日韓問題(初心者向け)

【ゆっくり解説】竹島はなぜ日本領?

2020/12/27 01:42 投稿

コメント:19

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お知らせ

年末年始について。
マスコミ問題を扱うブログ「暇つぶしにどうぞ」は、12月21日が今年最後となり、12月28日と来年1月4日がお休み、再開は2021年1月11日からとなります。

「日韓問題(初心者向け)」の方は、12月23日が今年最後となり、30日と来年1月6日をお休みし、再開は2021年1月13日からとなります。

動画の方は、次回12月26日が今年最後となり、お休みは1月2日のみ、再開は2021年1月9日からとなります。


それでは皆様、少し早いですがよいお年を。

12月27日21時38分追記
どうも本日中に間に合いそうにないので、明日投稿することにします。
未だゆっくりムービーメーカーの編集が終わっていないレベルなので。




さて、本日は日本と韓国の間の領土問題である竹島問題について扱っていきます。

本日の投稿動画


YouTube版
https://youtu.be/KJQBQmvSAiY

元記事
竹島と尖閣諸島がなぜ日本領なのか、すごーーーーーーーーく簡単に説明してみる。


以下は動画のテキスト版になります。

注意
・この動画は「日韓の価値観の違い」を扱っています

・うp主のスタンスは「価値観に善悪や優劣は存在しない」というものです

・相手が不法を働いているからとこちらが不法をして良い理由にはなりません

・自身の常識が相手にとっても常識とは限りません、「他者がそれを見たら
どう思うか」という客観性を常に持ちましょう。

・日常生活で注意する程度には言動に注意を心がけてください

・リクエストは原則受け付けていません

・引用ソースへのリンクが同時掲載のブロマガにあります

・毎週土曜日更新



レイム マリサ
ゆっくりしていってね


レイム
さて、今回は日韓問題なので私が解説していくわね。


マリサ
まてええええええええええええい。
前回日韓問題なんだから今回はマスコミ問題だろ?????


レイム
今回は年末特番よ?
明日投稿予定の尖閣諸島編はマリサが解説役じゃない。


マリサ
え?そうなのか?


レイム
自分の出番くらいちゃんと覚えておいてよ。


マリサ
でもマスコミ問題じゃなくて日中問題の方かよ。
わたし中国関連あまり知らないぞ?


レイム
尖閣に限定すれば、重要な部分が竹島問題と同じだし、何とかなるでしょ。
それと、竹島編も尖閣編も、あくまで「基本情報」のみの入門編だから、「全てを扱うわけじゃない」って事に注意ね。


マリサ
まあ、あの手の問題は全部やってたらきりがないしな。


レイム
そういう事。
そんなわけで本編へ行くわね。


国際法と領土問題


マリサ
それで、まずは国際法についてやるのか?


レイム
国際司法裁判所で過去、領土問題についてどんな判決が行われたかについてになるわ。
そのうえで注意しないといけないことがあるのだけど、国際司法裁判所は「判例主義ではない」という事よ。


マリサ
え?
じゃあ過去の判例は意味ないんじゃないか?


レイム
そこが重要で、以前も説明したように「国際法」という法が存在しているわけではなくて、二国間あるいは多国間で取り決められた条約や協定、或いは慣習法の事を便宜上「国際法」と呼んでいるだけなのね。


マリサ
ああ、前になんかそんな事言ってたな。


レイム
それでね、こうした背景がある以上、条約や協定は時代の変化や様々な事情によって「変わる」可能性があるから、判例主義を取っても無意味なのよ。


マリサ
なら過去の領土問題の判決も意味ないんじゃないのか?


レイム
ただし、裏を返せば関係する条約や協定、或いは慣習法が変わらない限り、「同様の判決が出る可能性が極めて高い」のよ。


マリサ
なるほど、だから過去国際司法裁判所で「どんな判決が出たか」が重要になるのか。


レイム
そういう事。
じゃあまず最初に紹介するのはパルマス島事件で、これは1906年からオランダとアメリカの間で争われ1925年に判決が出たフィリピン沖の島の事例ね。


レイム
この事例では、元々フィリピンはスペインが支配していて、1898年のパリ条約第3条でアメリカに支配権が移譲されたのね。
ただし、フィリピン沖にあるパルマス島に関しては、ずっとオランダが主権の行使をしてきたの。


レイム
で、アメリカは、「元々パルマス島もスペインが16世紀に「発見」しているのだから、当然支配権は移譲されたアメリカにある」としていたのね。


マリサ
なんかややこしいことになってきたな。


レイム
国際司法裁判所の判決では、スペインが「発見」したことなどは16世紀においては有効であったが、それは19世紀以降では未成熟の権限と解釈されて、逆にオランダは「東インド会社を通じて原住民と宗主契約を結び、それによって原住民はオランダとの関係を結んだ」事を「合理的期間内の実効的支配」と認め、オランダ領という判決が出たわ。


マリサ
つまり、どういう事だ?


レイム
つまりね、中世までの常識で「支配」していた事は近代法において「領有していた根拠」と認定されず、しっかりと「近代法に基づいた支配をしていないといけない」ということ。

「パルマス島を巡る常設仲裁裁判所の判決」
https://web.archive.org/web/20110102104945/https://pca-cpa.org/upload/files/Island%20of%20Palmas%20award%20only%20+%20TOC.pdf

・19世紀以来支配的な見解では、未成熟な権原は、合理的な期間内に実効的支配によって補完されなければな らない。
・未成熟の権原は、他国による継続的・平和的な権威の行使に優越することはできない。

マリサ
つまり、「中世の常識で領有権原を確立しても、19世紀以降の常識での領有権原の確立には影響を与えない」って事か。


レイム
そういう事。
そして次はイギリスとフランスの間で1950年代に争われた「マンキエ・エクレオ島事件」の事例ね。


レイム
この事例では、イギリスが「ノルマンディー公ウィリアムによる1066年のイングランド征服に基づく領域権原」を主張して、フランスは「フランス王による1204年のノルマンディー征服に基づく領域権原」を主張したのね。


