岡田斗司夫プレミアムブロマガ 2019/12/20

 今日は、2019/12/01配信の岡田斗司夫ゼミ「明治娯楽物語」からハイライトをお届けします。


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 明治という時代はどういう時代だったのかと言うと、この本の作者の山下さんは「全てがですね5倍のスピードで動く世界だ」と言っています。
 山下さんは、それを海水浴の歴史で説明しているんですけど。
 かつて、西洋において「海は邪悪な存在だ」と思われていたんです。
 そうなんですよ。日本ではどうかわかりませんけど、ヨーロッパ世界では、海というのは邪悪な場所だったんですね。「陸上というのは、教会を中心に神様の領域があって安全で、森の中に入ると段々と危険な場所になる。でも、海に行くと、クラーケンがいたり変な生物がいて、いきなり神の領域ではなくなってしまう。そんな呪われた邪悪な場所だ」というのが、まあヨーロッパの考え方だったんですよ。
 この「海は邪悪」という強固な感覚を打ち消すために、様々なことが起きているんです。
 最初に海水浴は、医療行為として受け入れられた。より強い肉体への憧れ、ヒステリーを始めとする精神的な病気を直したいというニーズ。
 そうなんですよね。中世の終わり頃から近世にかけて女性のヒステリーというのが大問題になっていて、「海水浴はそれに効く」と言い出した人がいたんです。
 その結果、18世紀のイギリスで海水浴マシンと呼ばれる車輪の大きな馬車が作られました。裕福な人たちは、外から見られないように、海水浴マシンで海に乗り入れ、健康のために海水浴を楽しんだ、と。
(パネルを見せる [図1]25ページより、[図2]27ページより引用)

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【画像】海水浴マシン

 これが海水浴マシンですね。当時としてはこれが最新の医療器具だったそうです。まあ、大きい車輪の大きい馬車で、水際ギリギリまで乗り入れて、お付きの人たちに助けられながら水浴びをする、と。
 こんなふうに「海の水を浴びることは身体にいいんだ!」と言ってたわけです。
 西洋の人が、このような海水浴を受け入れるまで、何年くらいかかったか?
 リチャード・ラッセルという医者が、1750年に、イギリスのブライトン地方で医療としての海水浴を実践し始めたそうです。その100年後の1850年に、ブライトンへの鉄道がついに敷かれ、有名な保養地へと成長した、と。この間が、およそ100年。つまり、西洋はおよそ100年かけて「医療としての海水浴」から「娯楽としての保養地」というふうに、ゆっくり進化していったんですね。
 しかし、この100年間の進歩を、明治の人はたった20年間で済ませてしまうんです。
 明治19年に出版された『海水浴法概説』というのでは「海水ニ浴セント欲スル者ハ、病ノ有無ヲ論セズ」というふうなことで、「海水浴で治療出来る病気」とか「波が高い時は気をつけろ」とか、そういうことを書いた本が出版されたんです。
 これ、その後の明治13年には、ですね兵庫県の明石海岸で脚気(かっけ)になった兵隊の治療のために海水浴が実施されるようにもなったそうです。明治になって、かなり早いところで、海水浴というのはどんどん普及していったんですね。

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【画像】海水浴

 神奈川県の大磯は、おそらく、日本最初の病気療養のためではない娯楽のための海水海岸で、明治23年には日本中の学校で水泳がいわゆる必須の科目として入って行ったわけですね。
 このブームに乗って、明治30年頃になると「海水浴小説」というジャンルの小説が生まれます。
 当時、最新流行の海水浴場で、お話の中身は江戸時代から変わらない「お百度参りしてたら仇に会った」みたいな話を「敵討ちを海水浴場で行った」というだけの、舞台を海水浴場に変えただけのラノベっぽい話だったそうなんですけど。
 まあ、明治に初めに「治療目的の海水浴場」が出来てから、この娯楽のための海水浴場や、海水浴小説が書かれるまでが、だいたい20年。なので、「西洋が100年かけて行った道を日本は20年かけて追いついている」と。
 明治というのは万事がそういうふうな時代だったそうです。

