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ホワイトヘッド「ケンブリッジ大学トリニティ学寮の学寮長および特別研究員たちへ」(1916)

2020/02/16 13:22 投稿

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トリニティ学寮のラッセル解雇事件のさいにホワイトヘッドが書いたパンフレットを翻訳しました。
〔原文は ここ で読めます〕




(画像:Russell, Vol 6: Issue 1, Summer 1986, p.63 より)


背景を簡単に説明します。

1916年4月、第一次世界大戦下のイギリスで、良心的兵役拒否者(宗教的・思想的な理由で兵役を拒否する人)の学校教師エヴァレットが重労働二年の刑を科されるという事件が起きます。バートランド・ラッセルはエヴァレットらを擁護するチラシを執筆し、それにより同年6月15日、罰金100ポンドの有罪判決を下されます――「新兵徴募や軍紀に害を及ぼしてはならない」という法律に触れたとの咎です。

判決からひと月経たない7月11日――6月29日の上訴棄却からはわずか2週間後――、ラッセルはなんと、母校であり教師として勤務していたトリニティ学寮の講師職を解雇されてしまいます。

トリニティは、かのニュートンも輩出したとりわけ高名な学寮です。「学寮」とは何でしょうか。ケンブリッジ大学(ユニバーシティ)は複数の学寮(カレッジ)の集合体であり、学生は教師と起居を共にしつつ勉学に励みます。これはケンブリッジ大学のほかにはオックスフォード大学など少数の大学にしかみられない、独特の制度です。

トリニティ学寮の運営を担うのは評議会〔カウンシル〕であり、有罪判決を受けた教師を解雇する権限がありました。しかし、政府による政治的・思想的な弾圧というほかないこの仕打ちに、トリニティが間髪入れずに追随したのはなぜでしょうか。それは、国を挙げた戦争のさなかに平和主義者〔パシフィスト〕は白い目で見られたということがまずあります。それに加えて、自由思想家として奔放な言動が目立つラッセルを嫌悪する(特に年上の)同僚が少なくなかったのです。

その一方で、数学者のハーディなどトリニティのフェローの一部は、ラッセルの解雇を撤回させるために奔走を始めました。

「フェロー〔特別研究員〕」とは何でしょうか。これも独特の制度です。教授や講師といった学部の地位とは別に、フェローという学寮の地位があるのです。フェローは学寮の正式な自治構成員です(この意味で「寮友」とも訳せます)。学寮を運営する評議員や学寮長〔マスター〕もフェローから選出されますし、食堂の一段高くなった場所(ハイテーブル)で食事をする、居室を持つ、中庭の芝生の上を歩くといった特権があります。

さて、われらがホワイトヘッドは、どのように行動したでしょうか。

ホワイトヘッドにとってラッセルは、かつての教え子であり、のちには同僚、長年にわたる共同研究者、そして大切な友人でした。戦争への賛否で意見を違え、かなり疎遠になっていましたが、少なくともホワイトヘッドの側からは友情を維持するべく努めていました。

抗議運動の先頭に立つようハーディはホワイトヘッドに打診しますが、それは実現しませんでした。ホワイトヘッドは最終的には、ハーディらが用意した抗議声明に自分の名を連ねます――なにやら奇妙ともみえる但し書きをつけて。ただしこの抗議声明は、賛同者集めと文面の調整に半年ほど手間取り、翌年1月にようやく評議会へと送付されます。

ホワイトヘッドは、この抗議声明への署名とは別に、自分一人で執筆したパンフレットをトリニティ学寮の評議員たちに送付しました。こちらはラッセルの解雇決定から四日後、7月15日付で印刷されています。一気呵成に書き上げたと言ってよいでしょう。

その存在のみが以前から知られていたこのパンフレットですが、現物が発見されたのはずっと後年、ラッセル文書館のケネス・ブラックウェル博士によってです。

そしてこれが、英文学研究者のポール・ディレイニー教授とブラックウェル博士による前書きを付されたうえで、『ラッセル研究』 Russel : the Journal of Bertrand Russell Studies 1986年夏号(Vol 6: Issue 1)に全文掲載されました。

