」世界中のすべての人を「かの国の人の恨み」へたどり着かせるわけにはいかないのです。なので、「恨(ハン)」=「恨み」という等式を、各個人なりに「否認」します。理由は何でもいいので、とにかく「かの国の人の恨み」にたどり着きそうな兆候が少しでも見えればその概念を「否認」し続けて、「恨み」への道を消し、「何かそうさせるそれらしい衝動」に「誘導」します。「恨み」とは少し違った、「少し変な動機」を見せ、疑う人を納得させたら終わりです。
こうやって「各個人」、「各組織」、「各社会」それぞれにとっての「恨(ハン)」が出来上がるのです。
そりゃあ毎度毎度、あるいは各人の説明によって違ったものになるはずです。なんせ実は『本当の「恨(ハン)」』なんてものは、かの国中探してもどこにもないんですから。それっぽいものを毎度毎度見せられているというか、毎度毎度手作りというか、そんなものなのではないでしょうか?

以上、長文による私考、失礼いたしました。

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