マリサ
これも随分と古い話を持ち出したな。
しかもこの場合は、さっきと違って「どっちも中世の事情」を持ち出してるのな。
ややこしい。


レイム
この事例の場合にはね、

「マンキエ・エクレオ小島群を巡る国際司法裁判所の判決」
https://web.archive.org/web/20000823224210/http://www.icj-cij.org/icjwww/idecisions/isummaries/ifuksummary531117.htm

・中世の諸事情に基づく間接的推定は証拠価値を認めない。
・司法権、地方行政権、立法権の行使に関する直接的証拠を認める。
・直接的証拠とは、刑事裁判の実施、教区税・地方税の徴収、エクレオ岩礁をジャージーの範囲内に含 めて扱った措置等である。

レイム
どちらの「中世の事情」も却下されて、イギリスがこの2つの島に対する近代法に基く司法権や行政権の行使、つまりこの土地に関係する裁判や徴税を行っていた事が領有権原と認められて、イギリス領と認定されているわ。


マリサ
この事例でも、ちゃんと近代法に基いて統治が行われていたかどうかが争点だったのな。


レイム
そういう事ね。
そして次は、マレーシアとインドネシアが争い、2002年に判決の出た「リギタン島・シパダン島に対する主権事件」の事例ね。


マリサ
お?こんどは比較的新しい事例だな。


レイム
この事例の場合には、

【国際法判例】リギタン島・シパダン島に対する主権事件
https://hiro-autmn.hatenablog.com/entry/2016/04/10/160014

インドネシア v. マレーシア 国際司法裁判所(ICJ)
判決 2002年12月17日

事実と経過

マレーシアは、無人島だったボルネオ島北東のリギタン島とシパダン島に観光施設を建設し、自国領として主張。
インドネシアは、英蘭条約(1891年)4条を根拠に領有権を主張。同条によると、ボルネオ島内の蘭領と英保護領の境界線は、東岸北緯4度10分の地点からスバチク島を横切り同緯度に沿って東方に続くものとされたが、インドネシアは、当該境界線がスバチク島東岸にとどまらず、さらに東方の2島まで続き、同緯度より南の2島はボルネオ島の付属として自国に帰属するとした。
マレーシアは、2島に対する主権は、スル王からスペイン、アメリカ、イギリス、自国へと承継されてきたと主張。また選択的に、もし2島がオランダ領であったとされた場合でも実効的支配によって権原が自国に移ったとした。また英蘭条約4条の「スバチク島を横切りacross」とは、同島西岸から東岸で終わるという意味であり、その東方にある2島は含まれないとした。
両国は国際司法裁判所の管轄権を受諾していなかったため、2島の主権の所在を裁判所に付託する協定を1996年に締結。
判決要旨

マレーシアよるリギタン島及びシパダン島に対する領有意思は相当期間に渡って示されており、したがって実効的支配を根拠に2島に対する主権はマレーシアに帰属する。
1891年の英蘭条約4条の解釈

条約法条約第31条及び第32条は国際慣習法を反映。よって条約法条約の当事者でないインドネシアにも適用可能。
同条約第4条の「横切りacross」という文言からは、境界線がスバチク島東岸で終わるのか、そこから東方まで続くとも明らかでない。曖昧ないでない規定も可能であったのにそうしていないのはマレーシアに有利である。よって条文(text)の解釈では決定できない。
同法批准のためにオランダ議会に提出された法案付属の地図は、2島について触れていない。また、英国に伝達されておらず、反応もなかったため黙認されたとも言えない。よって同地図は条約法条約31条2項の関係合意でも関係文書でもない。
条約の「趣旨及び目的(object and purpose)」について、同条約の前文は「ボルネオ島内(in)」という文言から同島より東方についてまで定める目的を持つものではない。
したがって、英蘭条約4条は2島に対する主権を確定する領土分割線を定めたものではない。

マレーシアの権原承継

1878年にスル王からスペインに譲渡した島に2島の名前はない。
1900年米西条約で、スペインがアメリカに譲渡した島にも2島の名前はない。
1930年英米条約で、アメリカは2島への主権を主張しておらず、それがイギリスに譲渡されたとは明言できない。
したがって、イギリスから独立したマレーシアによる権原承継の主張は認められない。

実効的支配(effectivites) の問題
(1)考慮すべき要素

実効的支配に基づく主権の主張は、主権者として行動する意図と意思(intention and will)及び主権の行使(actual ecsercise)が必要である。
人口の希薄な地域(thinly populated or unsettled countries)については、他国が優越する主権を主張していない限り主権の行使はわずかで良い(PCIJ 東部グリーンランド事件判決)
決定的期日(両国が権利を主張し始めた1969年)以前の行為が考察されるが、それ以降の行為であっても、以前から続く行為であり、自己の法的立場(legal position)を有利にするため取られたものでない行為は考察される。
考察される行為が一般的性格の立法的・行政的行為の場合、その文言や趣旨から2島が特定される場合は、実効的支配を構成する行為といえる。

(2)具体的検討

オランダ=インドネシア海軍による偵察及び漁民の活動は、2島がその主権下にあるとみなしていたとを証明しない。
群島基線を定めた1960年のインドネシア法は2島に触れていない。
米国が1930年条約で諸島を放棄したとき、どの国も主権を主張せず、北ボルネオ=イギリスの管理に抗議しなかった。
北ボルネオは、1917年ウミガメ保護令によりシパダン島等でのウミガメ捕獲と卵の採取を許可制にし、1954年の許可の対象には2島が含まれていた。
北ボルネオによる、1933年の土地令の鳥類保護区の対象にシパダン島が含まれていた。
マレーシアが2島に灯台を建設した際(1960年代初頭)、インドネシアはその土地が自国領であると指摘しなかった。(ただし、通常は灯台建設は主権の行使とはみなされない cf.カタール・バーレーン事件判決)
したがって、マレーシア=イギリスによる立法的・行政的、準司法的行為(legislative, administrative and quasi-judicial acts)は相当期間( a considerable period of time)継続し、かつ、2島に主権を行使する意思が明確に示されている。よって、実効的支配を根拠に2島に対する主権はマレーシアに帰属する。

レイム
インドネシアは「英蘭条約(1891年)4条」を根拠に領有権原を主張し、マレーシアは「スル王からスペイン、アメリカ、イギリス、自国へと承継されてきた」と主張した事例ね。


マリサ
今度はどちらも近代法に基く主張か、これはどうなったんだ?


