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ポール・ディレイニー「トリニティ学寮のラッセル解雇事件 ハイテーブルの政治学」

2020/02/29 14:51 投稿

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バートランド・ラッセルがトリニティを追放された!

第一次世界大戦下のイギリスで起きた、ケンブリッジ大学トリニティ学寮の解雇事件。ラッセルの復職を求める運動が始まったものの、フェローたちの足並みは揃わない。外からは窺い知れない大学の壁の中で、あるいは前線の塹壕の中で、フェローたちは何を思い、どう動いたのか。

新資料――ラッセル解雇事件のさいにホワイトヘッドが書いたパンフレット――の発見を機にポール・ディレイニー教授が『ラッセル研究』 Russel : the Journal of Bertrand Russell Studies 1986年夏号(Vol 6: Issue 1)に執筆した論文を翻訳しました。

その他の情報は最後に置きました。


〔トリニティ学寮 ケンブリッジ大学を構成する学寮(カレッジ)の一つ。かのニュートンも輩出した名門〕
〔フェロー(特別研究員) 教授・講師・研究員といった大学の地位とは別の、学寮の中での地位。ハイテーブルで食事をする、居室を持つ、中庭の芝生の上を歩くといった特権をもつ。学寮の運営をする評議員もフェローから選出される〕
〔ハイテーブル 学寮の食堂の一段高くなった場所。フェローとそのゲスト専用の席〕


翻訳転載の許可を下さったポール・ディレイニー教授、および、
ラッセル文書館のケネス・ブラックウェル博士に感謝いたします。

◇凡例
・番号付きの注は原注である。訳注はすべて〔四角いカッコ〕で記した。
・原文のイタリック体は太字で表現した。


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トリニティ学寮のラッセル解雇事件 ハイテーブルの政治学

Russell's dismissal from Trinity: a study in high table politics

ポール・ディレイニー

by Paul Delany




ラッセルが1916年にトリニティ学寮から解雇されたことは、ソクラテスが毒人参を与えられてよりこのかた、学問の自由が侵害された最も悪名高き事件の一つとして今や伝説となっている。

この事件のいきさつは大部分、G・H・ハーディが書いた小冊子『バートランド・ラッセルとトリニティ 大戦下の学寮論争』が情報源となってきた 1

近ごろ、バートランド・ラッセル文書館は、ラッセル解雇をめぐりトリニティの舞台裏で起きていた闘争についての新たな証拠を手に入れた 2

この資料は、ハーディが記した基本事実に修正を迫るものではないものの、とある二人の重要人物について多くの新情報をもらたし、この事件をいますこし雄弁に物語ることを可能ならしめるのである。その二人の重要人物とは――

一人は、ハーディその人。もう一人は、A・N・ホワイトヘッド。


1 1942年にケンブリッジ大学出版局にて自費出版された。1970年にC・D・ブロードの序文付きでケンブリッジ大学から複写版が再刊。ハーディのこの小冊子のタイプ原稿(ラッセル文書館所蔵)は印刷版とだいぶ異なる。特に本稿の注47を参照。ラッセル解雇の他の資料は、Ronald W. Clark, The Life of Bertrand Russell (London: Jonathan Cape and Weidenfeld & Nicolson, 1975) や Jo Vellacott, Bertrand Russell and the Pacifists in the First World War (New York: St. Martin's. Press, 1980) にあるかもしれない。未公表の手紙の引用許可は、T・ノース・ホワイトヘッド〔ホワイトヘッド長男〕夫人、および(ハーディについては)ロンドン数学協会から頂いた。
2 クリストファー・コーンフォード氏から父君 F・M・コーンフォード氏の書類をご寄贈頂いた。『ラッセル研究』 n.s. 5 (Winter 1985): 98 参照。

〔G・H・ハーディ 1877-1947 数学者。1940年の随筆『ある数学者の弁明』で有名。ラッセル復職に舞台裏で尽力
〔A・N・ホワイトヘッド 1861-1947 数学者、哲学者。ラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ』で知られる
〔F・M・コーンフォード 1874-1943 古典学者。ギリシャ哲学の翻訳で有名。ラッセル復職に尽力




ハーディの『バートランド・ラッセルとトリニティ』の真意を汲むには、行間を読まなくてはならない。

1916年、ラッセルの支援者のなかでハーディが最も活発かつ献身的であったが、一番目立っていたかといえば、全くそうではない。1919年にハーディはふたたび、ラッセルの復職運動を推進した。そして1941年、みたびラッセルを教職に戻すためのキャンペーンを組織するかたわら、ハーディはこの小冊子を書いたのだ。

三度ともハーディはこう考えていた――成功のためには、支援されている当人と自分との間にかなりの距離がある〔公平な判断をしている〕ようにみせることが必要だ、と。ハーディは1916年から1919年の出来事を描くにあたり、基本的にこれは若者と老人の闘争であったと規定し、淡々とした筆致に徹した。そして、この小冊子の執筆中にもラッセルが戦っていたあれこれについては、ほぼ完全に口をつぐんだ。

1940年にラッセルはニューヨーク市立大学に任命されたが、生徒たちと顔も合わせないうちに「不道徳」という理由で取り消されていた。その後ラッセルは、変わり者のアルバート・バーンズから〔バーンズ財団の〕講師職を提供されたけれども、1941年前半にはもうこの雇い主と喧嘩をして英国を恋しがっていた。

つまりハーディがこの小冊子を書いたのは広範囲な裏工作の一環であり、その甲斐あって1943年秋、最高の成果がもたらされた。トリニティ学寮のフェローの地位がラッセルに提示されたのだ。

ラッセルが帰ってきた――かつてニュートンも使っていたその部屋に。ラッセルはこのときから終生、トリニティのフェローに留まった。初めてここを訪れたのは1889年12月、奨学金試験を受けにきたときであったから、ラッセルとトリニティの結びつきは80年にも及んだことになる。熱烈な愛情を捧げたかと思えば、もう互いに腹を立てている――ラッセルの人間関係の多くがそうであったように、トリニティ学寮との関係もそうであった。

だが、1916年こそが最も激しい、嵐のような一年であったことは間違いない。


〔1916年から1919年の出来事 ラッセルは1916年に良心的兵役拒否者を擁護するチラシの執筆者として罰金刑とトリニティ解雇。1918年には新聞に執筆した反戦記事により入獄5箇月〕
〔ニューヨーク市立大学 1940年にラッセルは米国のニューヨーク市立大学の哲学教授に任命されたが、不道徳な人物であるとの一部世論により任命を取り消される事件となった〕
〔アルバート・バーンズ 1872-1951 米ペンシルバニア州の富豪。ラッセルの支援者〕
〔ニュートンも使っていた… トリニティのラッセルの部屋はかつてニュートンの部屋であったとされる〕




*  I  *  



1916年6月15日、「英国軍の新兵徴募と軍紀に害を及ぼしうる」チラシを執筆したとの咎により、ラッセルに有罪判決が下った。罰金100ポンドに加えて手数料が10ポンド。これを不服として上訴するも、6月29日に棄却。

トリニティ学寮の評議会〔カウンシル〕――学寮の運営を担う委員会――には、フェローが有罪判決を受けたときには「罪の性質や等級にかかわらず」会合を開くべし、との規定があった。7月11日火曜日、ラッセルの処遇を決するための評議会が開かれた。評議会には、罪を犯したフェローを追放する権限(義務ではない)がある。十三人の評議員のうち、学寮長〔マスター〕を含む七人の賛成があれば放逐だ。

出席した十一人は、ラッセルの講師職を剥奪することを全員一致で決定。それ以上に厳しい措置――学寮名簿からのラッセルの正式除名を指すと思われる――を主張する評議員も少なからずいたが、多数には至らなかった。3


3 解雇されたラッセルは、上級談話室〔フェロー用の談話室〕を使うことも、ハイテーブルで食事することもできなくなった。ウォードからコーンフォードへの手紙、26 July 1916(特に記さない限り、引用文書又はそのコピーはラッセル文書館所蔵。カッコ内にファイル番号を示す。この手紙のようなコーンフォード氏寄贈資料は REC. ACQ. 912 のファイルである)。




学寮長の H・モンタギュー・バトラーは、このとき83歳。 グロスター大聖堂の元首席司祭、英国国教会純潔協会の元議長、軍役に就く息子三人の父、そして使徒であった。「大学の公務で、B・ラッセルに対する処分ほど」とバトラーは記している。「苦痛なものはなかった。しかし、学寮の利益のために何が必要なのかは、これ以上ないほどはっきりしていた」。4

バトラーはトリニティ学寮の1855年のシニア・クラシック〔古典語学位試験の優等合格者に与えられる称号〕であり、26歳にしてハーロー校〔名門私立中等学校の一つ〕の校長となった。そして1886年、首相のソールズベリー侯によりトリニティ学寮の学寮長に任命された。この地位はバトラーの輝かしい経歴の頂点であった。学寮長は英国国教会の聖職位を持つ者たるべし、という条件は1882年の学則改定により削除されていたものの、ソールズベリー侯は前例を破ってまで非聖職者を任命するという選択はしなかった。

この任命を快く思わない者もいた。バトラーがよそ者だったからでもあるし(フェローの多くはヘンリー・シジウィックの方がいいと思っただろう)、聖職者だったからでもある。


4 J・R・M・バトラー『ケンブリッジ大学トリニティ学寮長』 (London: Longmans, Green, 1925), p. 216 への引用。

〔H・モンタギュー・バトラー 1833-1918 教育者、聖職者。三十年以上もトリニティ学寮の学寮長を務めた(1886–1918)。使徒〕
〔使徒(アポスル) ケンブリッジ大学の秘密結社、使徒会(Apostles アポスルズ)のメンバー。ラッセル、ホワイトヘッド、ハーディも使徒〕
〔よそ者 バトラーもトリニティ学寮の卒業生でありフェローだが、大学教師・研究者ではないとの意か〕
〔ヘンリー・シジウィック 1838-1900 哲学者、倫理学者。古典的功利主義の完成者として高名。主著『倫理学の諸方法』。使徒〕