以下に翻訳したのは、教授らの前書きを含めた、このパンフレットの全文です。

その他の情報は最後に置きました。


翻訳転載の許可をくださったポール・ディレイニー教授とケネス・ブラックウェル博士に感謝いたします。


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編集者前書き

EDITORIAL NOTE


ロナルド・クラークは『バートランド・ラッセルの生涯』〔1976〕のなかで、ラッセルがトリニティ学寮から解雇されたさいにA・N・ホワイトヘッドがパンフレットを書いたことに触れて、こう述べている。「〔ホワイトヘッドも〕抗議に加わったとみられるが、そのパンフレットは一枚も残っていないようだ」(p.291)。

このパンフレットに言及している刊行物はクラークのこの本のみである。これはホワイトヘッドの〔ラッセル宛の〕手紙(1916年9月14日付)に基づいている。

この手紙でホワイトヘッドは、そのときも政府からの嫌がらせに直面していたラッセルに同情を寄せている。そして同情の言葉の一部のようにしてこう尋ねているのだ。「君のことについて私が書いた、トリニティのフェローたち宛てのパンフレットは見たかい? 七月に回したんだ」。

これに対するラッセルの返答は分からない。ホワイトヘッドは個人的な手紙を後世に残さないことを望んだからだ。〔訳注:ホワイトヘッドの私文書は遺言によりすべて破棄された〕

このパンフレットは、ヴィクター・ロウの『アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド著作目録(~1941年9月)』(『アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学』P・A・ショー編、エバンストン及びシカゴ、ノースウェスタン大学出版、1941年所収)にも、それをアップデートしたヴィクター・ロウ著のホワイトヘッドの伝記の第一巻(ジョンズ・ホプキンス大学出版、1985年)付属の著作目録にも記載がない。

また、バリー・ウッドブリッジが作成した『アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド:一次文献および二次文献』(ボウリンググリーン〔米ケンタッキー州の地名〕、哲学文献管理センター、1977年)にも記載されていない。

今回発見されたパンフレットをそこに追加するなら、以下のように記載すべきであろう。

37a 『ケンブリッジ大学トリニティ学寮の学寮長および特別研究員たちへ』 1916年7月15日付、ケンブリッジ:大学出版局にて印刷。「私書、部外秘。トリニティ学寮の運営組織構成員のみへ」(トリニティ学寮講師職からのバートランド・ラッセルの解雇について)


G・H・ハーディが著した『バートランド・ラッセルとトリニティ』(ケンブリッジ大学出版、1942年)にはこのパンフレットへの言及がないのだけれども、ハーディがこのパンフレットを知らなかったことはありえない。

というのも、ハーディはF・M・コーンフォードへの手紙(1916年7月25日付)でこのパンフレットに言及しているからだ――「ホワイトヘッドのチラシ flysheet はもう持ってるんだろう?」。我々の知るかぎり、ホワイトヘッドのパンフレットに言及しているのはクラークとハーディのみである。

〔F・M・コーンフォード 1874-1943 古典学者。ギリシャ哲学の古典の翻訳で有名〕

そして今、ラッセル文書館に近ごろ寄贈されたF・M・コーンフォードの書類の中に、このパンフレットが発見された。

「新兵徴募と軍紀に害を及ぼした」ことで有罪判決を受けたラッセルが、1916年6月29日にロンドン市庁舎〔ギルドホール〕にて上訴したとき、ホワイトヘッドも臨席していたことが読み取れる。

7月11日にラッセルが解雇されるとすぐに、ホワイトヘッドは評議会〔カウンシル〕メンバーやそれ以外の特別研究員〔フェロー〕たちと協議するためにケンブリッジ大学へと赴いた。

土曜日までにホワイトヘッドはこの意見書を書き上げていた。

〔訳注:7月11日は火曜日、パンフレットは1916年7月15日付で、この日は土曜日〕

これは大学出版局で印刷されることになった。今でいうコピー・サービスにあたるだろう。

頭書きには曖昧さがある。「学寮長および特別研究員」に宛てて書かれているけれども、ホワイトヘッドはこの「チラシ」を評議会にのみ配布したのかもしれない。

〔訳注:表題は「トリニティ学寮の学寮長および特別研究員へ」だが、頭書きは「トリニティ学寮の運営委員会構成員 members of the governing body のみへ」となっている。運営委員会とはおそらく評議会を指す〕