レイム
この事例ではインドネシアの島周辺での活動は領民の個人的な活動や軍艦の運用程度で、主権下にあったとはいえず、逆にマレーシアは現地でのウミガメ保護活動や、灯台設置を行っており、インドネシアはこうした「主権の行使」に抗議をしていないとして、マレーシア領と認定したわ。


マリサ
つまり、両方に法的根拠がある場合、片方の主権の行使にもう片方が抗議をしたかどうかが重要になるって事か。


レイム
そういう事。
それともう一つ、尺の関係で詳しくやらないけど、「クリッパートン島事件」というのがあって、この判決では他国の抗議のない状態で統治した実績が重要であり、抗議があった日を「決定的期日」として、以後の統治は領有根拠とならないとしているわ。


レイム
まとめると、無人島の領有には「中世の主権行使は領有根拠にならない」「近代法に基く具体的な統治実績が必要」「他国からの抗議の無い状態での統治実績が必要」「他国からの抗議があった日以降の行いは統治実績とならない」となるわ。

・中世の主権行使は領有根拠にならない
・近代法に基く具体的な統治実績が必要
・他国からの抗議の無い状態での統治実績が必要
・他国からの抗議があった日以降の行いは統治実績とならない

マリサ
そうすると、竹島の場合にはどうなるんだ?


レイム
日本は1905年2月の島根県例で近代法に基く統治を行っており、それにたいして当時の大韓帝国は公式的な抗議をしていないので、日本による領有権原が成立しているって事になる上に、韓国による1952年の竹島占拠に対して、即座に日本政府が抗議して「決定的期日」が成立しているので、韓国側の行いは「主権行使とならない」という事になるわ。


大韓勅令第41号


レイム
それでね、さっき説明した無人島の領有権原について竹島問題にあてはめると、実は韓国側の主張って2つを除いて全くの無意味になるのよ。


マリサ
というと?


レイム
要するに、国際司法裁判所における「未成熟の権限」について話しているだけだから。
そして、そうした情報を除外していくと、一つ目にこの「大韓勅令41号」が残るのね。


マリサ
つまり、この勅令が韓国側の領有根拠になるって事か?


レイム
「韓国側の主張通り」ならね。


マリサ
ということは、ちがうのか?


レイム
まず大韓勅令41号にはこう書かれているわ。

勅令第41号

鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守に改正した件

第1条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等とすること
第2条 郡庁の位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること
第3条 開国504年8月16日官報の官庁事項欄から鬱陵島以下の19字を削除し、開国505年勅令第36号第5条の江原道26郡の6字を7字に改正し、安峡郡に鬱島郡3字を挿入すること
第4条 経費は5等郡として準備するが、現状の予算が未定であり、事務が着手段階であることから、該島の税収であらかじめ準備すること
第5条 補足すべき諸条は、本島開拓の進行に応じて準備すること

附則
第6条 本令は公布の日から施行すること

光武四年十月二十五日

御押 御璽
勅 議政府議政臨時署理賛政内部大臣 李乾夏


レイム
「鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入」と書かれていて、そのうえで「郡庁の位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること」と書かれているわ。


マリサ
この「竹島」が現在の竹島って事か?


レイム
そっちはこの鬱陵島のすぐ横にある「竹嶼(チュクト)」という島の事よ。






マリサ
ん?ちょっと待った。
この地図だと鬱陵島のすぐ横に「観音島」ってところがあるよな?
「区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること」って、この観音島の事じゃないのか?


レイム
普通に考えればね。
でも韓国側はこう言っているわ。

独島は韓国領土
北東亜歴史ネット
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=isdk_001j_0020_0010

1. 1900年、大韓帝国勅令第41号、独島を韓国領土として世界に公表
1900年、大韓帝国は「大韓帝国官報1716号」を発行し、「勅令第41号」を世界に公表した。勅令41号は「鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守と改正する件」であり、その第2条に「郡庁位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵島全体と竹島と石島を管轄する事」と定めた。ここでいう竹島とは、鬱陵島から東に2kmの距離にある島を指し、石島が現在の独島である。独島は朝鮮の歴史の中で主に于山島と呼ばれていたが、1882年に朝鮮王高宗と鬱陵島の検察使である李奎遠の会話の中から、高宗が「鬱陵島と竹島、松島(=独島)を総称して鬱陵島とする」と言ったことをきっかけに、名称に変化が生じた。その後、松島は日本名であるため、その名前を捨てたと推定され、鬱陵島の住民が独島をトルソム(石の島)と呼んでいたため、全羅道などの方言からトルソム→ドクソム→ドクト(独島)と名称が変化し、現在の独島という名称に定着した。文献では、1904年に日本の軍艦『新高』が「韓国人はこれを独島と書く」と記録したのが最初である。韓国側の文献では、1906年に鬱陵島の郡守沈興澤が報告書の中に独島という名称を初めて使った。これは、独島という名称がそれ以前から定着していたことを証明している。石島とはトルソムを漢字表記した名称である。

本の学者は、石島とは独島ではなく鬱陵島の北にある観音島だと言っているが、観音島には島項、カクセソムなどの名称があったため、わざわざ石島と命名する必要はなかった。また観音崎と呼ばれ、島ではないと認識されていた。島項という名称も「島のうなじ」という意味であるため、完全な島として見なしてはいなかった。すなわち、石島とは独島のことであり、1900年に大韓帝国は独島を鬱島郡の管轄区域に正式に編入したのである。1905年に日本が独島を島根県に不法編入した時より5年も早い時点であった。


レイム
「鬱陵島の住民が独島をトルソム(石の島)と呼んでいたため、全羅道などの方言からトルソム→ドクソム→ドクト(独島)と名称が変化し、現在の独島という名称に定着した。」「石島とは独島ではなく鬱陵島の北にある観音島だと言っているが、観音島には島項、カクセソムなどの名称があったため、わざわざ石島と命名する必要はなかった。」としているわ。


マリサ
これはほんとなのか?