聖職位を持つフェローのうち二人(F・R・テナントと F・A・シンプソン)はラッセルを支持したけれども、それ以外にも六、七人いた聖職者のフェロー――うち二人が評議員――がみなラッセルを嫌い、追放を喜んだのはまず疑いない。5

学寮長は「筋肉的キリスト教」に感化された典型的なビクトリア時代人であった。熱烈な帝国主義者。アイルランド自治運動〔ホームルール〕には反対。戦争は断固支持。

バトラーの手配により学寮は部隊の宿舎とされ、ネビル・コート〔トリニティ学寮の中庭〕には病院が設営された。食堂では将校と食事を共にし、前線へと発つ将校がいるときにはシャンパンが振る舞われた。またバトラーは、軍隊へ向けて頻繁に説教もした――フランスに待ち構える道徳的誘惑に屈してはならない、と特に念を押して。


5 ハーディは、評議員の R・セントジョン・パリー師がラッセル攻撃の首謀者であったと考えている。

〔F・R・テナント 1866-1957 神学者〕
〔F・A・シンプソン 1884-1874 歴史学者〕
〔筋肉的キリスト教 mucsular Christianity 身体壮健と精神快活、男らしさ、愛国主義と結びついた19世紀中期に始まるキリスト教運動〕
〔R・セントジョン・パリー師 Rev. Reginald St. Johm Parry 1858-1935 古典学者。副学寮長(1919-35)。使徒〕




バトラーは、むやみに権勢を振りかざす学寮長であったわけではない。むしろ、会議を眠り倒すことで有名だった。1914年より前には、若いフェローたちはバトラーのことを、仕方がない人だなと面白がっていたようである。

しかし戦争が始まるとラッセルは、バトラーとその支持者の好戦的愛国主義どもが学寮を冒涜していると感じるようになった。ラッセルとしては自分が敵のことをどう考えているのか知られても意に介さなかったことは、オットリン・モレル夫人にこぼした不平のなかに示唆されている。

今日び、この場所の憂鬱なことといったらとても耐えられない。どの学寮も死んでいる。例外はインド人が少しと青白い反戦主義者が少し。あとは若者不在のなか、勝ち誇ってよぼよぼ歩く血に飢えた老人どもだ。
兵士が中庭に宿営して、芝生の上で教練している。そこへ食堂前の階段上から戦争好きの奴らが大音響で説教を垂れている。…学問のことなんて誰も考えちゃいないし、重要だとも思ってない。年上の教師たちには大いに嫌われているし、その奥方たちにはもっと嫌われている。自分が強姦されたとしても何とも思わない野郎だと私のことを思ってるんだ。私のことを好いているのは若い人だ。6


6 ラッセルからモレル夫人への手紙、#1,361 and 1,383, 19 March and [12?] May 1916 (Morrell Papers, Harry Ransom Humanities Research Center, University of Texas at Austin)。

〔オットリン・モレル夫人 1873-1938 いわゆるブルームズベリー・グループの後援者として有名。ラッセルとは1910年から長きにわたる恋人関係となった〕
〔インド人 ハーディの力添えにより1914年から1919年にトリニティ学寮に滞在したインド人数学者、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887-1920)のことか〕




トリニティの支配集団にとってラッセルが邪魔者なのは明々白々であった。

しかし評議会から処分が下されると、ラッセルの方でもそれをひどく個人的な拒絶として受け止めたに違いない。なぜなら、追放に賛成した十一人のうち五人は使徒だったからだ。学寮長〔バトラー〕、ヘンリー・ジャクソン、V・H・スタントン師、J・D・ダフ、そして J・McT・E・マクタガート。

五人ともラッセルより年上であり、使徒会(ザ・ソサエティ)の基調色がもっと保守的だったころに選ばれた者たちであるとはいえ、これほど多くの兄弟たる使徒から「いびり出された hounded out」(D・H・ロレンスはそう表現した)のは、傷口に塩を塗られる思いであっただろう。

評議員ではないフェローのなかにも使徒は三人いた。ジェイムズ・ウォード、G・H・ハーディ、そしてA・N・ホワイトヘッド。

前二者はラッセルの筋金入りの支援者であった。だがホワイトヘッドは、本稿で見てゆく通り、実質的には評議会に与した。最終的なメンバー表としては、ラッセルに忠実な使徒は二人、解雇に賛成した使徒は六人だったことになる。


〔ヘンリー・ジャクソン 1839-1921 古典学者。副学寮長(1914-1919)。使徒〕
〔V・H・スタントン師 1846-1924 神学者。欽定講座担当教授。使徒〕
〔J・D・ダフ 1860-1940 古典学者。使徒〕
〔J・McT・E・マクタガート 1866-1925 哲学者。使徒。ラッセルは学生時代の一時期、マクタガートの影響でヘーゲル主義者となった〕
〔使徒会 使徒会(アポスルズ)というのは外からの呼び名であり、メンバー自身は「会 the Society」(ザ・ソサエティ)と呼んでいた。ここでは全て使徒会と訳した〕
〔兄弟 使徒どうしは互いのことを兄弟と呼んだ〕
〔ジェームズ・ウォード 1843-1925 心理学者、哲学者。使徒。学生時代のラッセルのチューター(個人指導教師)を務めた〕




使徒会のこの分裂は外部からは伺い知れなかった。使徒たちはこの秘密結社の存在そのものを秘匿する誓いを立てていたからだ。7

使徒会は選ばれし者の閉鎖的集団だったのであり、その主たる関心は――というより殆ど唯一の関心は――メンバーどうしの個人的関係であった。

ただ、それをいうなら、トリニティ学寮のフェローも似たようなものと言っても的外れではなかっただろう。ラッセルの運命は最初から、フェローたちの個人的な好き嫌いでおおよそ決まっていた。大学という壁のなかで争いを決することは両勢力とも合意のうえであり、感情のままに動くことができたのだ。

ラッセルが〔1940年に〕ニューヨーク市立大学への任命を取り消されたときは、裁判にもなったし、AAUP〔米国大学教授連盟〕やニューヨーク市長、その他多くの人々が首を突っ込んだ。しかし1916年には、ほぼ誰もが当然のこととして、この事件の裁定はトリニティ学寮の評議会の専決事項だと受け止めていた。

ラッセル本人としては、学問の自由の問題として、喜んで大っぴらに喧嘩をしたかっただろう。しかし彼の支持者たちは、そういう戦い方では目的そのものを見失ってしまうと判断した――目的はあくまで、ラッセルの復職なのだ。長い目で見れば、大事なのは「学寮の利益」であった。傷口はいまだ開いている。学府たるトリニティ学寮の名声についた傷が。この傷を癒しうるのはラッセルの復職のみ。

教員たちの権利をめぐる大学行政との対決、という問題ではない。なぜならトリニティ学寮は、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の他の学寮と同じく、フェローどうしの自治団体であるという自認があったのだから。ラッセルの解雇は身内の喧嘩。外の人間に壁の中を覗かれたくないのはどちらの側も同じだった。


7 当然ながらハーディ『バートランド・ラッセルとトリニティ』も使徒会には一切触れていない。




とはいえ、ハーディ、J・E・リトルウッド、ドナルド・ロバートソンといった若いフェローはラッセル放逐に「怒り狂い」、何かせねばといきり立った。8

いくらなんでも解雇はしないだろう、とハーディは予想していた。しかし、もし議会がそうしたらどうするかは、既に考えてあった。フェローたちの投票で非難表明を採択して、戦争が終わりしだい評議員たちが辞任するよう仕向けるのだ。

ラッセルがクビを切られると、ハーディはこの案をラッセルに示した。決定が覆されることは戦争が終わるまではありえない。だが直ちに「声明書 memorial 」――然るべき時がきたら評議会を問責することを通告するという宣言――を採択すべきだ。9


8 ラッセルからモレル夫人への手紙、#1,389, Saturday afternoon [?15 July 1916]。
9 ハーディからラッセルへの手紙、early July 1916。

〔J・E・リトルウッド 1885-1977 数学者。ハーディとの共同研究で知られる〕
〔ドナルド・ロバートソン 1885-1961 古典学者〕




ラッセルへの個人的な忠義心がもっとも厚かったのはハーディであったし、「若き怒れるフェロー」のうち、トリニティ学寮に常駐していたのはハーディのみであった。ラッセルの方でも戦争が始まったころから、重要な味方としてハーディに目星をつけていた。

〔ハーディ〕は暇な時間をすべて平和のために費やすつもりです。そして彼の生徒のほぼ全員が前線へ行ってしまい、大いに暇ができました…
間違いなく第一級の能力があります。数学者としてだけでなく、組織を作り、勧誘し、裏工作する能力がです。隠然たる力というのが大好きで、人生に興奮と危険が足らないことに悩んでいるのです。
もし政府が警察を使って脅そうとすれば、ハーディの目は輝くことでしょう。ようやく楽しくなってきたぞ、と。私は彼のことを全く不人情な奴 uttely heartless だとずっと思っていたのですが、どうやらそれは間違いだったようです。10

ラッセルの戦争反対は目に余るものであったから、トリニティ学寮内部に闘争が巻き起こされた。その四半世紀後、1914年から1919年の出来事について記した小冊子を書いているときも、ハーディはこの闘争を継続していたのだ。

1916年7月に評議会がラッセルを処分したとき、ハーディは、穏健派のフェローたちを糾合することは自分にできないとわかっていた。ハーディは平服であった〔軍役に就かなかった〕し、民主管理連合の支持者として有名だったからだ。11

「大物」と呼べる誰かに抗議運動の先頭に立ってもらう必要があった。第一候補者は、ラッセルと共に『プリンキピア・マテマティカ』を執筆したことで高名なあの人だ。

ホワイトヘッドは1910年にケンブリッジ大学を去ってロンドン大学で教鞭を執っていたけれども、依然としてトリニティ学寮のフェローであったし、端倪すべからざる「委員会マン committee-man」であった。12

ホワイトヘッドがしっかりしていると前提すると、彼が先頭に立つはずだし、事務仕事は平和主義者の連中に任せればいい。で、僕はホワイトヘッドに従えばいい。僕自身としては、この事件を全体として最大限に広く知らしめる方を選びたい。君にとってそれがどうなのか僕にはわからない。君はもう学寮にはうんざりなのかな。
でも、もし君がこれを歓迎している〔学寮と縁が切れて喜んでいる〕んだとしても、学寮としてはパリーの一味にこんなふうに公に汚されるのを許しはしない。マクタガートのくそ野郎には災いあれ、ロービーされちまえばいい――だがもう、それすら何とも思わないのかもしれないな。13