このパンフレットの主張とその政治的意義については、本号『ラッセル研究』所収のディレイニー論文「トリニティ学寮のラッセル解雇事件 ハイテーブルの政治学」が論じている。


このパンフレットはクリーム色の中厚の網目紙四葉を中央で綴じたもので、大きさは 219×139mm。ページ付けは「i, 2, 3...8」〔の合計8ページ〕である。「私書、部外秘」という警告と日付、署名のあと、すぐに本文が始まる。8頁目のホワイトヘッドの住所の下には罫線が一本引かれ、印刷業者が記されている。「ケンブリッジ:大学出版局にて印刷」。

コーンフォードにこのコピーを送ったのはホワイトヘッドと思われるけれども、添え状はなかった。

このパンフレットを再録するにあたっては、T・ノース・ホワイトヘッド〔ホワイトヘッドの長男〕夫人から許可をいただいた。


ポール・ディレイニー および ケネス・ブラックウェル
Paul Delany and Kenneth Blackwell



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ケンブリッジ大学トリニティ学寮の学寮長〔マスター〕および特別研究員〔フェロー〕たちへ

TO THE MASTER AND FELLOWS OF TRINITY COLLEGE, CAMBRIDGE


私書、部外秘 Private and Confidential

1916年7月15日

トリニティ学寮の運営委員会構成員のみへ
For Members of the Governing Body of Trinity College only



バートランド・ラッセル氏とわたくしとは、仕事上でも、また長きにわたる友誼によっても結びついて参りました。このことは、学寮の講師職からラッセル氏を解任するという1916年7月の評議会の決議につきまして、若干の事実および考慮さるべき事情を恒久的な記録に付すにあたり、わたくしを適任たらしめます。

公共政策につきまして、わたくし自身、ラッセル氏と意見を深く違えておりますことは、わたくしの責任を一層増すものとなります。

〔訳注:ラッセルの反戦運動をホワイトヘッドは批判していた〕

まずは、6月5日の市長公邸〔マンションハウス〕での公判における検事の論告を、主に検事自身の言葉でもって要約するところから始めましょう。


裁判官殿に申し上げます。本法廷への出廷召喚状は、規定第27条に基づくものであります。この第27条から、関連する文言を読み上げます。「なんぴとも文書、チラシその他いかなる印刷物によっても、英国軍の新兵徴募および軍紀に害を及ぼす言明をしてはならない」。

この規定の下では …その意図を証明することが必要だとは全く書かれていないことにご留意いただきたく存じます … 当該のビラは「良心に従ったせいで二年間の強制労働」と題されています。

このビラは …という名の男の裁判について述べており …この事件の経緯の多くが記されております…

そして、この印刷物は、裏面をご覧いただくと分かりますように、徴兵反対協会が発行者であり …ビラであるからには、多数印刷されたことは疑いありません …私はここで、(ビラの)文言そのものを読み上げさせていただきます。

「彼は、一人の良心的兵役拒否者として、地裁および上訴審で訴えを述べました。しかしいずれもが彼を極めて不当にあしらい、学校からの放逐を勧告するにさえ及んだのです。良心から出た主張であると知りながら、非戦闘的軍役でもって報いたのです。」


検事はこのあとも、当該のビラのなかの事実の記述を他にもいろいろと引用しています。そのいずれの引用においても、検事は、それらの記述が厳密には正しくないと示しているわけではありません。

検事はそれらの事実について論評を加えていますが、そのビラから検事が引用した他の箇所(ここでは省きますが)のいずれについても、最後の引用以外には、〔ラッセルの〕論評のどこが罪になるのかを言っていないのです。その最後の引用とは、以下の部分です。


「判決は、二年間の重労働でした。エヴァレットは今、この残酷な刑罰を受けています。おのが良心に逆らうことを拒んだという、それだけの理由で。

自由を求め、宗教的迫害に抗う、古くからの闘いをエヴァレットは闘っているのであり、それは過去の殉教者たちが苦しんだのと同じ精神なのです。

みなさんは迫害者に与するでしょうか? それとも、汚名と心身の苦痛に耐えて良心を守っている者の味方でしょうか?