レイム
そもそもね、韓国側は「そう言っているだけ」で具体的な根拠を一切提示していないわよ。
何より「他に読み方があった」というのは、「竹嶼(チュクト)」の事例もあるから成り立っていないのよ。


マリサ
つまりただの「後出しジャンケン」か。


レイム
しかもね、元々韓国は「于山島こそ竹島の事だ」と言っていたのだけど

竹島問題
https://www.knak.jp/munikai/FYI/takeshima-1.htm

(一部抜粋)
太宗実録
太宗十七年二月壬戌条
安撫使金麟雨、還自于山島、献土産大竹・水牛皮・生苧・綿子・検樸木等物、且率居人三名以来、其島戸凡十五口男女并八十六、麟雨之往還也、再逢颶風、僅得其生

時代確認と対訳
太宗17年は西暦にして1417年である。于山島という島名が韓国の文献に最初に表れるのが、この太宗実録である。金麟雨は島民3名を率いて于山島から本土に還ったときに、大竹、芋、アシカ等を持ち帰っている。また于山島にはおよそ15戸、男女併せて86人が住んでいると報告した。

レイム
この太宗実録にもあるように、「于山島にはおよそ15戸、男女併せて86人が住んでいる」と書かれていて、かつて存在した日韓翻訳掲示板で日本側から「あんな場所に86人も住めるわけないだろ」ってからかわれていたのよ。


マリサ
自業自得でしかないな。


レイム
そしたら韓国側は「高宗が「鬱陵島と竹島、松島(=独島)を総称して鬱陵島とする」と言った」と言い出したのだけど、これ原文見る限り観音島と竹嶼(チュクト)の事なのよ。


マリサ
また後出しジャンケンか。


レイム
しかもこちらの名古屋大学の池内敏教授によると

竹島/独島と石島の比定問題・ノート
池内敏
https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/4-2_%e6%b1%a0%e5%86%85.pdf

1池内敏HERSETEC, 4, 2 (2010), 1–91.問題の所在1900年10月27日に頒布・ 施行された大韓帝国勅令41号は、 欝陵島を欝島と改称し、島監に替わって郡守を置くこととした。その第2条の全文は「郡庁位置は台霞洞と定め、区域は欝陵全島と竹島石島を管轄する事」である。韓国では、ここに見える「石島」が竹島/独島に該当すると考えるから、1900年10月には大韓帝国政府として竹島/独島に対する領有意思のあったことが明白だと考えているようである。 しかしながら、 この勅令41号にいう「 石島」が独島に一致することが直接的に証明されたことは、これまでに一度もない。

李漢基は、「独島の「ドク」は、すなわち「石」と解釈できる......「ドクソム」という固有語を漢字で表現して独島ないしは石島としたもののようである」と述べ、 さらに注記で1953年9月9日付大韓民国駐日代表部口上書の一節を以下のように引用する。「韓国の慶尚道方言によれば、「ドク」は石ないしは岩の意味である。「ドクト」は石島ないしは岩島を意味する。「ドクト」の発音が一致する独島は( 以下略)」と[ 李漢基1969、250‒251頁]。一方、 慎鏞廈は、 「当時、 欝陵島住民の絶対多数は全羅道出身の漁民たちであって、全羅道方言で「ドル」を「ドク」とし、 「ドルソム」を「ドクソム」とするのはよく知られた事実である。

大韓帝国政府は、「ドクソム」を意訳して「 石島」としたのである。 欝陵島の初期移住民たちの民間呼称たる「 ドクソム」「ドクト」を、 その意を採って漢字表記すれば「 石島」となり、 発音を採って表記すれば「独島」となる。」と述べる[慎鏞廈1996、194頁] (下線は引用者、以下同様)。

片や慶尚道方言から説明し、 片や全羅道方言から説明するやり方は、 「石島と独島は一致する」という前提から出発し、その一致をいかに説明するかに腐心している様子を露わにしている。そもそも「当時、欝陵島住民の絶対多数は全羅道出身の漁民たち」というのはどれほどの蓋然性をもつ史実なのだろうか。

たしかに1882年に李奎遠が欝陵島の検察を行ったときに、島にいた朝鮮人140余名のうち全羅道出身者は115名(約8割)である。けれど、この人たちは、春に欝陵島へ来て、秋には全羅道へ戻る通漁者たちであった[ 朴炳渉2009、韓国語15頁・ 日本語151頁]。彼らをもって欝陵島の「 住民」とするのは果たして妥当なのだろうか。

また、彼らは竹島/独島をどれほど良く知っていたのだろうか。 さらに、 欝陵島の初期移住民たちの民間呼称が「 ドクソム」「ドクト」であったことは、どのような手続きを経て明らかにされてきた事実なのだろうか。こうした「民間呼称」が歴史学の文献を介して明らかにされたことを、いま筆者は寡聞にして知らない。現状では、方言・発音からする説明は、客観的な証明としての説得力を全く有しない。 一方、 「石島」が竹島/独島とは一致しないとする立場からは、 欝陵島周辺を描いた古地図上の島々のうち「石島」 に該当する島をあれこれと穿鑿する作業が行われてきた。

こちらも決定力を欠き、それに対する有力な反論もまた繰り返されてきた。古地図上に「石島」を捜そうと試みても、結局は水掛け論にしかならない。 ところで、 これまでの議論では重要な事実が看過されてきたように感じる。 「石島」なる名前が勅令41号に記載されるより前に、 竹島/独島の特徴を「 石のようだ」と述べた文献史料は朝鮮王朝期・大韓帝国期を通じて一つも存在しない、という事実である。

そもそも朝鮮側の文献史料上で竹島/独島の姿を確認できるのは、張漢相と安龍福の二つの事例だけである。 元禄竹島一件交渉の開始直後(1694年)、欝陵島を巡察した張漢相は、 報告書「 欝陵島事績」のなかで「東望海中有一島杳在辰方、而其大未満欝島三分一、不過三百余里(東の海中を眺めると東南方向に薄暗く島が一つ見えた。