ヘンリー・ジョン・ロービーは1855年に使徒に選ばれ、にもかかわらずその年のうちに退会した。この裏切りを呪うことがしきたりとなっていたのである。

評議会の使徒五人みなが「兄弟」への裏切りを糾弾されて然るべきであったが、特にマクタガートはラッセルといちばん歳が近かったし、一時期はラッセルにとって哲学の師でもあった。


10 ラッセルからモレル夫人への手紙、#1,110, [18 Sept. 1914]。
11 ハーディも実際には軍役に志願したのだが、健康上の理由で退けられていた。
12 ヴィクター・ロウ『ホワイトヘッド伝 人と業績』Vol. I: 1861-1910 (Baltimore and London: Johns Hopkins University Press, 1985), p. 317。
13 ハーディからラッセルへの手紙、c. 12 July 1916。

〔民主管理連合 the Union of Democratic Control 必ずしも反戦を掲げなかったが、徴兵制や検閲に反対し、軍事が政治に介入することを強く批判した
〔ヘンリー・ジョン・ロービー 1830-1915 古典学者。使徒に選ばれたものの、肌に合わず退屈に感じたため退会を申し出た。使徒会の方ではこれを重大な裏切りとみなし、退会ではなく除名をもって処した。以後、使徒会ではロービーの名を呪う習わしとなった。ここでハーディが言っているのは「使徒会を除名され、呪われればいい」の意か〕




マクタガートこそは使徒会のカシウス。だが間もなくハーディは、ホワイトヘッドもまたブルータスであったことを知る。

ホワイトヘッドに会ったが、あの人はだめだ。ものすごく長々と弁解していたし、申し訳無さそうだった。彼自身の見解を詳しく書いて回送するんだそうだ。
僕はホワイトヘッドを責めはしない。彼の考えは彼の考えで、君がそうなのと一緒だ。彼もこの非常事態には困っていて、僕らは友好的なまま別れた。船頭にはなれないだろうというのは彼もよくわかっていた。14

戦争が始まったときからラッセルとホワイトヘッド夫妻はきっぱりと意見を違えていた。にもかかわらず、二年が過ぎた今も友情を維持しようとしていた。それは無理のある、統合失調症的とさえ言えるかもしれない努力であった。ホワイトヘッド夫妻は、気遣いと親愛の情を伝える手紙をラッセルに送り続けた。裁判の前日の手紙にはこうある――「すべてについて…幸運を祈るよ」。15

それでもなお、ラッセルもホワイトヘッドも、互いの古傷をえぐることを止められなかった。良心的兵役拒否者〔宗教や良心を理由に兵役を拒否する人〕が受ける処遇への抗議運動に手を貸してほしいとラッセルが依頼すると、ホワイトヘッドはホレイショ・ボトムリーのような書きぶりの返事をよこした。

自分が牢屋に入れられてしまうことに衝撃を受けてほしいと頼んでくる者にはあまり感心しません。毎日一万人が野戦病院に担ぎ込まれ、女や子供が強姦され切り刻まれています。誰もが悲痛の中に生きています。正直に言って、そういう抗議は軽蔑に値します。16

ラッセル事件のあいだずっと、ホワイトヘッド夫妻は息子二人の心配で半狂乱になっていた。ラッセルが解雇されたとき〔1916年7月〕、兄のノースはすでに入隊していた。弟のエリックは17歳で、一年後には徴兵される。


14 ハーディからラッセルへの手紙。c. 14 July 1916.
15 ホワイトヘッドからラッセルへの手紙、4, June 1916。
16 ホワイトヘッドからラッセルへの手紙、16 April 1916。ホワイトヘッドは「学寮長と特別研究員たちへ」(p. 4)では、ラッセルからの助力を求める手紙を「残念ながら」破棄してしまったと言っている。この引用中のホワイトヘッドの意見と、この件についてどういう意見だったと彼が言っているのか(同上、4-6頁)を比較されたい。

〔ホレイショ・ボトムリー 1860-1933 出版社経営者、下院議員。第一次大戦中の愛国的演説で有名。のちに詐欺罪で有罪〕




一触即発の状況であった。ラッセルもホワイトヘッドも、相手が戦争についてどれほど複雑な感情を抱いているのか、十分に意識していなかった。17

近しい友人であったからこそ、言葉で刺し違えるようなことになってしまった。そう、いわば運命的な必然により、解雇されたラッセルは、あたう限り早くホワイトヘッド夫妻に助けを求めたのであった。

ホワイトヘッド夫人は「トリニティ学寮に対して怒り心頭」だ、とラッセルはオットリンへの手紙に書いている。「ホワイトヘッドも始めはそうだったが、落ち着いてこの件を話し合うと、評議会を責めるべきではないという結論になった。」18

ホワイトヘッドはさっそく仕事に取りかかった。ラッセルが会いに来た7月14日にはもう、評議会と協議するためケンブリッジ大学を訪れ、自らの見解を正式に表明した8ページのパンフレットをほぼ書き上げていた。19

ラッセルの解雇はホワイトヘッドの神経を限界まで苦しめたように思われる。このパンフレットは痛ましいほど支離滅裂であやふやなのだ。

ホワイトヘッドいわく――ラッセルの主な主張である二つのことは、保守党政治家の貴族(パームーア卿)とカンタベリー大主教が公的に〔国会発言として〕確証している。一つは、良心的兵役拒否者が軍事監獄で不当な処遇を受けているということであり、もう一つは、たとえ刑に服すべきであるとしても、〔軍ではなく〕文民の司法管轄であるべきことだ。なぜラッセルは、パームーア卿およびカンタベリー大主教と同じことを言ったせいで罰されねばならないのか?

当面のあいだは、個々の訴訟事件の公平性は、国家の安全と、我々がそのために死んでいる大義とに従属します。我らが政治家たちはこの大義を、自由、正義、文明という大義として表現しています。そしてそれこそが、我らが兵士たちの生死を見守るにあたり、私たちの心を支えている思想です。
学寮評議会がとった行動について、私は何ら批判いたしません。ラッセル氏から講師職を剥奪するという評議会の決定は、現下において必須の民間規律についての決定として、明らかに国家を支えるものです。この決定は、学寮が未来に担う義務についての、評議会の個々のメンバーの正当なる判断と、完璧に一致しています。(p.7)

つまり、ホワイトヘッドの論法は以下のようなものらしい――パームーア卿と大主教もラッセルと同じことを言った。しかしラッセルのように「無思慮に heedlessly」言いはしなかった。戦時下に面倒事を起こそうとする輩がいたら、国家はそれを集団的な自己保存のために抑圧することができる。そして、国家が正しく行動したのなら、トリニティ学寮の評議会がそれを支持しても責められるべきではない。


17 一例として、D・H・ロレンスのラッセルに対する有名な攻撃――「突いたり刺したりする欲望を間接的で虚偽的なやり方で満たそうとしている」 (The Letters of D.H. Lawrence, Vol. II, ed. G. Zytaruk and J. Boulton [Cambridge: Cambridge University Press, 1981], p. 392)――を参照。ラッセルがどれくらいホワイトヘッドを個人的に怒らせたのか、正確にはわからないことには留意すべきである。というのもラッセルからホワイトヘッドへの手紙は、(ホワイトヘッドの指示で)イヴリン・ホワイトヘッド〔ホワイトヘッド夫人〕により破棄されたからだ。もっとも、ラッセルが戦争について執筆し公開した諸文書は彼を怒らせるに十分だっただろう。
18 ラッセルからモレル夫人への手紙、#1,391, [17?] July 1916。ラッセルがサウスウェールズからロンドンへ来て、弁護士と会い、ホワイトヘッド夫妻と会い、T・S・エリオット夫妻と会い、そして徴兵反対協会の委員会に出席した日について書かれている。
19 本号『ラッセル研究』に 全文 を再録した。




それと同時にホワイトヘッドは、評議会は「学寮の未来の義務…を正当に評価すること」(同上)を忘れてはならないとも感じていた。ホワイトヘッドのパンフレットは、評議会の義務とやらをはっきり述べないまま、漠然とものものしい結論で締めくくられている――「いまいるトリニティ学寮の学寮長そして特別研究員たちの手のなかにある争点は、今後幾世代にもわたり、偉大なる時代の知識を貪欲に求める人々にとって、英国の名誉にかかわります――英国は自らの動機を誠実に表明するという名誉に、そして、英国の学府の名声にかかわるのです」(p.8)。

つまり、評議会がラッセルを解雇したことは正しかったけれども、戦争が終わったら復職させるべきだ、と言っているのである。もしそうすることを拒むなら、公益の精神からではなく、悪意から行動していたことになり、後々まで歴史に汚名を残すことになるだろう、と。20


20 以上の解釈は、ホワイトヘッドからコーンフォードへの手紙、1 August 1916 (REC. ACQ. 912) により裏付けられる。




ホワイトヘッドは、古き友としても、知的協働者としても、ラッセルへの誠意を公式に示したかったのだが、基本的には評議会の味方であった。

長年のあいだにラッセルは、舌鋒鋭い論争によっても、全般的な傲慢さによっても、多くの傷を残してきた。使徒会で同時期を過ごした三人の有名な哲学者のうち、マクタガートとは公然と敵対。ホワイトヘッドとの親愛は薄れた。G・E・ムーアは――主戦派愛国主義者への嫌悪を同じくしていたのに――トリニティでの事件ではラッセルに少しも手を貸そうとしなかった。21


21 ムーアは大学講師〔ユニバーシティ・レクチャラー〕であり、トリニティ学寮のフェローではなかったが、奨学金受給学生〔プライズ・フェロー〕となったことがあり、学寮内に部屋を持っていたし、食堂も使った。リトルウッドの部屋での民主管理連合の集会が禁止されたときはムーアは公に抗議した。だがラッセル解雇の話になるとどこへともなく姿を消すのが常であった。参照:Paul Levy, Moore: G.B. Moore and the Cambridge Apostles (London: Weidenfeld & Nicolson, 1979), Chap. 10。

〔G・E・ムーア 1873-1958 哲学者。分析哲学の礎を築いた一人とされる。主著『倫理学原理 Principia Ethica』。使徒〕




*  II  *  




ホワイトヘッドをあてにできないことがわかると、ハーディはF・M・コーンフォードに手紙を書き、抗議運動の公式の発起人となってくれるよう依頼した。

この運動は将校に任官されたことのあるフェローによって率いられることが絶対に必要だ、とハーディは説きつけた。なぜなら、「僕らのうち世間体の悪い者は、世間体のよい者の世間体を活用すべきだからです。」22

しかしハーディは舞台裏で絶えず活発に動いていた。1942年の小冊子では「僕は当時の抗議声明に署名した以外、実際の争いでは何の役目も果たさなかった」と書いているが、単に本当のことを言わなかったのである。23


22 ハーディからコーンフォードへの手紙、[14? July 1916] (REC. ACQ. 912)。
23 『バートランド・ラッセルとトリニティ』p. 2.




