「推し活」という言葉がある。それがどんな意味なのか、広大なインターネットの海の中でも最果ての僻地に位置するであろうこのブロマガを読みに来てくれるような人ならば、わざわざ説明しなくともご存知だろう。
「推し」とは、簡単に言えば「好き」の上位表現だろうか。その対象が好きだなぁという感情がさらに強まり、応援したい、誰かに薦めたいという領域にまで至っている状態だ。そして、それを実際の行動に移すのが「推し活」である。
…と、日本語的に解析しようとすると却って小難しくなってしまった感もあるが、現代日本で日常生活を送っている人ならば、誰しも大なり小なりの「推し」という存在を持っていて当然だろう。自分の目に映る対象全てをまったくの平等・等価値に捉えているなんて人間が居ようはずもない。
先日、その「推し」に対する気持ちの持ち方として、興味深い意見を目にした。
「みんなは『推し』に好かれたいと思うものなのか? 最低限、嫌われてさえいなければいいじゃないか。自分ごときが『推し』に好かれようだなんておこがましいし、好かれていようとなかろうと、自分の『推し』に対する気持ちは変わらない」
大まかにはこんな内容だった。これは「推し」に対する気持ちとしては非常に崇高で立派なものだと思うが、誰もがそこまで献身的に尽くせるわけではないだろうな、と思う。だって人間だもの。自分が「推し活」に励んだことを、「推し」にはしっかりと認知してほしいし、それに対して少しでも感謝を表してくれたら、それを糧にさらにもっと「推し活」にも精が出るというものだ。
でないと、非常に言い方は悪いけど「推し変」を考えることだってあるんだぜ?
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