その大きさは欝陵島の三分の一で、距離は三百余里〔120~130キロメートル〕に過ぎない)」と記述する[ 柳美林2007]。ここで、張漢相が欝陵島の高所から東南方向に眺めた島が竹島/独島であることは間違いない。

その島の大きさが「欝陵島の三分の一」というのは誇張か錯覚にしても、それほどの大きさと判断された以上、張漢相の見た竹島/独島は「石のような島」ではありえない。 また、 安龍福は1696年、 欝陵島で出会った日本人を叱責し、 逃げる日本人を追跡して子山島 (于山島)に到った。

この子山島(于山島)を安龍福は松島とも記載しており、当時日本で松島と呼んだ島は現在の竹島/独島のことだから、安龍福は竹島/独島をじかに見たことが確実である。そして安龍福は、追跡した日本人が「松島で釜を並べて魚を煮ていた」とも述べている( 『粛宗実録』粛宗22年(1696)年9月25日条)。そこで人が煮炊きできるような場所が「石のような島」ではありえない。

「石島」が勅令41号に記載されるより前に竹島/独島を「 石のようだ」と述べた記述が文献史料上で得られない以上、独島は「石のような島」だったから大韓帝国政府はこの島を「石島」と呼んだ、と論じることは難しい。「島全体が火成岩でできているから、島上には一本の木も見えず、ただ雑草があちこちに叢生するだけだ」[申奭鎬1948、90頁]とか「 独島は岩礁だから、 人が住むことはできず」[慎鏞廈1996]といった独島の特徴を「石のような島」であるところに見出す発言は、実は第二次世界大戦後になって初めて登場した。

「独島は岩礁」なのだから勅令41号にいう「 石島」は独島にふさわしいなどという発想は1900年当時には見出せないから、 そうした発想を所与の前提とする勅令41号の解釈は、 現代的な感覚を歴史のなかに持ち込んだ転倒した議論と言うべきであろう。 ところで、『独島は大韓民国固有の領土です』[韓国海洋水産開発院・独島研究センター2008]では、 「「石島」という名前は、石でできた島という意味で、現地の人々が使っていた名称の「 ドクソム」(「ドク」は石、 「ソム」は島を表す韓国の方言)を、 その意味に従って漢字表記したものであります。 当時の一般的な漢字表記方式によりますと、「ドクソム」は、「石島」 「独島」どちらでも表記できました。」と説明したりもする。

しかしながら、現地の人々が竹島/独島を指して「ドクソム」と呼んでいたことが論証されたことは、これまでに一度もない。 ここで「現地の人々」とは、欝陵島定住民および不定期的に欝陵島を往来する人々を含むものと考えればよいだろう。この人たちが竹島/独島をどのように呼んでいたかを直接的に明らかにすることは困難である。本稿では、その呼称問題に解決を与えるために、 「現地の人々」 と竹島/独島との関わりについて、 生活と生業の側面から接近することを介して考察してみようと思う。

レイム
元々韓国は「韓国の慶尚道方言によれば、「ドク」は石ないしは岩の意味である。「ドクト」は石島ないしは岩島を意味する」と主張していたそうで、これも根拠もなしに言っている事が変わっているのよ。


マリサ
要するに韓国側は、元々「慶尚道の方言で石をドクと読む」と言っていたのに、日本側から突っ込みを入れられたら「全羅道の方言だ」と言ってることを変えたわけか。

レイム
そう、更にね

「石島=独島」説否定の記述見つかる
山陰中央新報 '08/02/22
https://web.archive.org/web/20080309213102/http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=500527006

 日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側の主張が崩れかねない韓国の史料が、島根県が定めた22日の「竹島の日」を前に、竹島問題を研究する兵庫県在住の男性会社員(33)によって公開された。専門家も注目している。

 史料は大韓帝国時代の「皇城新聞」の1906年7月13日付の記事。日本が竹島を島根県へ編入した5年前の1900年に大韓帝国政府が出し、石島が独島とする韓国側の主張の根拠になっている勅令で、韓国・鬱陵島を鬱島郡へ昇格した経緯が書かれている。

 記事は「郡所管の島は鬱陵島と竹島(チクトウ=現在の竹嶼)と石島。東西六十里、南北四十里」としている。韓国の1里は0.4キロで、東西24キロ、南北16キロ。現在の竹島は鬱陵島の南東92キロで、数字が郡の範囲を示すものとすれば、韓国側の主張は崩れる。

 男性会社員は「石島の所在位置を示す史料はこれしかなく、石島と竹島が別なのは明白」と指摘。「数字は鬱陵島を指したもの」との韓国側の反論を想定し、「記事は鬱陵島について記してなく、郡の範囲を示したものと見るのが妥当」とした。

 記事が触れている数字は、鬱陵島の大きさの東西10キロ、南北9.5キロとも異なることから、例え韓国側が鬱陵島を指したものと主張してきても、説得力を欠くことになりそうだ。

 古地図から韓国側が自国領の根拠とする島は異なると指摘した島根県竹島問題研究会で座長を務めた下條正男・拓殖大教授は「興味深い内容」と評価。副座長だった杉原隆・島根県竹島研究顧問も「主張の正当性が実証された」と述べた。

 男性会社員は「杉野洋明」の名前で、自らのインターネット上に研究成果を公開している。


レイム
大韓帝国時代の「皇城新聞」の1906年7月13日付の記事に、この大韓勅令41号の経緯が書かれていて、「郡所管の島は鬱陵島と竹島(チクトウ=現在の竹嶼)と石島。東西六十里、南北四十里」と書かれていて、山陰中央新報では「韓国の1里は0.4キロで、東西24キロ、南北16キロ。現在の竹島は鬱陵島の南東92キロで、数字が郡の範囲を示すものとすれば、韓国側の主張は崩れる」と指摘しているわ。