ラッセル解雇の抗議運動の旗ふり役として、ハーディがコーンフォードを選んだのはなぜなのか?

コーンフォードは四十歳を過ぎていて、子供も一人いた。しかし早くに従軍志願していた。1916年にコーンフォードは射撃教官として軍務に就いていたのだ。といっても、ケンブリッジの家に住み続けていたし、学寮のネクタイもつけていた。

1915年11月、トリニティ学寮のリトルウッドの部屋で開催が予告されていた民主管理連合の集会を評議会が禁止したとき、コーンフォードはハーディを支持してくれた。ラッセル解雇のあと、コーンフォードはラッセルにこう語った――「評議会は私たちの恥だ」。年上の教師たちは「いろんな程度に正気を失っている」と。24

コーンフォードの精神的立場が確固たるものであることは信頼できた。ただしそれはあくまで、戦争賛成派の同僚たちの反感を買わないような姿勢であった。コーンフォードはツキディデスについて書いた本が広く賞賛されていたし、ケンブリッジ大学の「上流階級 aristocracy」と結婚していた。妻のフランシスはフランシス・ダーウィン(クライスツ学寮のフェロー)の娘であり、チャールズ・ダーウィンの孫娘であった。


24 引用:『ラッセル自伝 1914-1944』 (London: Allen & Unwin, 1968), p. 69 (original letter in RA)

〔四十歳を過ぎていて… この時点の兵役法(事実上の徴兵制)は、18~41歳の独身男性が対象であった。コーンフォードは1874年生まれであるから、年齢的にも既婚であることからも徴兵の対象外であった〕



ハーディは怒りを脇へ置いておき、学寮と関係円満なメンバーとしてラッセルを復職させるという長期的目標から目を離さなかった。民主管理連合の集会の禁止措置は、ラッセル解雇について拙速な決戦に持ち込めば敗北は必至であることを示していた。

この問題は、立ち消えにならないようにしつつ、静かに育まなくてはいけない。コーンフォードはそうした繊細な仕事には理想的な人物のように思われた。なにしろコーンフォードは、1918年に学内政治についての風刺的な小冊子を刊行し、ただちに古典となっていたからだ――『大学という小宇宙の研究〔ミクロコスモグラフィア・アカデミカ〕 若き学内政治家への手引き』。25

しかしながら、コーンフォードのこの論考は、大学の壁の中の学者たちの遅鈍さをからかうだけのものであった。「いかなることも、しなければならないと全員が納得するまでは、そして、納得してから余りに長年が過ぎたのでどうにかしなければならなくなるまでは、決してなされはしない」――これが大学の法則であると。26

ラッセル問題は、この法則の甚だしき例外であった。平均年齢六十歳になろうかという学者集団が、迅速かつ大胆に学寮の敵を排除したのだから。評議会が「老人の大急ぎ」でやってのけた既成事実(フェ・アコンプリ)に、コーンフォードとその味方は虚を突かれた形であった。

コーンフォードは、抗議しなければならないことには合意した。だが、すでに夏季休暇に入ったケンブリッジ大学では殆ど何もできないし、ただちにできることは皆無であった。コーンフォードは秋学期に反攻するため、支援者として見込める全員に手紙を送った。


25 再版: New York: Barnes & Noble, 1966.
26 『大学という小宇宙の研究』p. 10

〔老人の大急ぎ old men in a hurry 生きているうちに成し遂げようと急ぐ老人を冷笑する言葉。もとは、アイルランド自治法を強引に成立させようとした老政治家グラッドストーンへの揶揄〕




断固たる行動ができる者といえば、ラッセル本人であった。だが彼も逡巡した。評議会の決定を蔑む一方で、せいせいしたとも思った。急いで取り消させる必要を感じなかったのだ。

D・H・ローレンスとの濃密ではあったが短命に終わった友情は1915年のこと。以来、ラッセルは、ケンブリッジ大学のせいで気持ちが窒息させられていると感じていたし、「群れを抜けてそいつらに爆弾を落としてやれ」というローレンスの強い勧めに惹かれていた。27

1916年7月、徴兵反対協会のための講演ツアーでサウスウェールズを訪れたラッセルは、炭鉱夫たちの熱烈な歓迎に鼓舞された。完全に別の種類の教師になりたい、と彼はオットリンに語っている。

たぶん私にとってよいことなのでしょう。それをしたのがトリニティというのは悲しいですが。これでことは決まりました。知的食物に飢えた全ての労働者たち――そういう人が国じゅうにいます――の教師になるのです。私は始終そういう人と会っています。私の講演会にくる人のなかに『哲学の諸問題』を読んだ人が多いことは驚くほどです。こういうことをするのは偉大で素晴らしい人生であろうと予見しています――政治的なアイデアを扱いつつ、しかし実際の政治にはかかわらないでおくのです。
それと、C.O. 〔良心的兵役拒否者〕であるせいで放逐されるであろう全ての教師や学識者に協力を求めたいと思っています。そういう者は多いのです。考えてみてください、国の下にはない、新しい自由な教育を築き上げることを! 無限の可能性があります――唯一の問題は財政ですが、乗り越えられない問題ではない。
心と頭脳と人生をこれに捧げてもいいくらいです… ケンブリッジ大学の問題がああいうふうに解決されて喜んでいるのです。追い出した甲斐がなかった、と評議会に思わせてやれたらと思います。私自身のこれからの道が決まることになって嬉しいのですから、この件をほとんど個人的に受け止めてはいません。迫害は大歓迎です――戦争からは何もよいことが生じないとみんながわかるのですから。28


27 The Letters of D.H. Lawrence, II: 546。筆者〔ディレイニー〕による次も参照:D.H. Lawrence's Nightmare: the Writer and His Circle in the Years of the Great War (New York: Basic Books, 1978), Chap. III, passim
28 ラッセルからモレル夫人への手紙、#1,389 and 1,390, [15? and 19? July 1916]。

〔D・H・ローレンス 1885-1930 小説家・詩人〕




110ポンドの罰金を支払わせるためラッセルの所有物を競売にかける裁判所命令は、7月26日に執行された。フィリップ・モレルは支援者たちから金を集める役目を気前よく買って出て、最初の一品を125ポンドで落札し、罰金を帳消しにした。しかしラッセルは、〔トリニティ学寮の部屋の〕家財をすべて売り払って清算すると言い張った。

私は持ち物が多すぎるので、いくらか減るのはうれしいのです。もし(引用者注:ロンドンの)部屋〔フラット〕のものが売られたら嫌でしたが、トリニティのものはどうでもいい… ケンブリッジの家具が本当に売られてしまえばそれが一番かもしれないと思います… トリニティには戻らないでしょうから、もう許せないというほど彼らを怒らせても構いません。29

最初のひと山が競り落とされると、ラッセルは〔手放したくない本があったので〕蔵書を競売から取り下げた。そのあとはラッセルの部屋の絨毯からティーカップまで一切合切が30ポンドで売り払われた。30

解雇からわずか二週間でケンブリッジの拠点を立ち退いて、ロンドンでの多忙な生活へと飛び戻ったのである。徴兵反対協会の仕事のほかにも、ラッセルの恋愛は主に二つが進行中であった――オットリン、そしてヴィヴィアン・エリオット。そこへ三人目も加わることになる。コンスタンス・マリソン夫人である。31

復職の望みは薄いのに、トリニティ学寮のあたりをうろつく理由があるだろうか? いずれにせよ教師の仕事は、戦争が終わるまでは最小限にしたかったのだ。トリニティにはもう何の魅力もなかった。血に飢えた老教師ども。解雇に賛成した五人の使徒。おまけにホワイトヘッドまでほとんど助けてくれないときている。


29 ラッセルからモレルへの手紙、 [17? July 1916]。ラッセルは、罰金は競売の売上から自分で支払い、フィリップ・モレルが集めた金は徴兵反対協会へ渡すことを提案した。コーンフォードとハーディもこの基金へ寄付した。
30 この競売の広告は RA 710.110337 にある。
31 ラッセルがレディ・コンスタンスと出会ったのは7月31日。二人は9月後半に恋人同士となった。

〔110ポンド ラッセルが科されたのは罰金100ポンドに加え手数料10ポンドであった。ラッセルは支払いを拒んだため、トリニティ学寮の部屋の家財が競売にかけられた〕
〔フィリップ・モレル 1870-1943 弁護士、下院議員。ラッセルの恋人レディ・オットリン・モレルの夫〕
〔ヴィヴィアン・エリオット 1888-1947 詩人T・S・エリオットの妻〕
〔コンスタンス・マリソン夫人(女優コレッティ・オニール) 1895-1975 女優、作家〕


F・M・コーンフォードが受け取った、ラッセルの家財の競売の広告葉書。サイズ:138x 88 mm 

(画像:Russell, Vol 6: Issue 1, Summer 1986, p.50 より) 






