こんにちは、すすろです。
先日僕は、モンスターハンター4Gを知人からプレゼントされました。
それは前から欲しいと思ってはいたのですが、今まで買わずにいたのです。
欲しいと思っていたソフトなので、もらった時、確かに嬉しかったのです。
しかし、新しいゲームソフトを手に入れた時というのは、もっと嬉しいものだったはずだけどなぁ、とも思いました。
ドキドキ感というか、ワクワク感というか。
すぐにでもプレイしてみたい、すぐにプレイできない状況でも、せめて説明書だけでも読みたい…。
そういう感覚が、かつては確かにあったのです。
でも僕は、もらったモンハン4Gを、しばらくそのままで放置していました。
思えばこのような感覚は、今に始まったことではありません。
どうも最近、新しいゲームを買っても、そのような強烈な喜びはないように思います。
それがいつ頃からなのかは、記憶がありません。
3DS本体を買った時にも、そこまでの喜びがなかったと思います。
ゲーム機本体を買うというのは、ソフトを買った時以上に、未知の体験に対する期待感があったように思うのですが。
スーパーファミコンを買ってもらった時、プレイステーションを買った時の喜びは、それはもう大きかったと記憶しています。
なぜこうなったのか。
一つには、入手の困難の度合いが関係しているのだろうと考えました。
子どもにとって、ゲームは高価なものなので、そう簡単に買えるものではありません。
クリスマスに買ってもらえるまで待つか、お年玉を使って買うかぐらいのものです。
どっちにしても、欲しいと思ったときに、すぐにパッと手に入るものではなく、ある程度待つことが必要で、1年間に手に入る本数も限られています。
しかし今は、欲しいと思えば、すぐに買うことも可能です。
僕はニートとはいえ、多少はバイトもしているので、欲しいと思ったときに、ゲームの1本ぐらい買うほどのお金はあります。
また、昔と比べて、ゲームの値段も下がっていますね。
そうなると、手に入ったときの感動に差が出るのも当然でしょう。
もう一つの理由は、そしてこれこそが根本的な理由だと思うのですが、ゲームというものの意味が、自分の中で変わったということです。
子どもの頃の僕にとって、ゲームとは、冒険であり、発見であり、つまり新しい刺激をもたらしてくれるものであったといえます。
ゲーム内で、新しい大陸に辿り着いたときや、新しいシナリオの展開が始まったとき、そういうときも、ソフトを買った時と同種の喜びがありました。
しかし今、僕の中でゲームというものは、そのような意味合いを失っています。
ゲームはもう既知のものなのです。
ゲーム内で、新しい大陸に辿り着こうが、新しいシナリオが始まろうが、とくに喜びを覚えることも、ドキドキもワクワクもありません。
その新大陸は、確かに初めてたどり着いた場所かもしれませんが、それでもどこかで見た大陸なのです。
もう知っているのです。
だから、ゲームというのは、僕に新しい何かを提供してくれるものではありません。
ゲームをしても、新しい感動も経験も知識も何も得られません。
つまりゲームによって自分が成長させられることはもうないのです。
だから、ゲームをするということは、今の僕にとって停滞を意味します。
だからドキドキもしません、ワクワクもしません。
ただ、それはゲームというものが、僕にとって不要になったということを意味しません。
たぶん人には、停滞する時というのも必要なんだと思います。
僕は時々、ゲームがとてもやりたくなる時があります。
そのときは、仕事だったり勉強だったり、人との会話だったり、成長というか前に進んでいくようなことの全てに対し、やる気がなくなっています。
ゲームの中には喜びはないかもしれませんが、恐怖も悲しみも苦しみも何もありません。
そこにいれば安全です。そのような安全地帯で休息し、力を回復するということが、ゲームをすることの意味です。
こう言うと、「ゲームをしなくても、何もしないで休んではどうか」という意見があるかもしれません。
しかし、「何もしない」というのは、とても難しいことです。
寝るのはいいのですが、そう睡眠ばかりもとっていられないので、目が覚めてしまいます。
そんなとき、何もしないで起きていると、頭には何か浮かんでくるものです。
そしてそれは、たいていろくでもないことです。
つまり、マイナスの思考というようなもので、それは自分自身を攻撃するものであるといえるでしょう。
ゲームをしていれば、そんなことは考えずに済みます。
ゲームは思考や瞬時の判断を要求しますから、余計なことを考えている暇はありません。
ゲームの中の、どのような戦略で攻めようとか、敵がどっちから来るかとか、そういう現実においてどうでもいいことで頭はいっぱいになります。
これが読書やネット閲覧なんかだとそうはいきませんね。思考が現実と繋がっていくので。