他にも四十人の者が、エヴァレット氏と同様、良心を守るがゆえに迫害を受けています。こんなことが起きているのに、みなさんは黙っていられるでしょうか?」


検事が引用した他の箇所(ここでは省きますが)のいずれの中でも、〔ラッセルは〕事実を直接的、中立的に述べているだけなのですから、囚人たちへ向けられた丁重な言葉を明記しているという以外のことを私は何も見つけることができません。

このビラを検事が引用した中で、〔ラッセル自身による〕論評という性質を帯びた部分があるとすれば、それはいま引用した部分なのです。

なお、ロンドン市庁舎〔ギルドホール〕における上訴審では、このビラの全文が、そこでの検事によって読み上げられるのを私は聞きましたことを、ここに申し添えます。

市長公邸〔マンションハウス〕での審理に戻りましょう。ここに私は、ビラの内容について検事が最終論告で述べたことの全文を引用いたします。


…このビラについてのご判断は裁判官殿に仰ぐべきものではありますが、次のように具申します。このビラは、その全文にわたりまして、そしてとりわけ最後の論評の部分におきまして、新兵徴募にも軍紀にも害を及ぼすものであると。

そして、このビラを発行した組織が支援している者たちが言うところの良心なるものは、自分は国防に便乗しておきながら、国防に資することは全て拒否してよしとしているのであります。従いましてこのビラは新兵徴募を害する傾向をもつのであり、現下の英国軍における重大事、すなわち、国の成年男子を完全にまとめあげることにさいして、士気を挫きかねないこと甚だしいのであります。

ご考慮とご判断を仰ぐべく、以上のように事件を申し述べた次第であります。

完璧に確実に一つ言えますことは、このビラの最初から最後まで一音節たりとも新兵徴募や軍紀の助けにはなりそうもない、ということであります。そして、このビラ自体について申し上げますならば、このビラがいつ印刷されたにせよ、その時点では四十人ほどが同様の立場にあり、そしてこのビラの別の版によれば、この後にさらにずっと多数の人々が、いわばエヴァレットと同じ立場にあったということなのであります。

命令への不服従や、反抗的で不従順な言動が、たんに孤立した個人によってではなく、他の者と組んだ行動であったり、あるいは大勢の者と一緒になした行動である場合、厳しい眼で見なくてはなりません。

異なる状況下にある人に対しては、異なる対応が必要であります。まったく一人の個人として行動しているのか、それとも、私がいま申しましたように、他の者や、国の法律に従うことを良心が許さないと考える者を支援していると思しき組織と組んだり、あるいは支援されたりして行動しているのか、ということであります。


法廷に証人として呼ばれたのはただ一人、「必要な証拠を正式に提示するため」に呼ばれた警部補のみでした。

わたくしは検察側の主張を遺漏なく、綿密な正確さでもって要約できたものと信じます。

ラッセル氏は、みずからの弁護に立ちました。これにつきましては、私自身の言葉で概略を述べれば足りるでしょう。

ラッセル氏は、内務大臣ハーバート・サミュエル氏が以下の言明をなしたことを、『国会審議公式報告書』から引用しております。「兵役義務法の撤廃を主張することと、兵役義務法の諸条項への反抗を奨励することは、別のことである」。

ラッセル氏はこう論じました――良心的兵役拒否者の法的立場がこの法律のなかで明確に認められているからには、また、〔法律の〕撤廃や(そこからの推測として)修正の世論喚起について内務大臣が直接に言明しているからには、こうした者たちの存在、および、その時点における彼らへの処遇が不当であることへ注目を促すのは、厳密な合法性のもとでの行動であることを確信していた、と。

またラッセル氏は、軍紀および新兵徴募に害を及ぼすのは、くだんのビラではなく、そうした処遇がなされているという事実の方である、とも論じました。

ラッセル氏は、これが不当な処遇であると彼が考えた理由を述べた上で、このビラの目的は良心的兵役拒否者を生み出すことではなかったと述べました。

第一に、このビラの著者〔ラッセル〕の意図についてですが、〔検事によれば〕これは法廷には無関係とのことですが、トリニティ学寮の特別研究員たちにとっては、これこそが大事です。