*  III  *  




コーンフォードのラッセル擁護は弱腰だった。気質からして調停したり穏やかな圧力をかけることが優先であった(擁護される当人とは正反対だ)。

抗議運動をまとめるにあたって助言役となったのは、ハーディ、ウォード、シンプソン、そしてホワイトヘッド。この非公式の運営委員会には、したがって、強気の行動を望むハーディとウォードのほかに、三人の「ミニマリスト〔最小目標主義者〕」がいたことになる。実際、ホワイトヘッドの支援はミニマムすぎてほぼ見えないほどであった。

当面は、国家のこの最大の危機は、評議会の決議に真っ当で実質ある根拠を与えるものであることを認識するべきだと私は感じています。しかし、状況全体としては、もし彼らがこの件を戦後に訂正しようとしないのなら、スキャンダラスな不正を犯したことになり、それは私たちの不名誉ということになるでしょう。私としては、彼ら〔評議会〕が自らの意思でそう動いてくれることを希望します。とりわけ、もしフェローの多くが自身にとって適切と思う仕方で、それが自分たちの期待であると評議会に知らせた場合にはです。
もし評議会が動くなら、この問題をあつかう学寮集会は開かれないことを私は望みます。
世界史上で最大の危機とはどれほど大きな危機なのか、政府はどのくらいまでなら国民に規律を強いても正当化されるのか、この世の終わりまで議論することはできます。困ったことに、我らが平和主義者〔パシフィスト〕たちは、お互いを殺そうという全ての国の人々の側にある説明しがたい欲望という危機以外には、いかなる危機をも認識することを拒むのです。
むろん、もし評議会が動かないのなら、私たちは集会を開いて、不正な処断がなされたこと、そして、これは彼らが私たちの名誉を汚すことになるのだということについて、私たちの想いを表明しなければなりません… しかしそれは戦争が終わってからのことです。そして私は、評議会に大いに期待を抱いています。32

ハーディのような強硬派の抗議者たちはホワイトヘッドに不信の念を抱き、軽蔑さえ覚えた。それでも支持してもらおうとし続けたのは、ホワイトヘッドの名声を味方につけることが必要不可欠だったからだ。

他方、「穏健派」はシンプソンの提案した戦略を受け入れた――「諸勢力の提携関係の確定化」は、いかなる形であれ回避する。なぜなら、いま「中立派」の人々を刺激しすぎないようにすれば、戦争さえ終われば、然るべき側を非難するはずなのだから、という戦略である。

〔ところが、〕シンプソン本人がのっけからほとんど匙を投げそうになった――ラッセルが〔評議会への〕軽蔑を示すための計算づくの身振りとして、学寮名簿から自分を抹消しろと守衛長〔ヘッドボーター〕へ手紙で指示したからだ。これでは抗議運動に集まる署名はあまりに少ないだろう、とシンプソンは考えた。すっかり投げ出してしまうのが一番かもしれない。33

学寮がラッセルにどんな仕打ちをしたかを考えれば、ラッセルのこの身振りがなぜそれほどショッキングと感じられたのかは、いまひとつ明らかでない。しかし三年後、ラッセル復職の嘆願書が再度回ってきたときに A・E・ハウスマンはこの件をむし返した。

「私が貴殿の手紙にサインできないのは、ラッセルが学寮の名簿から名前を取り除いたからです。あのような癇癪を起こしたからには、彼は帰ってきたいなどと思うべきではありません。」34

コーンフォードは、ラッセルの振る舞いは大目にみてやってくれ、とシンプソンをとにかく説得するだけはした。そして1916年10月初めにやっと声明書が書き上がった。


32 ホワイトヘッドからコーンフォードへの手紙、1 Aug. 1916 (REC. ACQ. 912)。
33 シンプソンからコーンフォードへの手紙、Thursday, [I4? Sept.], and Sunday [24 Sept.? 1916] (REC. ACQ. 912)。ラッセルが守衛長に手紙を書いたのは九月半ばである。
34 『バートランド・ラッセルとトリニティ』p. 54

〔A・E・ハウスマン 1859-1936 古典学者・詩人〕




コーンフォードとシンプソンが起草したこの抗議声明は、ほとんどそれ以上マイルドになりえないほどマイルドであった。

「学寮のフェローのうち下に署名を連ねた者は、戦争中はいかなる行動を取ることも提案しないものの、ラッセル氏の講師職を剥奪した学寮の処断に不満であることを記録に付すことを欲する。」

これは評議会にとっては、何人かのフェローが将来どこかの時点でラッセルのために何かをするかもしれない、という通告でしかなかった。

ラッセルの支援者のうち数人は、抗議声明がこれほど遅く、これほど弱々しいものになったことに落胆した。その一人は、1910年にラッセルの生徒であったエリック・ネヴィルだった。「残念です」とネヴィルはコーンフォードに告げた。「この〔署名の〕リストが、この抗議活動が糾弾している相手の行動ほどには公然たるものでないというのは。内々にであれば少しでも署名が増えるのでしょうか。それでもし増えるのだとしても、こういう文面になることを予測できていた者たちのみが見ることができる長いリストよりも、公開された短いリストによっての方が、学寮の名声は回復されるのではないでしょうか?」

ネヴィルはこう提案した。評議会の行動は「狭量で、見当外れで、非愛国的」であったと大々的に糾弾する「マイノリティ・レポート」〔少数派からの反対意見書〕を発表すべきだ、と。35

もしそうしていたら、(約六十人のフェローのうち)たぶん八人か十人ほどは、そういった抗議声明に名を連ねたことだろう。だが最終的には、トリニティの壁の中の諍いに留めておくことでみなが合意した。


35 ネヴィルからコーンフォードへの手紙、16 Oct. 1916 (REC. ACQ. 912)。E・W・バーンズとC・D・ブロードも、より強硬な抗議を望んだ。

〔エリック・ネヴィル 1889-1961 数学者〕
〔E・W・バーンズ 1874-1953 数学者〕
〔C・D・ブロード 1887-1971 科学哲学者〕




抗議を内輪に留めたことについて、もっとも責任があるのはハーディであった。コーンフォードがこの「声明書」を起草すると、ハーディはすぐにラッセルに手紙を書いた。

トリニティについて、君が熟慮した考えを言ってもらえたらと願うよ(もし君自身、はっきりした考えがあればだ)。
二つの考えが拮抗しているのはわかると思う。僕の考え(ジェイムズ・ウォードと同じく)は、評議会は本当に意地悪で意固地だったというものだ――であるからには、戦争が終わったあとでさえ、彼らは意地悪で意固地なままだろう。すべきことはただ一つ、喧嘩して奴らを負かそうとすることだ。とにかく学寮のほうが悔い改めて頼んでこないかぎり、君が戻ってくるつもりがないのは確かなのだと、僕はそう想像しているからね。そして、もしそうだとすれば、喧嘩を避けようとするのはたんに馬鹿げていると思う。
もう一つの見方はこうだ。戦争が終わったらすぐに、評議会は潔く頭を垂れ〔ラッセルに復帰を乞うて〕、その慈悲深き統治を永続的なものとすることを望むであろう、と。これがホワイトヘッド-ハリソンシンプソン路線だ。
コーンフォードは、もちろん、地元〔トリニティ学寮のフェローたちの意か〕の意見にあまり接していないし、どちらの路線であれ最後に話をした方に傾くのではないかと思う。コーンフォードたちは、当然のことだが、どっちつかずの人からも署名をもらうための、かなりぼやけた声明書にしようとしている。もちろんある程度は、怖気づいているからでもあるし、彼ら自身の評判を落としたくないと願っているからでもあるけど、全くそのせいというわけでもない。36

ラッセルの返事は、喧嘩を避けるかどうかという点以外には、あまり方向性を示すものではなかった。

評議会についての君の見方には賛成しますが、私としては、戦争が終わったら、別の見解を取る評議会を選出することができるに違いないと考えています。喧嘩を避けようとしても何にもならないと思います。ホワイトヘッドハリソンシンプソン路線は、私には何かの役に立つとは思えません。
戦争が終わったら私個人がどうしたいと思うようになるのか、少しも言うことができませんが、ハイテーブルの息苦しさにまた耐えられるとは思えません。私のせいで吹き込むであろう冷たい隙間風のことを思えば、かりに向こうが私のことを我慢できたとしてもです。37


36 ハーディからラッセルへの手紙、19 Sept. [1916]。
37 ラッセルからハーディへの手紙、25 Sept. 1916。




最終的にこの均衡を一方へ〔穏健路線へ〕傾けたのは、「従軍者投票 service vote」からハーディが得た期待であったように思われる。

ハーディは〔戦地のフェローたちの意見を集約して〕こう確信した。戦争が終われば、軍役を果たしたフェローたち(トリニティ学寮の約三分の一)が精神的な主導権を握ることになるはずであり、和解するよう指図できることになるだろう、と。

ただしその一方で、誰であれ軍服を着ている者は、ラッセルを公然と支援しているように見られたりしたら、ひどく具合の悪いことになるだろう。〔実際にも〕この一年後、シーグフリード・サスーンの事件によって、平和主義者と兵士が一体となって行動するのはどうしても許されないことが明確に示された。

ラッセルが平均的な現役将校に最大限期待できることといえば、塹壕の中でC・N・S・ウルフ――レオナルド・ウルフの弟――が書いた手紙に要約されている。ウルフはコーンフォードにこう告げた――抗議声明にサインしてもよいが、戦争が終わるまでは秘密にして何もしないという条件であればだ、と。そしてサインしてもよいとはいっても、国土防衛法により有罪判決を受けたラッセルと連帯するためでは全くなかった。

私が耳にした戦争についてのラッセルの主張の全てに私は不同意ですし、彼が交際しているような運動の全てに私は不同意です。その運動全体が非常に悪質なものと私は考えます。
戦争中にすることは二つしかない。戦うか、黙っているかです。これが私の意見です。喋ったり書いたり抗議したりしたい人がいるなら、戦いが終わったときにさせればいい。
…ラッセルが受けたかもしれない仕打ちについて、私は学寮評議会のそれ以外には抗議しません。私がこれに反対なのは、この件についてラッセルを罰するのは評議会の仕事ではないからです。トリニティは学府です。それ以外の何物でもない。ラッセルのような学者を追い出しても愛国主義を示したことにはなりません。
もし彼が悪しき市民だとしても――私も多くの者もそう考えているわけですが――彼がきわめて偉大な学者であるという事実を変えることはできません。国家には、もしそうしたいときは、彼を罰する力が十分にあります。トリニティは学問が続くことを戦後まで守らなくてはなりません――これは簡単な仕事ではない、と私は想像します。
ラッセルその他の人々の反戦思想は、国家が――正当にも、と私は考えますが――面倒をみるはずです。学寮評議会が『プリンキピア・マテマティカ』の次の巻に反戦思想が記されることを恐れる必要がないことは間違いないと私は思います。38