マリサ
要するに、勅令41号の2島が現在の観音島と竹嶼だとすると、当時の記録とも整合性が取れるわけか。


レイム
そう、韓国側のいう「石島が現在の竹島」とする説は、「韓国側の願望」以外に客観的な根拠がないのよ。


マリサ
なるほどな。


鬱島郡守報告


レイム
そしてもう一つ、「韓国側の主張が正しいなら」領有権原と認められる事例があって、それが1906年3月29日の鬱島郡守の報告で

沈興澤の報告書(1906年3月29日)
韓国政府
https://dokdo.mofa.go.kr/jp/pds/part02_view04.jsp

報告書号外
鬱島郡守・ 沈興澤の報告書に、本郡(鬱島郡)所属の独島が 外洋100余里ほどにありますが、本月4日辰時ごろに1隻の輪船が郡内の道洞浦にきて停泊し、日本官人一行が官舍に至り自ら曰く、「独島が今や日本の領地となった故、視察に来島した』とし、その一行は日本島根県の隠岐島司・東文輔、事務官・神西由太郎、税務監督局長・吉田平吾、分署長警部・影山岩八郎、巡査一人、会議員一人、医師と技士各一人、そのほか隨員10人余りで、まず戸数、人口、土地、生産の多少を聞き、次に人員や経費がどれくらいかを聞き諸般の事務を調査するとして記録して去ったので、これに報告します。状況をお尋ねになったためこのように報告する旨、ご検討されますようお願い申上げます。
これに準じて報告いたしますのでご確認されますことをお願い申し上げま。

光武10(1906)年4月29日

江原道觀察使署理 春川郡守 李明來

議政府 参政大臣 閤下

レイム
この報告によると、鬱陵島に日本官吏の一行がやってきて「竹島が日本領になったので視察に来た」と言っていたそうなのね。
そこで、群守が「竹島(独島)は我が国の領土ではないのか?」と政府に確認して欲しいと報告書を書いたとしているのね。


マリサ
これが国際法における「決定的期日」になるってことか?


レイム
それがね、この群守の報告に対して大韓帝国が何らかの行動を起こした記録が一切ないのよ。


マリサ
ということは、当時の大韓帝国は竹島を自国領と認識していなかったって事じゃないのか?


レイム
「普通に考えれば」ね。
でも韓国政府は、それを「第二次日韓協約(1905年11月17日)で外交権を剥奪されて反論できなかったのだ」と主張しているの。


マリサ
それが事実なら、考慮すべきことじゃないのか?


レイム
でもね、こちらの島根県の竹島問題研究所主任研究員の山﨑佳子氏の研究によると

「明治 39年の土地売買に対する大韓帝国の抗議」
第二期竹島問題研究会 第8回会合平成 23 年 9 月 11 日 山﨑佳子
https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima02/kenkyukaijokyo2.data/9-8-6.pdf?site=sp

はじめに明治三十八(1905)年の竹島の島根県編入の有効性 について、いくつかの論点において韓国から疑義が提示されている。例えば 韓国外務部は、「日本は暴力と貪欲によって略取した」1とカイロ宣言(1943年)を根拠にその不法性を主張 している。しかし、いずれもその 正当性の 前提条件として、島根県編入以前に竹島が 韓国領でありかつ 実効的に占有していたことが証明されなければならない。

ところが1947年6月に韓国内で竹島の存在が認識され、領有権に関する調査が始まって以来すでに64年もの年月が経過しているが、韓国側からは推測 の域を超える有効な証明が今になってもなおなされているとは言えないのが現状である。 また、 例え そうした証拠が今後新たに 「発見」されるとしても、韓国側は更なる説明責任を負っている。当時1900年以前から活発になっていた鬱陵島 における日本人の伐木等の 行動 に対して頻繁に行われていた抗議などの行政 ・外交 上の対策を、竹島におけるそれ や海軍省による調査2に対しては、実態を 把握していなかったのであろう、 何ら 講じ ていた形跡はないのである 。

特に 明治三十九(1906)年三月、島根県官吏による竹島視察団により 、鬱陵島郡守を通じて竹島 編入の事実を知らされたにも関わらず、大韓帝国は状況を調べるよう指令を送ったきり 抗議 した形跡がない。それ ばかりか、直後の 同年 7月頃、統監府から鬱島 郡に所属する島嶼と郡庁設置年月を照会された際に「その郡の所管島は竹島石島で、東西が六十里で南北が四十里で、合わせて二百余里だという。」など(該郡所管島는竹島石島오東西가六十里오南北이四十里니合二百餘里라고하였다이다)と鬱陵島から90km程離れた竹島を鬱島郡の範囲から除外する形で公式回答 した。

それに対し、韓国政府は「外交権が奪われた状態だったため、外交的抗議の提起ができなかった」と主張する。4しかし、 日本側の外交文書には1905年10月、第二次日英同盟の条文中の韓国の地位について、外部大臣 朴斉純が 林権助駐韓日本 公使に口頭で、さらに 英国公使には書簡をもって抗議し たことが記録されているし、 1906年(明治39)年2月に統監府が設置され、翌3月13日から毎週火曜に開か れた 『韓国施政改善ニ関スル協議会』の場において、大韓帝国議政府各大臣が伊藤博文ら統監や日本人顧問と、司法制度 など実に様々な協議を直接行っている。

さらに、大韓帝国議政府内部(内務省)の史料でも 、日本人との間に起こったの種々の 案件 について、統監府 など に照会を行っていることなど が記録されている。そこで 本稿では、この史料の記録のうち、竹島 問題とよく似た特徴を持つある 案件について、詳しく 紹介することとす

2.大韓帝国、日本海軍省の日本海軍省の日本人への土地 払下げに抗議する

『内部来去案』は、1906年(光武10)2月から1910年(隆煕4)8月まで各部と内部の間に往来された公文書を集めた 大韓帝国の公文書綴である。日本や清との間に起こった様々な事案の報告・照会などの文書が含まれている。4冊で構成されている。この第一冊に、鬱陵島の半島側対岸に近い江原道蔚珍郡近北面竹邊浦にあった 、日本海軍望楼の跡地を巡る日本人 同士 の土地取引を巡る一件が記録されている。跡地の購入者である日本人がその証明を求めて郡庁へやってきたことを春川郡守李明来が内部大臣李址鎔に報告し、彼はこれを違法であるとして、日本側と交渉して禁止させるべきとの旨議政府参政大臣朴齊純 に照会するのである。