ラッセル氏は、良心的兵役拒否者を生み出すことが彼の意図であったというのを否認しました。

わたくしは、ラッセル氏の否認は、彼が記憶を歪曲したがゆえでは全くないことの証拠を供することができます。

1916年の春にラッセル氏は、この重大局面においては軍による強制を私が支持していることを知りつつ、手紙でこう依頼してまいりました。私の個人的な影響力を通じてであれ何であれ、この問題の誤った処遇を止めさせることを助けてほしい、このような処遇は――ラッセル氏によれば――嘆かわしき宗教的迫害となり果てているのだ、と。

残念ながら、私はこの手紙を破棄してしまいました。

わたくしは動くことを拒みました。と申しますのも、この難問に対する適切な対処についての私自身の意見は、以下に引用して記しますところの、パームーア卿およびカンタベリー大主教の発言によって正確に表現されているからです。そしてわたくしは、他のいかなる対処も採られているとは信じようとしなかったからなのです。

〔パームーア卿 Lord Parmoor 1852-1941 政治家。良心的兵役拒否者に同情した〕

さて、ラッセル氏が指摘していた悪が実際に行われていたのかを見てみましょう。

1916年6月29日に貴族院で行われた議論の『国会審議公式報告書』(未校訂版)を参照いたします。

この報告書は、「政府刊行物発行所の権威の下で印刷されたる」ものであり、「直接あるいは書店を通じて購入さるべし」と記されています。

わたくしがこの報告書を引用しますのは、この討議について私が供します情報が、政府当局によって公表されたものであることを示すためです。

主たる発言者は、パームーア卿と、カンタベリー大主教です。

ご存知の通り、パームーア卿は、かつては著名な勅撰弁護士であり、そして最近まで、保守党の政治家として庶民院の一員でした。

言及されている軍令は5月25日という最近のものであり、この問題について再度修正された処遇を告知する首相の言明は、6月29日――この討議の日――になされたばかりであることに注目していただきたく思います。


パームーア卿は、5月25日の軍令の執行に注目を促し、その諸条項がすべての事件に適用されたのかどうかを尋ねるために起立した。


これに続くパームーア卿の発言は、六段にもわたる長文の法的分析なのですが、少なからざる懸念を表明したものと言って差し支えないはずです。

そうでなければ、とりわけその結論において、無意味になってしまいます。その結論とは以下のものです。


私の結論として、こう申し上げたく存じます。

私が望んでいますのは、この実に難しい問題について、適正なる解決を見いだすことであります。不人気な少数者に対しまして、正義と公平な処遇を確保することは、この上なく難しいものです。目下、良心的兵役拒否者が不人気な少数者の立場にあることは、周知のとおりであります。そうあるほかないのです。これを避けることはできません。

これは歴史の進路のなかで、勇敢なる者のうち最も勇敢な者たちに起きたこととまさに同じなのです。彼らは苦しまなくてはなりませんでした。いかに勇敢であろうとも、その考えが、ときの権力と一致しなかったからです。

私が申しておりますことの最も偉大なる一例は、トマス・モア卿であります。

〔トマス・モア 1448-1535 法律家・思想家。ヘンリー8世により斬首〕

トマス・モア卿はこう言いました。自分は政務を執ることを望んではいるけれども、神への義務を第一に優先することを選ぶ、と。そして、神への義務を第一としたとき、周知の事情により、彼は自らの命を諦めたのです。

本院の誰も迫害や異端審問を望んではいませんことを、私は確信しております。したがいまして私は、難しい問題につきましては、軍の決定と軍の刑罰という路線ではなく、文民の決定と文民の刑罰という路線によってこそ、穏当な満足が得られると信じますし、現下の英国軍に押し付けられるべきではないこの問題から英国軍を解放するのがよいと信じるのであります。


しかし、保守党の法律家が貴族院に対して、トマス・モア卿の運命を思い起こしてほしいと願うなどとは、一体何がそうさせたのでしょうか?