38 ウルフからコーンフォードへの手紙、19 Nov. 1916 (REC. ACQ. 912)。

〔シーグフリード・サスーン 1886-1967 詩人・小説家。第一次世界大戦の前線で勇敢に戦うも重傷を負い英国に送還される。療養中の1917年7月、ラッセルらの勧めで停戦を訴える声明文を発表。反響の大きさを恐れた政府により軍の精神病院に送られる〕
〔C・N・S・ウルフ 1887-1917 歴史学者〕
〔レオナルド・ウルフ 1881-1969 政治理論家、作家。バージニア・ウルフの夫〕




歩兵部隊の将校であったC・E・スチュアートとG・B・テイタムも、運動に引き込まれることをその時点では拒んだ。スチュアートはこう告げた。ラッセルの不運は非常に気の毒だし、これまで以上に称賛するけれども、自分は評議会を糾弾するほど十分には事件のことを知らない、と。テイタムはたんにこう言った―― 一切関わらなくて結構だ。

三人とも――ウルフ、スチュアート、テイタム――前線で死んだ。

コーンフォードはウルフの手紙にひどく心を打たれ、年長組の好戦的愛国主義者の一人、R・D・ヒックスへと回送した――声明書にサインしてもらえたらという希望を抱いて。ヒックスはぴしゃりと言い返した。「我が国と呼ばれる有益なる偏見」ゆえに自分はこの問題を議論することさえ憚られるし、これまで数多くの罪を犯してきたラッセルに対して愛国者たちが「正直かつ勇敢に戦ってきた」のは正しかった、と。ラッセルとホワイトヘッドがカンタベリー大主教の裾陰に隠れようとしたのは不誠実だとヒックスは感じた。「ああした者は正直と言えるのか」とヒックスは結んでいる。「自分の目的のために、自分が本当は侮蔑しているような宗教的情緒を利用するというのは? 汚い真似だと酷評する人もいるだろう。」39

E・D・エイドリアンはラッセルの学識に敬服していたのでサインしたが、エヴァレット氏(その処遇が論争の発端となった平和主義者)については尻を蹴り飛ばしてやりたいと書き添えた。サインした者はもう一人いた。J・R・M・バトラー大佐である。学寮長の息子であり、のちにその伝記執筆者ともなる。なぜ署名したのか、その理由は記録に残っていない。


39 ヒックスからコーンフォードへの手紙、29 Nov. 1916 (REC. ACQ. 912)。

〔C・E・スチュアート 古典学者〕
〔G・B・テイタム 1883-1918 歴史学者〕
〔R・D・ヒックス 1850-1929 古典学者〕
〔我が国と呼ばれる有益なる偏見 保守思想家エドマンド・バーク(1729-97)は、社会を支えているのは偏見(習慣や先人の知恵への自然な愛着)prejudice であると説いた。つまりここでは「自分には愛国心があるので、反戦主義者のラッセルのことなど聞きたくもない」との意か
〔E・D・エイドリアン 1889-1977 電気生理学者。1932年にノーベル生理学・医学賞
〔J・R・M・バトラー 1889-1975 政治家、古典学者。第一次世界大戦のさい義勇騎兵団に参加〕




コーンフォードと各人の手紙のやりとりは、政治学の公理を再確認させてくれる――人々が立場を選ぶときにはどんな理由もありうるのであって、大学人の信念もそれと同じどころか、そのへんを歩いている人々以上に奇妙で突飛な根拠さえ持ち出してくる、ということを。

しかしつまるところ、トリニティ学寮のフェローたちが迫られた決断は単純であった。声明書にサインするか、サインしないかだ。

フェローのなかでもっとも自己分裂していたであろうホワイトヘッドは、署名はしたものの、奇妙な但し書きを書き加えた――「評議会がラッセル氏にふさわしい研究職〔アカデミック・ポスト〕の提供を申し出ないのであれば」。

ホワイトヘッドからコーンフォードへの手紙の添え状からは、この件について曖昧さが残るものの、それ以外には、やりとりされた手紙の全てにおいて、この職位を戦争が終わったあとに与えるというのがホワイトヘッドの考えであることがわかる。

私の署名を同封しましたが、但し書きを付しました。
もちろん、評議会が〔ホワイトヘッドの但し書きの〕提案どおりに振る舞ったとしても、不必要に不体裁な行動をとったことにはなるでしょう――まず解雇して、しかるのちに、変更を加えた職位――すなわち、たまに講義もする研究職――を復元するというのは。それでも私は(その場合には)、自分の意見を恒久的な記録に残すこと〔抗議に加わること〕を欲した、と言うべきではないでしょう。誰もが緊張と重圧の下で行動したり発言したりしなくてはならなかったのですから、過度に厳密に批判されるべきではないのです。
例えば、戦争へ行った若者たちについてバーティが言ったこと――それはアメリカで出版もされました――が、私たちをひどく傷つけたことがありました。行動が問題とされるならば批判を免れうるものは殆どないことを思えば、私はただ、実質的な公平さと、学問の尊重という点で学寮の評判が実質的に守られることを切望しているだけなのです。40


40 ホワイトヘッドからコーンフォードへの手紙、18 Oct. 1916 (REC. ACQ. 912)。ホワイトヘッドが言っているのは、ラッセルの次のような類の発言である――「ほとんど全ての人の中に野獣が眠っていますが、文明化された人ならば、それを揺り起こしてはならないことを知っています… 戦争は、何百万人もの戦闘員の魂のなかで、この精神的な殺人を犯しています。人々は毎日、内心の最も善きものを殺す行為によって、この獣性の領地へと踏み渡っているのです。それなのに、我が国の新聞や牧師や教授たちは、戦争が人を気高くするなどという戯言を垂れ流しています」(Russell, "The Danger to Civilization", The Open Court, 30 [March 1916]: 174; reprinted in his Justice in Wartime [Chicago: Open Court, 1916])。

〔バーティ Bertie バートランド・ラッセルの愛称〕




コーンフォードが声明書を学寮へ送付したのは1917年1月17日であった。22名が署名した。そのあとも何人か加わる可能性はあったが、ラッセルの解雇からすでに六ヶ月が過ぎており、フェローの過半数に署名してもらう見込みはなかった。署名した者でさえ、それ以上の行動に出る構えではなかった。

評議会はこの声明書を受理し、当然ながら何もしなかった。たぶん評議会の方ではこう考えたのだろう。なにやら反対派が豆鉄砲を撃ったようだが、あとは大人しく解散して何もしないのだろう、と。

ラッセルは家具を売って立ち去ったのだから、戻ってくると思う理由もないのであった。




*  IV  *  




1917年1月、ホワイトヘッドはラッセルと完全決裂の寸前まで踏み込んだ。哲学の共同プロジェクトを今後も続けることを拒否し、また、フランスとベルギーの労働者たちのドイツへの強制移送について何もしないのかとラッセルを挑発したのだ。41

このときもイヴリンがこの仲違いを癒そうとした。ホワイトヘッドが怒っているのは、先ごろ彼女が臥せっていたとき、友達のはずの平和主義者たちが彼女をないがしろにしたからだ、とラッセルに言った。

みんなが良心的な動機で苦しんでいるのです。私たちに与えられた苦しみが非常に重いものであることは、あなたこそ最も否定しない人のはずです。アルフレッドが苛立っているとあなたが感じているのは、あなたに対して苛立っているのではありません。彼はあなたの見解が気に入らなくて、あなたも彼の見解が気に入らないのですから、その苛立ちは二人の違いからきているのではありません。アルフレッドこそは私が会ったことのある誰よりも寛容な心の持ち主です… 私が病気で激痛に苦しみ、そのせいで何ヶ月も外へ出られなかったときに、私がどう扱われたかということに憤っているのです。あの同じ親友たちが、たったの一時間もうちへこず、寂しい私を優しい友情で元気づけようとしてくれなかったのですから… 42

1918年3月、ホワイトヘッド夫妻の息子のエリックが戦死した。19歳であった。そのひと月後、反戦活動を続けていたせいでラッセルは入獄した。

収監される前にラッセルは追悼の手紙を送り、ホワイトヘッドの心を和らげた。ホワイトヘッドはブリストン監獄に見舞いにいくことを約束した(実際にも定期的に訪れた)。そしてこう手紙を結んだ。「さようなら、友よ、これから幾月かの試練を頑張ってくれ。親愛なる者より、アルフレッド」。43

ラッセルはエリックをいたく好いていた。ラッセルはこう考えたかもしれない――ホワイトヘッドと哀しみを分かち合い、そして自分の信念の対価も支払ったのだから、友情を取り戻すだけのことを十分にした、と。もしそう考えたのだとしたら、ラッセルは非常に間違っていた。


41 詳細は Clark, p. 318 を参照。
42 イヴリン・ホワイトヘッドからラッセルへの手紙、10 Jan. 1917。
43 ホワイトヘッドからラッセルへの手紙、1 April 1918。

〔ラッセルは入獄… 新聞に執筆した反戦記事が有罪となり、1918年5月始めから9月まで収監された〕



1917年1月にトリニティ学寮評議会に送付された声明書。コーンフォードが集めた22人の署名と、4人の署名拒否が記されている。〔最下部にホワイトヘッドの書き加えた但し書きがある〕

(画像:Russell, Vol 6: Issue 1, Summer 1986, p.56 より) 