・・・

 しかし、こういう西洋化も、海水浴とか、その技術みたいな具体的なところでは、すごい進展があったんですけど、失敗もかなりありました。
 西洋化の失敗の典型例が絵画なんですね。
 というのも、明治の時代の人たちというのは、西洋の科学や文明のことを「リアルである」と定義しちゃったんですね。
 それなぜかと言うと製図ってあるじゃないですか。設計図とかを引く製図。やっぱり、これが日本にはなかったので、建築の図面とかが西洋から入って来た時に、みんなびっくりしたわけですね。
 その結果、「最新の絵というのはこういうものだ」と思っちゃった。つまり、「真横や真上から正確な形を引く」ということと、絵画とが、同じ文脈で入って来ちゃったんですね。
 西洋にも抽象画というのがあるとは思いもせずに、江戸時代の日本人は「絵画っていうのは全てリアルなものでなければならない。本当にあるものを、まるで写真のように綺麗に写すことが絵画であって、それ以外の絵というのは、遅れた日本的なものであり、全く意味がない」と思っちゃったんですね。
 江戸時代から明治にかけて日本の浮世絵とかが大量に海外に行った理由の一つは……もちろん「それは買い付ける人がいっぱいいたから」というのもあるんですけど。何よりも、日本人が「自分達のそれまでの絵がリアルでない」ということを恥ずかしがって「こんなものいいや!」と売ってしまったからでもあるんですね。
 なんとかして西洋風の絵画、ちゃんとパースが取れてて、陰影があるリアルな絵として取り入れようとしたということになります。
 この流れは、実は絵画だけでなかったんですよ。
 というのも、当時、江戸時代の文人、いわゆる文化的な人というのは、絵も描けば、文章も書けば、俳句も読めばという人だったじゃないですか。明治になっても、それのまま行っちゃったんですよ。
 西洋に絵描きという専門職があるだなんて欠片も想像せずに「絵描きは全員、文章が書ける! 文章が書ける人間は皆絵も描ける!」と思い込んでいたんですね。
 当時、小説家になりたい人が「先生、小説家になりたいんです」って言ったら、「小説も絵も似たようなもんだ。小説の学校はないが、絵は東京芸大が今度出来るそうだ。君、絵の学校に行きなさい」と言われて、みんな絵の学校に行ってデッサンとかをしながら、「いつになったら小説が書けるのかな?」という。
 こんなバカみたいな時代が、結構、長かったそうなんですね。
 こんなふうに「絵も小説も同じものである」と思っている人が多かったおかげで、日本の小説も全てリアルになってしまったんです。
 つまり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』みたいなものは「面白いんだけど、下らないもの」。
 じゃあ、本当の文学というのはどういうものかと言うと、「製図のように、全てのパースがきちんと取られた写真のような西洋絵画」と同じように「実際にあったことを、文章の力で最大限リアルに書く」ということだけが、価値のある文学だと思われた。
 なので、江戸時代の人の書いたフィクションというのを徹底的に馬鹿にして、創作というのを馬鹿にして、そうじゃなくて、本当にあったことを上にする。最初に話した大説と小説の関係性というのは、これによって出来てたわけですね。
 「本当のことは偉くて、嘘のことや架空のことはダメだ!」というような文脈が明治のわりと早い時代に、芸術全般に生まれてしまった。
 まあまあ、これが自然主義文学とか、そういうことに繋がるのかもわかりませんけど。僕は、まあ、面白いからこういう話をしているだけであって、専門家としての知識があって言ってるのではないので、そこら辺は皆さんがもっと勉強してください。
 これ、俺が昔、聞いた話なんですけど、「福沢諭吉が弟子に怒った」という話があって。
 福沢諭吉の家に住み込んでいる弟子、いわゆる書生ですね。そいつらが、福沢先生にすごい怒られたそうです。
 「君たちは何を下らないものを読んでいるんだ!」と。弟子が読んでたのが小説だったんですよ。つまり、嘘の話を読んでたんですね。
 「君たちは国家の明日を考えなければいけないのに、なぜそんな下らないものを読んでるんだ!」と怒って、弟子たちはみんな「すみません」って言ったんですけど。
 その弟子が読んでたのは、フランス語の原書なんですよ。当時、日本に文芸小説なんてないから、みんなフランス語とかイタリア語の原書を、辞書を引きながら読んでたんですよ。
 それくらい頭が良いんだけど、それでもダメなんですよ。それでもダメなくらい、フィクションというのはダメだったんですよね。それくらい、フィクションの地位は低かったんです。
 明治の人というのは、日本人が今使う意味での小説というものを「嘘だ」ということで馬鹿にしてた。「それよりは、実際にあったこと、リアルなことのみが価値がある」と考えてた。だから「空想や創作というのは下らない」と。
 なので、当時の舞台演劇でも、夜のシーンになると、舞台も客席も真っ暗になったんですって。真っ暗になって、本当に前も見えないところで、役者が暗記しているセリフを言うだけ。
 夜というのは暗いんだから、リアリズムに照らし合わせたら、そうしなければいけない。だから、「照明を全部落として、真っ暗の中でセリフを言う」というのが当たり前だった、と。
 そんな、笑い話みたいなことが本当にあったそうです。
 そこから、日本独特の傾向として「文学というのは純文学、つまり、私小説のことである。自分が体験したことを書くものである」という伝統が生まれました。
 もし創作を書くのなら、極限までリアルに書かなければ、シリアスに書かなければ、まともな扱いをされない。
 今もまだ、日本に残っている「純文学こそ文学の中心であり王道である」という考え方は、まず、この明治時代の絵画のリアリズムから始まった流れの上に乗っかっているんですね。
 いまだに日本に純文学という言葉が存在し、私小説というジャンルが存在するのは、このためです。
 で、もうずーっと後になって、明治をずっと過ぎた頃になって、ようやっと小説がフィクションの世界に戻って来たんですけど。
 まあ、この当時の文学の偉さというのは、上から順位を付けるとすると、一番上に「政治演説」みたいなものがあって、その下に「事実を元にした講談」がある。
 講談というのが、わりと上だったんですよ。講談には話芸というのがあって、この芸というのはみんな認めてたから、「話芸のある講談は上だ」と。文芸という言葉がまだなかったんですね。文章の上手さという考え方がまだまだなかったので、話芸の方が上だったんですよ。
 その下が純文学の私小説になって、さらに下に落語とか浪曲があって、一番下は弥次喜多になるという。まあ、こういう順位だったんですけど。
 ところが、売上で言うと、これが完全に逆転してたんですよ。弥次喜多みたいなものが一番上。
 弥次喜多の宇宙旅行というのは、いわゆる明治時代のラノベなんですけど、誰でも読めて面白くて、最新の流行とか知識が詰まった、もう夢の小説だったわけですね。だから、バンバン売れるんですよ。


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