カンタベリー大主教は、証拠を調べたあとで所感を述べました。

〔カンタベリー大主教 ランドル・トマス・デイビッドソン 1848-1925、在位1903-1928〕

偉大なる政治家にして大主教であるデイビッドソン博士の経歴を知っている者ならば、無思慮なことや軽率なことを言う人物ではないことをご存知のはずです。

大主教は発言の中で、良心的兵役拒否者にも幾つかの種類があることを分析して、その良心は、様々な程度に尊重に値するものであり、そして様々な程度の拘束や刑罰を受けるべきであるとしています。

そして大主教は、全ての良心的兵役拒否者について、こう述べたのです――


これらの者たちもまた、全ての市民と同じく、公平に扱われなくてはなりませんし、残酷で恣意的な刑罰からは保護されるべきです。

彼らがここ数ヶ月、過酷で非情な罰を受けたことは十分に立証されました。

私が言及したいずれの種類の者も、皆様方のほとんどが嘆かわしく感じるような処遇を受けたとしか私には思われないのです。そうした形での処遇を与えた者たちは文明国において人が行うべきやり方で行動していなかったという事実が本当であることについては、私と同様に皆様方も納得されたことでしょう。

そうした反対者たちは、最も厳しい種類の労働をさえ厳格に強制されてしかるべきであるというのは、私は絶対に正しいものと考えます。しかし私は告白いたします。先日、本院で次のような主張をした方がおられました――良心的兵役拒否者であるというこの者の上訴を兵役免除審査局がいったん却下したならば、この者はその瞬間から、その事実そのものによって一人の兵士となるのだから、軍法と軍規に則った処遇に服すべきである、と。このような主張は政策として誤っているばかりでなく、なにか、この件における私たちの根本原則を誤って解釈しているように思われるのです…


つまり、この事件のことをラッセル氏が知って憤激したのは〔1916年〕4月ですが、6月29日には大主教がこの事件について、「そうした形の処遇を与えた者たちは、文明国において人がとるべき仕方で行動していなかった」と述べているのです。

ラッセル氏は市長裁判所によって百ポンドの罰金を科され、またその結果として、7月11日にトリニティ学寮の講師職を剥奪されました。

とはいえ、こういう違いはあります――

ラッセル氏は無思慮にも、それらの事実を人々の知るところとしたのであり、国家が恐るべき危機下にある今、無思慮な行動はいかなる手段によってでも厳しく抑制されなくてはならないのである、という違いが。ここでも私は、大主教の発言は政府当局によって出版され、三ペンスで買えることに注目するのです。

しかしながら、ここは一つ大事な点であることには、私も同意いたします。とはいえ、正確にどれほどの重みなのかは、私のこの友人につきましてはあえて判断いたしません。

いまは、個々の訴訟事件の公平性は、国家の安全と、我々がそのために死んでいる大義とに従属します。我らが政治家たちはこの大義を、自由、正義、文明という大義として表現しています。そしてそれこそが、我らが兵士たちの生死を見守るにあたり、私たちの心を支えている思想です。

学寮評議会がとった行動について、私は何ら批判いたしません。ラッセル氏から講師職を剥奪するという評議会の決定は、現下においては必須の民間規律についての決定として、明らかに国家を支えるものです。この決定は、学寮が未来に担う義務についての、評議会の個々のメンバーの正当なる判断と、完璧に一致しています。

戦争のあとは復興です。

ラッセル氏は法廷に立ち、事実は上記のとおりです。

次は私たちが裁判を受けなくてはなりません。ロンドン市長の前に立つ裁判ではなく、もっと徹底的な裁判を。それはすなわち、世界をより気高く裁く私たちの良心の裁きであり、また人によってはそう信じているところの、私たちみなが移りゆくべき未知の未来における審判です。

義について、自制について、そして、来るべき裁きについてパウロが説いたとき、ペリクスは震え上がりました。大主教の言葉を読むとき、キリスト教が閲した二十世紀は、そうした素朴な感情表出を私たちから遠ざけてしまったのでしょうか?

〔義について… 使徒行伝24章25節〕

ラッセル氏の事件は、今日あるそのままに残されてよいのでしょうか? 解決を見出すべく努めるにあたり、私たちは単に前例を盾にやり過ごせばよいのでしょうか?