『內部來去』第1冊、光武 10年2月262日條 (内部大臣の議政治参政大臣への報告)

江原道觀察署理春川郡守李明來から「第16号報告書」を受けた。その内容は次の通り。先月13日に蔚珍郡守尹宇榮の報告を受けた。それによれば、蔚珍郡近北面竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍が最近撤収したが、12月27日に日本商人高賀という者が蔚珍郡庁に来て、「竹邊浦所在の望楼とその土地を望楼長から買得したので、蔚珍郡庁からその認可する公文書を交付してほしい」ということである。

郡守としては、自分の一存で処理することが出来ないので、報告するということであった。そこで、高賀という人物の住所・姓名、ならびに何月何日にいくらで買得したのか、さらに望樓長の姓名・住所を速やかに詳しく調べて報告せよと指示したところ、蔚珍郡守から次の報告があった。指令を受けて、高賀を招致して詳しい事情を聞いたところ、「自分は、日本の佐賀県三養基郡鳥棲洞213番地の、佐賀亦次という。

望樓長は高橋淸重と言い、その居所は日本佐世保海兵団の詰所であるが、住所は知らない。去年十月、駐屯していた日本海軍が撤収する時に180円を出して望楼を買った。しかし、土地は買っていない。土地はその上に建っている建物の持ち主のものであるのが普通なので土地も併せて買いたいと思い、前所有者に申し入れた。」ということである。

この報告に基づき調査をしたが、蔚珍郡竹邊浦の望楼は、日本海軍が軍用に暫く駐屯していて既に撤収したのであるが、今、日本商人の高賀亦次が望樓長の高橋淸重から私的に買い取ったというのは法律に違反するものでいかにも理に合わないことなので、ここに報告するので内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。

1906年2月26日

內部大臣勳一等李址鎔より議政府參政大臣朴齊純閣下へ

この文書 を受け、朴齊純 は以下のように統監へ照会を行う。

『內部來去案』第1冊、光武 10年4月17日條 (議政府照會第56號)

貴第3号照会を受けて、蔚珍郡竹邊浦の望楼と土地の私的売買禁止の件について、統監に照会し回答を得た。回答は次のとおりである。先月14日、蔚珍郡竹邊浦の望楼売却について貴第13号照会を受け取ったが、その照会に基づき日本の佐世保海軍鎭守府に文書を送って事実を調査したところ、その報告によれば、その望楼用の建物と設備は、代金收納後に全て他人に譲渡することとし、佐賀県人である古賀亦次に売却した。

昨年12月27日に既に代金を受領したが、その敷地は売却していない。以上回答するので承知されたい。このような照会結果であったので、内容を確認されたい。1906年4月17日議政府參政大臣朴齊純より内部大臣李址鎔閣下へこのように、韓国政府から抗議を受けた統監府は、佐世保の海軍に文書を送り調査を行 った結果、望楼跡地の売却は阻止されている。この一件について、慎鏞廈は、次のように述べ日帝は露日戦争終決直後、江原道蔚珍郡・竹辺浦に設置した望樓を撤去する際、望樓長と日本商人が結託して望樓土地を侵奪しようと試み 6ヶ月間にわたる紛争と交渉があったが、韓国議政府の努力によって阻止された例もあった。

おわりに

最後に 大韓帝国が抗議しなかった理由 について考察してみる。考えられるのは、1) 1900年の大韓勅令第41号で郡に昇格した際、所属島として挙げられた島名(竹島石島)に独島が入っていなかったか疑義 が生じた、もしくは、そもそも実効支配の形跡がなく調査の結果領土外と結論づけられた。2) (韓国側が主張するように)外交権が奪われていたので照会を断念した。といったことであろうか。

1) については、勅令を制定するための内部大臣 李乾夏による請議書に「該島地方は縦が八十里ほど、橫は五十里 」12とある こと、また、大韓帝国政府学部編輯局発行の経緯度線入り『大韓全図』(1899年)・『大韓輿地図』( 1900年頃)に竹島 は記載 されていないことから、その可能性が高いといえよう 。韓国 ・朝鮮作製の地図に竹島 /独島 がほぼ正しい位置 に描かれるのは、1947年以降の事である。
そう であ るならば、統監府へ「その郡の所管島は竹島石島で、東西が六十里で南北が四十里で、合わせて二百余里」と、鬱島郡につい て竹島を含まない範囲で回答した事実とも整合性が見出せる。

2)については、本稿で検討したように、竹島の領土編入を通告された時と同時期・近接地域・類似案件において、大韓帝国議政府参政大臣の朴齋純 は現に 統監府へ照会を行っており、結果として日本人の土地取得を阻止した。もし1906年5月の指令第三号による調査で韓国領土と判明していた場合、少なくとも統監府への事実関係の照会は行っていたであろう。しかし そうした形跡はなく、ましてやそのような韓国側の動きを日本側が妨害・阻止したり、何らかの理由によって韓国側が照会を断念した、といった記録もない。

結論として、1900年の大韓帝国勅令第41号の石島が独島 /竹島であるかどうか にかかわらず、それを通知され た時点で 統監府に照会し得る立場にあった大韓帝国政府は、 行政府 として当然為すべき適切な抗議、照会さえ 怠ったことにより、事実上 竹島の領有権を黙認したといえるであろう。以上の理由から、「暴力と貪欲によって略取した」から明治三十八(1905)年の竹島の島根県編入が国際法上無効 であ る、とは言えまい。

レイム
1905年10月、第二次日英同盟の条文中の韓国の地位について日本に対して公式抗議をしているのね。


レイム
さらに、1906年に鬱陵島にあった日本海軍の望楼跡地を土地ごと買い取りたいという日本人が現れたのだけど、大韓帝国が韓国統監府(総督府の前身)に抗議し、売却自体が白紙になっているそうよ。


レイム
そして「日帝は露日戦争終結直後、江原道蔚珍(ウルチン)郡・竹辺(チュンビョン)浦に設置した望樓を撤去する際、望樓長と日本商人が結託して望樓土地を侵奪しようと試み 6ヶ月間にわたる紛争と交渉があったが、韓国議政府の努力によって阻止された」と報告しているそうね。