11月11日の休戦の数日後、評議会を再攻撃するにあたり先頭に立ってほしいと、ハーディはコーンフォードに依頼した。

僕自身の態度としては、
(a) 全員出席のハイテーブルが再開されたら、すぐにこの問題は提起されなくてはならないし、提起されるだろう。
(b) もし、調停する方向で提起されうるなら、かつ、できるだけ穏健な人々によって提起されうるなら(ラッセルほどの卓越し矜持ある者ならば、どんなときでも提案の内容だけで十分満足するはずという仮定の下でだが)、それが好都合だ。僕のような考え方の者たち〔強硬派〕も、ことを荒立てようとは望まないはずだ。しかし、
(c) もし「分別のある」人たち――きみがその自然なリーダーであると僕は見なしている――が、それなりに早い内にそうしないなら、そのときは非和解派分子は手に負えなくなるだろう――僕が言っているのは、リトルウッド、ドナルド・ロバートソン、ウィンスタンリー、そして僕自身のことだ。さらに、
(d) これが意味するのは、猜疑といがみ合いという現在の状況が際限なく続いて、学寮が自力で更生するための全ての努力にとって深刻な障害となるだろう、ということだ。
学寮当局者たちは「すべて終わったのだからお前を許そう」と言うつもりがあるはずだ、というだけでは十分ではないと僕は思う。ラッセルは男子生徒ではないのだから、鞭打ちしたあとに握手すれば済むというものではない。必要なのは、はっきりと悔い改めたという、何らかの表明だ――不必要な激怒や挑発のない、明確な撤回が必要だ。
すなわち、(これはただ一例として言うのだけど)「この会合は、1916年にラッセル氏が解雇されたことを遺憾とするものであり、彼の復職に必要な手続きをとることを評議会に要請する」との提議を学寮集会で通過させれば、それで充分だとみんなが思うはずだ、というのが僕の考えだ。何かそういった路線ならば、きみの〔1917年1月の〕声明書への署名者たちの同意を全て集められるのではないか、と僕は思う。44


44 ハーディからコーンフォードへの手紙、c. 18 Nov. 1918 (REC. ACQ. 9 12)。

〔休戦 1918年11月11日、連合国とドイツ帝国が休戦協定を締結。事実上の戦争終結〕
〔デニス・ウィンスタンリー 1877-1947 歴史学者〕




ハーディはこう提案しているわけである。全学寮的な集会で投票をして、評議会への非難決議を通す。そうなれば、ラッセル解雇に賛成した評議会メンバーは辞任する道徳的義務を負うことになるであろう、と。

このような最終対決へ持ち込む前に、コーンフォードはホワイトヘッドに相談した。これはたぶん、学寮の意見がどのへんへ落ち着きそうなのかを占うためには、ホワイトヘッドが最適な「リトマス試験紙」だと考えたからだろう。

それへの返答は、ホワイトヘッドの立場が1916年のときよりも厳しいものになっていることを示した。

B・R〔バートランド・ラッセル〕のトリニティとの関係という問題は、難しく痛ましいものです。断定的 categorically 、かつ、個人的感情ぬきに、私の見解を表します。
(I) この状況の支配的要因は、二回目〔1918年〕の法律違反とその有罪判決ですが、それがハーディの手紙でもあなたの手紙でも抜けています。ここではB・Rに深刻な誤りがあったのです。
(2) 公衆の感情は、この点について強硬です。B・Rをトリニティの地位に直ちに復職させることは、哲学研究の公開講座の講師という以外のことの影響についても必然的に呼び戻すことになるのですから、学寮を破滅させる用意が我々にないかぎり、それは不可能です。
(3) 近い将来の最良の見込みとしては、どこか別の大学の学寮の講師職が提供されて、そこでの彼の直接の活動は、当然ながら教師という正式な義務と関係したものである、というものです。この方向で手順が進んでいるところです。あなたもそれを聞いているかもしれません。立案者はギルバート・マレーで、成功の見込みについては彼があなたに知らせることができるかもしれません。
(4) この問題について学寮長と話す機会を早くに設けることが、あなたの明らかな義務であるように私には思われます。
(5) 任命の問題は学寮集会の権限の埒外なのですから、任命や解任について論評したり、特定の者の任命を迫ったりする動議というのは、不適切であろうと思われます。
(6) G・H・H〔ハーディ〕の手紙の (d) の段については、私の誤解であってほしいものです。フェローたちは学寮の統治者であり下僕でもあります。前者としては、私たちの敵にも義務感――どれほど誤ったものであれ――があると信用するべきですし、後者としては、選任された当局者たちによって敷かれた諸条件のもとで忠実に働かねばなりません。「猜疑といがみ合い」と言っているのが私には理解できません。学寮の方針を私たちが決定するにあたって、そのような結果を示唆する余地はないはずです…。
ここ四年間の恐怖が終わったのは素晴らしいことです。しかし、私たちが失ったものは何も戻ってきませんし、痛みは和らぎません…。 45


45 ホワイトヘッドからコーンフォードへの手紙、27 Nov. 1918 (REC. ACQ. 912)。

〔ギルバート・マレー 1866-1957 古典学者。オックスフォード大学教授。古代ギリシア劇の翻訳で有名〕




この時点では、もうコーンフォードには頼れなかった。コーンフォードは細君が神経衰弱を患ってしまい、学園ゲリラ闘争をもう一頑張りするどころではなくなっていたのだ。しかしハーディはといえば、粘り強いことこの上なく学寮内でのロビー活動を続けた。

何か月か経つうちに、ラッセルを復職させたければ攻撃的ではない手を選ばなくてはならないことがハーディにも分かってきた。1919年の晩夏までには、H・A・ホロンドを主唱者として、中立的な言葉で周到に綴られた声明書が新たに打ち出された――もし評議会がラッセルの復職に賛成するなら、解任したことについて何ら罪を認める必要はない、という内容だ。ラッセルの支援者の何人かはこれは上辺をごまかすものだと考えて、この声明書への署名を拒否した。

ハーディはホロンドへの手紙にこう書いた。ここまで水で薄めた抗議声明ならば、ホワイトヘッドが署名しないことは「ほとんど考えがたい」と。「ただ、彼の本の序文がああでしたから、どんなこともありうるとは思います」。46


46 ハーディからラッセルへの手紙、early Sept.? 1919 (REC. ACQ. 912)。

〔H・A・ホロンド 1884-1974 法学者〕




その本とは、ホワイトヘッド『自然認識の諸原理』だ。1919年9月に出版され、献辞はエリックへと捧げられていた――「彼の人生の音楽に不協音なく、その美は完璧であった」。序文のなかでホワイトヘッドはラッセルへの謝辞を述べているのだけれども、同時にマクタガートを含む他の一群の名前も挙げたうえで、こう記していた。「彼らは意見を異にしつつも、…真理を求める忌憚なき情熱で一つになっていた」。

夫こそは自分の会ったことのある人のなかで最も寛容な心の持ち主である、というイヴリン・ホワイトヘッドの主張の、見本のような一例ではあった。しかし残念なことに、ホワイトヘッドの寛容主義とは、マクタガートこそラッセルがトリニティ学寮の構内で真理を追求する機会を冷酷に切り捨てたことを忘れるのを許すたぐいのものであった。またその一方では、ホワイトヘッドの行動原理というのは、ホロンドの抗議声明――評議会は今やラッセルを許し、忘れ、復職させるべきだという声明――にサインすることを自らに許すものでもなかった。

あなたの起草した学寮長への手紙を何度も読みましたが、これにサインするよう心を決められたらよいのにと願います。しかし正直なところ、それはできません。あなたが署名者たちに言わせていることに、私はほとんど一字一句同意するのですが。私にとって難しいのは、もう一つの無視されている面があるということです。回されてきた手紙の文案を承認した使徒会のメンバーたち――戦争中に実際に従軍したという名誉ある記録をもつ多くの者――が、この側面を過小に見積もってしまうのは当然ではあるのですが。私が言っているのは、あの焦熱地獄へと子供を送り出し、その犠牲へと導いた高い理想の記憶を糧に今は生きている者の視点のことです。それは悲痛な明白さでもって、タイムズ紙の「追悼」欄に毎日表されています。
その英雄的行為と喪失にラッセルが大きな同情を寄せていることは私は十分に承知しています。しかしこの上なく残念なのは、彼の公的な発言が、彼の感情の全てを十分に表現していないことです。彼の辛辣な文体と、あらゆる大衆行動が呈さざるを得ない混成的な現象への当然の苛立ちが、アメリカとイギリスで出したああいう記事になってしまったのです。犠牲の動機を見くびり、もっと早い決断ができたかもしれない産業力や国民行動の動員を遅らせるようにと計算された、あのとげとげしい言葉に。
その結果として、彼がただちに復職すれば巻き起こるであろう反感の力は、私には見積もることができません。この感情はあまりにも深いので、彼の名を出すだけで抗議の嵐を巻き起こすことでしょう。したがって――ラッセルの意見は別にしても、彼自身がそうした無防備な表現をしたせいでこうした状況になっているのですから――、学寮がラッセルの復職の手続きを進めるように迫るという非常に強い進み方は、私としてはできません。時間が与えられなくてはなりません。どれくらいとは私には言えません――今後しばらくの出来事の成り行きによります。
この性急な行動については私は、判断を誤っているものと見ますし、私たちみなが望んでいるに違いないことを実際には遅らせてしまうものと見ます。しかし、そういう根源的な感情が喚起されている問題については、それを鎮静させるものはただ一つ、時間しかないのです。47


47 ホワイトヘッドからホロンドへの手紙、24 Sept. 1919。この手紙と、これに続くもう一つの手紙は、ラッセル文書館所蔵のハーディ『バートランド・ラッセルとトリニティ』のタイプ原稿から取った。このタイプ原稿ではハーディは、この二つの手紙を付録に収録したと述べている。しかし印刷版では「引用するには長すぎるし、おそらく個人的すぎる」(p.55)としている。たぶんホワイトヘッドが許可を拒んだのだろう。




二ヶ月後、評議会がラッセルの復職を強いられそうだということがはっきりすると、ホワイトヘッドはぎりぎりになったところで、結局は声明書に署名した。

「私にとって最も単純な道は」とホワイトヘッドはホロンドに語った。「署名して、一緒に送る添え状(同封しました)をあなたに送ることです。私はこの件の全体について、この上なく悩ましい困難を感じています。ラッセルの行動のいくつかは擁護しがたいと私には見えたという事実のせいで、たとえ天が落ちようとも正義はなされよ、という路線を私は取ることができません。したがってこれは、感情を落ち着かせ、過去を水に流し、互いの言動を裁くのを止め、バーティを仲間としても偉人としても認め、それなりに安全に学寮に戻らせることができるときに戻らせる、という問題なのです。」48