私たちは一つの学寮の行政にあたっており、この学寮の目的は、学則第七条に定められているとおり、「教育、宗教、学習そして研究」です。

個人として抱くことが自由な意見であっても、教職にある者がそれを無思慮に拡散することのないように国民が適度な予防策を講じるというのは、私たちの義務です。

この点について重大な過失があったと国家が見なしたことは、その様々な帰結において無視することができません。教育についてはこれくらいにしておきましょう。

しかし私たちは、宗教、学習、研究についても義務を負っています。

もし、諸々の事実についての私の要約を疑われるのでしたら、独立した調査を充分になされることがあなた方の義務となります。しかし、その結果として受け入れられるのでしたら、なんらかの行動を取ることが必要です。

世界の主な大学すべてに名を知られた学者であるラッセル氏は、宗教が決して放棄することのない動機によって突き動かされたがために、学究生活から追放され、学界からの励みを奪われています。その理由は、いかなる文明国においてもなされるべきでないと大主教が判断したような諸事実を、無思慮にも暴露したからだというのです。

私の問いかけはここまでにしておきます。学寮評議会が、その責任をなおざりにすることはないと確信しております。

どの個人に何が起ころうと、結局は瑣末なことです。

ラッセル氏も、学部長や特別研究員も、おのおのの個人の究極的な運命においては、大したものではありません。

けれども、問題になっているのは、もっと大きなことです。

いまいるトリニティ学寮の学寮長そして特別研究員たちの手のなかにある争点は、今後幾世代にもわたり、偉大なる時代の知識を貪欲に求める人々にとって、英国の名誉にかかわります――英国は自らの真意を誠実に表明するという名誉に、そして、英国の学府の名声にかかわるのです。



12 エルムパークガーデンズ、チェルシー
12 Elm Park Gardens, Chelsea.
A・N・ホワイトヘッド、トリニティ学寮特別研究員
A. N. Whitehead  Fellow of Trinity College



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【訳者(niconicoffe)より】


ホワイトヘッドの思想は「アクチュアリティの哲学」と呼ぶことができるでしょう。この宇宙に存在するものはすべて、取捨選択し決断する主体との関係のなかに存在しています。つまり、リアルである(実在する)ということはアクチュアルである(行動のさなかにある)ということと必ずかかわっています。アクチュアリティ抜きにリアリティはないのです。

ラッセルの解雇から四日以内に書き上げられたこのパンフレットは、ホワイトヘッドの最もアクチュアルな著作ではないでしょうか。急展開する事態のさなかの行動として書かれたという意味でも、「アクチュアリティの哲学」の特異な例示としても。

ホワイトヘッドのこのパンフレットを要約すると、こんなところでしょうか――

ラッセルがビラに書いた内容は、政治家や大主教の国会発言と同趣旨なのだから、何も悪いはずがない。とはいえ、国会で発言することとチラシを書くことは違うといえば違うかもしれない。戦争中なのだから判決が間違っていたとは言えない。ラッセルは無思慮といえば無思慮だった。トリニティ学寮がラッセルを解雇したのも正しいと言える。でも戦争が終わったら、学寮はすべきことをしよう(ラッセルを復職させよう)。ラッセルは良心につき動かされていたのであり、これは国政や大学行政とは違うレベルで大事なものだ。みんなで英国の未来のためになることをしよう。

…なんとも煮え切らない、非常に折衷的な主張に聞こえます。これではハーディたちに失望されても仕方がありません。抗議運動というのは、よくも悪くも、「解雇は不当だ!評議会はただちに取り消せ!」というふうに始めなければ弾みが付きません。ラッセルの支援者たちから見て(ひょっとしたらラッセル本人から見ても)、ホワイトヘッドは裏切り者のように見えたのではないでしょうか。

英文学研究者のポール・ディレイニー教授は、『ラッセル研究』同号〔1986-06-30 発行、 ここ で読めます〕 の論文、「トリニティ学寮のラッセル解雇事件 ハイテーブルの政治学」で、ラッセル復職運動の裏舞台でのハーディとホワイトヘッドの言動に詳細に光を当てました。そしてディレイニー教授もまた、ホワイトヘッドの言動にきわめて批判的な視線を浴びせています。

しかし私のようなホワイトヘッドの愛読者から見れば、このパンフレットは正しくホワイトヘッド的な著作です。ホワイトヘッドの思想となんら相違するものではなく、むしろそれを最も顕著に体現しているとさえ感じます。

このパンフレットは、ディレイニー教授が言うほどに「痛ましいほど支離滅裂であやふや」でしょうか? …もちろんそう見えますし、ホワイトヘッドが苦悩したことは疑いありません。疎遠になってはいてもラッセルを大切に想う気持ちに変わりはないのですから。しかし自分の政治的見解に迷うところはなかったと思います。