マリサ
これさ、確か「国同士の領土問題は抗議できなかったんじゃないのか」と反論する人いるよな。


レイム
そういう人何度か見たことがあるけど、それなら「その具体的根拠」を提示しないとだめよね。
事実と仮定は同列に語れないし、何より「抗議していた事実」はちゃんと客観的に確認可能な記録に残っているのだし。


マリサ
なるほどな。
ここでも結局は具体的な根拠の有無が重要になるって事か。


レイム
そう、そして領有権原の問題に関係する韓国側の主張はこの2つしかない以上、韓国側の竹島領有根拠はそもそも成り立っていないのよ。
領有根拠が「憶測と根拠のない後出しジャンケン」なのだから。

今回のまとめ

・竹島問題で重要なのは国際法
・大韓勅令第41号のでは竹島について言及されていない
・大韓帝国は抗議可能にもかかわらず日本の竹島領有に抗議していない


レイム
ここで一つ重要なことがあるのね。


マリサ
なんだ?


レイム
以前から説明しているように、韓国における「正しさ」というのは、「どう正しいか」や「なぜ正しいか」ではなく「自分は正しいという前提」なのね。


マリサ
ああ、そういや前にそんな事言ってたな。


レイム
なので、今回説明したようなことを韓国人に説明しても、そもそもまともな反論が返ってくる可能性は限りなくゼロに近いわ。


マリサ
え?それじゃあ今回の内容自体意味ないんじゃないか?


レイム
そうじゃないわ。
こうした知識を知ったうえで、罵倒などは一切使わず淡々と説明して、その反応を第三者に見てもらえるようにすることが重要なのよ。


マリサ
ああそうか。
この有様じゃ、韓国側がまともに反論するなんて殆ど不可能に近いから、それを第三者に見える形で行えるようにすればいいのか。


レイム
そういうこと。
それをするうえでネットというのはとても便利なツールでしょ?


マリサ
なるほどな。


レイム
そんなわけで今回の本編はここで終わるわ。


レイム マリサ
ご視聴ありがとうございました。


大口
おつかれ~


レイム
ところで、年末年始のスケジュールはどうなっているの?


大口
それなんだけど、動画の方は1月2日のみお休みして、再開は1月9日からを予定しています。


マリサ
ブログの方はどうなるんだ?


大口
それなんですが、今回2週お休みをいただいて、12月28日と30日、それと1月4日と6日をお休みし、再開は1月11日と13日からになります。


レイム
なんで2週なの?


大口
今年色々忙しすぎて、買った本とか見たい映画とか殆ど「積み」状態なんだよ。
だから年末年始で一気に消化してしまおうかなって。


マリサ
なんだ、何か予定があるわけじゃないのか。


大口
そうはいっても、積み本の中には今後の動画や記事に役立ちそうなものもあるから。


レイム
とはいっても、映画は関係ないし本も半分以上関係ないわよね?


大口
は、半分は関係あるから!


大口
それと、一応明日尖閣問題の動画も投稿予定なので、そちらもよろしくお願いします。


マリサ
まあ、明後日とかになる可能性もあるけどな。


大口
がんばる。
目指せ年内。


レイム
いきなり大幅妥協しているじゃない。
そんなわけで今回はここで終わります。


レイム マリサ 大口
それでは皆様、よいお年を!



お知らせ。
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コメント

ボスケテ
No.18 (2020/12/29 02:10)
>>16
次の記事「尖閣諸島」の話でもさらっと出ていますが、そもそもあの国の場合は「国際的な常識」なんて通用しないんですよ。
民兵が海上で海賊のような行動をしているわけですが、実際に「政府は関与していない」が成立してしまうのが中国…いいえ、志那という「地域」なのです。
歴史を調べれば分かりますが、あそこは一つの国として見ること自体が難しいです。
だから、冗談抜きで「中国の政府(を名乗っている共産党)は関与していない」可能性は十分あり、それの是正を求めても無駄なのです(放置・容認しているだけでも本来はアウトなのですが)

だったら国として認めなければいい、という話も通用しません。
元々大きすぎますし、何より「戦勝国」だからです。何に勝ったのかというツッコミにも意味はありません。「そういうことになっている」からです。

つまるところ、さっさと消えて欲しいのに大きすぎてそれも無理というひたすらに厄介な存在、それが今の中国と名乗っている存在なのです。

そういう意味で、今のアメリカを中心に反中国の流れが進んできているのは注目すべき点ではないだろうかと思っています。
戦勝国の皆さんには是非そうした責任を取ってほしいものですが、さてどうなるやら。
高木英邦
No.19 (2020/12/29 17:24)
>>18
ツッコミたい箇所はいくらでもありますが (特に 70 年前の勝ち組仲良し組合あたりとか) 、言語化するにあたって頭の中で文章が纏まらなかったので現状そこは目を瞑ります。一点、本当に中華人民共和国という名称を避け、世界中が採用に至る 「 秦 (始皇帝とやらが居た場所) 」 の読みを漢字で表記したいであれば。

「 支那 」 は、MS-IME のデフォルト状態では変換できません。まずそこを 「 正確に 」 書き込める環境、それを構築して頂きたい。中共を騙るにあたって、最低限準備しておかなければならない作業を怠ってはなりません。無論、削除の手が及ばない 「 コメント欄 」 及びそれ相応の場にて使う場合に限定されてしまうという現実はありますが・・・ね。
ボスケテ
No.20 (2020/12/30 03:06)
>>19
ああ、正しく変換できてませんでしたか。これは失礼(素で気づいてなかった)
そうですね、ここのようなあくまで個人のコメントの場でなければ面倒なことになりかねません。誤解を広げないよう注意します。
議論の場でこんなガバガバな話をしませんから完全に失念していました。気を付けなければ。
※基本的に人に伝えてはいけませんと注意書きするべきでしたね。

この手の事で騒ぐ相手というのは、関わること自体が馬鹿らしいですから。
かかわったらきけん!いつもうそをつくしなんでもやってくるからきをつけよう!あの二地域に対するリアルでの認識と対応なんて、ざっくりこの程度で十分だと思っています。
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