48 ホワイトヘッドからホロンドへの手紙、24 Nov. 1919。




ハーディはこの〔ホワイトヘッドの〕心変わりについて、皮肉まじりにラッセルに報告した。「やっとWを得ることに成功しました。ほとんど無礼といってよいほどの手紙を書くという賭けをしたのですが、その甲斐がありました。」49

ラッセルのために立ち上がるよう圧力をかけられて、ホワイトヘッドは彼らしくも、添え状を同封してきたわけである――自分は評議会を支持するために最大限のことをしているのだ、と伝える添え状を! 50

ホワイトヘッドのお気持ちを伝えられても、敗北に直面した評議会の頑固者たちは嬉しくとも何ともなかったのではなかろうか。


49 ハーディからラッセルへの手紙、30 Nov. 1919。
50 「しかしながら私は今こう確信しています。いまの学寮内の感情のバランスとしては、担当の学寮運営当局者たちがそれなりの早期にラッセル氏を復職させることが賢い道である、といったところであると。したがって私は、これは評議会にとって都合がよく、彼らの手札を強くするものだと思います。というのは、その声明書で迫っている理由によって、その路線で彼らを支持するつもりがあるフェローが一目瞭然となるリストを手に入れることになるからです。」(ホワイトヘッドからホロンドへの手紙、24 Nov. 1919 [Trinity College Library]; copy in RA, REC. ACQ. 403)。




こうして、トリニティ学寮の内側にできた亀裂は、癒えたとは言えないまでも、蓋をされた。戦前の体制そのままへと復帰する、というのがこの和解の中身であった。ラッセルにはフェローの地位こそ与えられなかったものの、以前と同じような程々の講師職と程々の俸給――年あたり250ギニー――が提供された。この取引は渋々と、そして秘密裏になされ、本当の大きな問題、すなわち、学問の自由という問題には触れないままとなった。この事件について言えることといえば、トリニティ学寮のフェローたちが同僚どうしの協調を取り戻し、昔からの仕事を続け、「猜疑といがみあい」に悩まされなくなったということ――これが全てであった。

戦争が学寮の中庭を通り過ぎ、そして去った。いまや大学人たちは条約を結んだ。ヴェルサイユ条約とはまるで違う条約を。できるだけ戦争などなかったふりをすることにしたのだ。




ポール・ディレイニー
Paul Delany
サイモンフレーザー大学、英語学部
Department of English
Simon Fraser University



〔おわり〕

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【訳者(niconicoffee)より】

英文学研究者のポール・ディレイニー教授が、新資料(ホワイトヘッド「ケンブリッジ大学トリニティ学寮の学寮長および特別研究員たちへ」)の発見を機に執筆した論文(1986年)を翻訳しました。

トリニティ学寮のフェローたちがラッセル復職運動のなかで何を考え、どう動いたかを詳細に追跡したものであり、とくにハーディの粘り強い裏工作と、ホワイトヘッドの苦悩に光を当てたものとなっています。

ラッセル解雇への抗議声明=「声明書」は二回提出された、という経緯がちょっとわかりにくいので整理します。ハーディの奔走により、ラッセル解雇の半年後、1917年1月に22名のフェローが署名した第一の「声明書」が作成されます。ホワイトヘッドは但し書きをつけた上で署名しました。これを受け取った評議会は、当然ながら何もしませんでした。終戦後、第二の「声明書」が作成されました。ホワイトヘッドは最初は署名を断りましたが、土壇場でサインしました。そして評議会に何らかの「添え状」を同封したもようです。この二番目の声明書には27人のフェローが署名し、第一次世界大戦の終結から約一年後の1919年11月28日付で学寮長に送付され、同日開かれた学寮評議会で任期5年間の講師職(論理学 Logic および数学原理 the Principles of mathematics をラッセルに提示することが決定されました。

ラッセルはこれを受諾したものの、実際には講義をしないまま中国訪問のため休職し、1921年に辞任してしまいます。この辞任は、離婚協議が進行中だったため、スキャンダルを起こすと復職運動をしてくれたフェローたちに申し訳ないから、という私的な理由があったようです。ラッセルが再びトリニティ学寮に復帰するのは1943年であり、その後は終生フェローに留まりました。(ちなみに、1925年にはトリニティの招待で講演もしているので、トリニティとの和解自体は1919年末に成立したとみなせます。)

さて、ディレイニー教授がホワイトヘッドに向ける視線にはかなり冷たいものが含まれていますが、私はホワイトヘッドの愛読者ですので、少し擁護したい気持ちです。

ラッセル解雇の直後、ホワイトヘッドは個人でパンフレットを書き、評議会に送付します。その内容は、ラッセルは悪くない、でも解雇は仕方がない、戦争が終わったら復職させよう、というものです。ディレイニー教授はこれを「痛ましいほど支離滅裂であやふや」と評します。

「痛ましい」のはその通りですが、本当に「支離滅裂であやふや」でしょうか? 私にはむしろ、実にホワイトヘッドらしい文章として読めます。…そのことは既にこのパンフレットの翻訳のあとがきの方に書きましたので、ここでは、ラッセルの二度目の有罪判決(1918年)のあと、ホワイトヘッドがラッセルの復職にかんして態度を硬化させていたという、やや意外な展開についてコメントします。

1916年7月のラッセル解雇の直後には「戦争が終わったら復職させよう」と意見表明したホワイトヘッドが、1918年末の終戦直後には「もう少しほとぼりが冷めてからでなくては復職には賛成できない」という意見に変わっていたわけです。

ホワイトヘッド自身はこの態度変更について、ラッセルの二度目の有罪判決と、イギリスの国民感情を理由に挙げています。もちろん、ホワイトヘッドの次男エリックの戦死も関係していたことでしょう。平和主義者たちの活動がなければ、戦争はもっと早くに終結し、エリックは死なずに済んだのではないか――そういう考えが脳裏をよぎらなかったはずがありません。といっても、ホワイトヘッドがラッセルに個人的な恨みを抱いたということではなく、第一次世界大戦でどれだけ多くの若者が死んだかを考えれば、これこそが多くのイギリス国民の感情であったことは間違いありません。

このことを理由に、ほとぼりが冷めるまでは他の大学にと提案しているのですから、あくまでラッセルを気遣ってのことと見ることができます。コーンフォードへの手紙に「この方向で手順が進んでいるところです」と書いていますから、ラッセルに別の就職先を手配するべくホワイトヘッド自身が動いていたのかもしれません。

しかし、いざラッセルの復職が確実になると(戦争から帰ってきたフェローの一部がラッセル復職に賛成したためのようです)、土壇場でホワイトヘッドも賛成派に名前を連ねたわけです。ホワイトヘッドとしては大変悩んだことでしょう。いま復職しても、ラッセルへの風当たりは強いかもしれないのです(そして実際にラッセルは約一年で辞任してしまいます)。とはいえ、それなりに多くのフェローの意見によって実現するのですし、最終的には復職させるべきだとホワイトヘッドも思っているのですから、「もっと後がいいと思う」という理由で反対するのもおかしなもの。仕方なく賛成したのではないでしょうか。これも、ディレイニー教授が「自己分裂」「心変わり」と呼んだほどには矛盾した言動ではないように思います。

平和主義の立場からホワイトヘッドを批判することはできますが、ホワイトヘッドは最初から平和主義者ではありませんでした。ときには戦争遂行が優先されること、大学を学問の場として守りたいこと、ラッセルが大切な友人であること…。それらの併存しがたい立場を自分の思想と行動の中に併存させ続けたという意味では、ホワイトヘッドは一貫していました。そして実際にも、ホワイトヘッドはこの後もラッセルとの交流を完全に絶やすことはありませんでしたし、ラッセルが再びトリニティへと落ち着いたのは1943年になってからだったのです。


◇参考
・ホワイトヘッド「ケンブリッジ大学トリニティ学寮の学寮長および特別研究員へ」(1916)
ラッセル研究者及びラッセル・ファンのためのポータルサイト
・アラン・ウッド『バートランド・ラッセル 情熱の懐疑家』碧海純一訳、木鐸社、1978年
・Ray Monk, "Bertrand Russell: The Spirit of Solitude, 1872-1921", 1996
・『ラッセル自叙伝I』日高一輝訳、理想社、1978年


◇翻訳上のあれこれ
・レイアウトが難しかった。原注、訳注、画像を全て段落間に配してみた。読みにくいかなあ。
・副題 a study in high table politics は非常に格好いい。が、コナン・ドイル『緋色の研究 A Study in Scarlet』をどう訳すべきか昔から議論されているように、a study in ~ の訳し方は難しい。「ハイテーブルの政治学」とあっさり訳しちゃったけど、しょうがないよね…
・手紙の日付を ”16 July 1916” とかのままにした。「1916年7月16日付」などと訳した方がよいのかもだが、日付以外の記号とかカッコとかがついている場合もあり、扱いにくいのでそのままにした。
・「6月15日に判決」→ 原文は6月5日だが、6月15日と訂正した。6月5日は公判日と思われる。
・ホワイトヘッドの文章がよくわからないところがあると思いますが、それは私が文意をよく掴めていないとこですね…。特に注50が何言ってるのかわからん。
・「我が国と呼ばれる有益なる偏見 the salutary prejudice called our country」→ うまく訳せないけど仕方ないか…?
・『大学という小宇宙の研究〔ミクロコスモグラフィア・アカデミカ〕』→「大学トイフ小宇宙ノ観察誌」とか? うまく訳せなかった。
・「声明書 memorial」→ 請願書かもしれないけど、文脈的に「声明書」と訳した。
・ディレイニー教授は、1919年のラッセル復帰では「フェローの地位こそ与えられなかったものの」と記しているが、Ray Monk は「任期5年のフェローシップ」と書いている。フェローには何種類もあるようで、わかりにくい。正式なフェローとそれ以外の条件付きフェローには大きな差があるのかもしれない。

〔おわり〕


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