考慮すべきことはすべて考慮しなくてはならない。そこにあるものをないと言い張ってはならない。何が皮相的で何が根本的なのか、何が過ぎ去り何が残るのか、何が些末で何が重要なのかを見誤ってはならない。これがホワイトヘッドです。折衷的なのではなく、誰よりも広く視界をとっているのです。

むろん、「ホワイトヘッドはラッセルと学問の自由を裏切り、軍国主義と反動的学寮評議会に与した」と非難することはできるでしょう。しかし、ホワイトヘッドは反戦主義者ではありませんでしたし、つねに端倪すべからざる「委員会マン committee-man(P・ディレイニー教授の表現)でした。少なくとも、ラッセル解雇事件にさいして節を曲げたとは言えません。

いつも過剰なほどに謙虚だったホワイトヘッドですが、珍しく自慢めいた台詞を口にしたことがあります。「イギリスにおきまして私がいかなる形にせよ支持した大義はいずれも最終的には、大義というものが成就しうるかぎり最大限の勝利を成就しております。私は同国人の大多数と最終的な意見を違えたことは、ただの一度もないのです」(ホワイトヘッド七十歳を祝う会での答辞より)。いや、正確な文脈としては、これも謙遜の言葉の一部のようにして言ったのですが、にもかかわらず、このことこそを誇りにしていたのだと思われます。

このパンフレットを後に振り返ったとしても、ホワイトヘッドはこの時点での自らの立場――いまは戦争遂行が優先されること、ラッセルの有罪判決も解雇もやむを得ないこと、しかし戦後には復職させるべきであること――を間違っていたとは思わなかったことでしょう。実際にもラッセルは――大変な紆余曲折を経て――1943年にフェローに復帰。そのあと27年間、その生涯を閉じるときまでフェローでした。

このパンフレットは何のために書かれたのか。

誰よりも早く態度表明をして、ラッセルの復職の下地を作らなくてはならない。そうすることでラッセルが絶望に陥ったり学問から離れたりすることを防ぐとともに、学寮が学問の場所であることも守らなくてはならない。これが、ホワイトヘッドの胸中を占めていた想いではなかったでしょうか。でなければ、「戦争が終わったら復職させてあげよう」と言うだけのために、これほど恐るべき速さで書き上げ、印刷し、配布する理由がありません。



参考:
ポール・ディレイニー「トリニティ学寮のラッセル解雇事件 ハイテーブルの政治学
ラッセル研究者及びラッセル・ファンのためのポータルサイト
『ラッセル自叙伝I』日高一輝訳、理想社、1978年
アラン・ウッド『バートランド・ラッセル』碧海純一訳、木鐸社、1978年


翻訳上迷ったところ:
・原文の段落分けを訳文に反映しなかった。行間開けで表現してみたらすごい見にくくなったので…。でも一般的にはパラグラフって大事だよね…どしよ
・ホワイトヘッドの文章がわかりにくいところがあると思うけど、それは私が文意をよく掴めてないとこですね…
・法律用語がわからなすぎる。appeal は「上訴」と訳したが、「控訴」の方がいいのか?
・civility 「丁寧な言葉」と訳したが、よくわからん。何やら当時重要だった概念らしい。
・判決のもとになった法律「likely to prejudice the recruiting and discipline of his Majesty'sforces」、prejudice 悪影響を与える?危うからしめる?, recruite 新兵徴募?徴兵?, discipline 軍規?軍紀? 、訳しにくい…。
・最後の一文が訳しにくすぎ問題。ホワイトヘッドはいつもそう…
・ラッセルは講師職(レクチャーシップ)を解雇されたわけだが、フェローシップをどの時点で剥奪されたのかがいまいちよくわからない。講師職と一体のものとして解任されたのか、それともフェローシップは任期切れか何かまでタイムラグが生じたか。
・ホワイトヘッドのこの文書で注目すべきは、「どの個人に何が起ころうと、結局は瑣末なことです。ラッセル氏も、学部長や特別研究員も、おのおのの個人の究極的な運命においては、大したものではありません」という恐ろしく投げやりなくだりか…? これをどう捉えるべきか。同胞が前線でバタバタと死んでいる状況を考えれば自然な言葉であろうか?



 〔おわり〕



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