そういうわけで、ゲームというのは、非常に有用なものだと考えます。
僕が今回言いたいことは、ゲームというものに、上記で述べたような有用性がある、ということではありません。
それは、僕にとっての個人的な有用性でしかないからです。
その有用性は、現在の僕にとっての、ゲームの意味です。
ゲームがその人にとってどのようなものであるか、どのような意味を持つかは、それぞれの人にとって違うはずです。
また、その意味もその時期によって変化していくでしょう。
僕が言いたいことは、ゲームに限らず、ある物事の意味は、その人によって、また同じ人でもその時期によって違うということです。
僕にとってのモンハン4Gは、息抜きや休息の意味を持っていますが、ある人にとっては真剣に取り組むべき課題であり、またある人にとっては全く興味のないものであるでしょう。
あるいは、モンハン4Gを毎日何時間もプレイして楽しんでいた人が、飽きて、どうでもよくなって放り出す、といったことも考えられます。
あたりまえのことだ、と思われるかもしれません。
これはゲームを例に出したから、きっと、当たり前のことを述べたような感じの文章になってしまったんだと思います。
ゲームに対する人々の考え方というのは様々で、ゲームが大好きな人も、まあまあ普通ぐらいな人も、興味がない人もたくさんいて、そのうちのどれがマジョリティでマイノリティかとも言えないからです。
しかし世の中には、そうではない事柄もたくさんありますね。
そんな事柄に対しては、「ある物事の意味は、その人によって違う」ということを、忘れがちになるものです。
以上のようなことを、モンハン4Gを入手したことから、僕は考えました。
先日僕は、モンスターハンター4Gを知人からプレゼントされました。
それは前から欲しいと思ってはいたのですが、今まで買わずにいたのです。
欲しいと思っていたソフトなので、もらった時、確かに嬉しかったのです。
しかし、新しいゲームソフトを手に入れた時というのは、もっと嬉しいものだったはずだけどなぁ、とも思いました。
ドキドキ感というか、ワクワク感というか。
すぐにでもプレイしてみたい、すぐにプレイできない状況でも、せめて説明書だけでも読みたい…。
そういう感覚が、かつては確かにあったのです。
でも僕は、もらったモンハン4Gを、しばらくそのままで放置していました。
思えばこのような感覚は、今に始まったことではありません。
どうも最近、新しいゲームを買っても、そのような強烈な喜びはないように思います。
それがいつ頃からなのかは、記憶がありません。
3DS本体を買った時にも、そこまでの喜びがなかったと思います。
ゲーム機本体を買うというのは、ソフトを買った時以上に、未知の体験に対する期待感があったように思うのですが。
スーパーファミコンを買ってもらった時、プレイステーションを買った時の喜びは、それはもう大きかったと記憶しています。
なぜこうなったのか。
一つには、入手の困難の度合いが関係しているのだろうと考えました。
子どもにとって、ゲームは高価なものなので、そう簡単に買えるものではありません。
クリスマスに買ってもらえるまで待つか、お年玉を使って買うかぐらいのものです。
どっちにしても、欲しいと思ったときに、すぐにパッと手に入るものではなく、ある程度待つことが必要で、1年間に手に入る本数も限られています。
しかし今は、欲しいと思えば、すぐに買うことも可能です。
僕はニートとはいえ、多少はバイトもしているので、欲しいと思ったときに、ゲームの1本ぐらい買うほどのお金はあります。
また、昔と比べて、ゲームの値段も下がっていますね。
そうなると、手に入ったときの感動に差が出るのも当然でしょう。
もう一つの理由は、そしてこれこそが根本的な理由だと思うのですが、ゲームというものの意味が、自分の中で変わったということです。
子どもの頃の僕にとって、ゲームとは、冒険であり、発見であり、つまり新しい刺激をもたらしてくれるものであったといえます。
ゲーム内で、新しい大陸に辿り着いたときや、新しいシナリオの展開が始まったとき、そういうときも、ソフトを買った時と同種の喜びがありました。
しかし今、僕の中でゲームというものは、そのような意味合いを失っています。
ゲームはもう既知のものなのです。
ゲーム内で、新しい大陸に辿り着こうが、新しいシナリオが始まろうが、とくに喜びを覚えることも、ドキドキもワクワクもありません。
その新大陸は、確かに初めてたどり着いた場所かもしれませんが、それでもどこかで見た大陸なのです。
もう知っているのです。
だから、ゲームというのは、僕に新しい何かを提供してくれるものではありません。
ゲームをしても、新しい感動も経験も知識も何も得られません。
つまりゲームによって自分が成長させられることはもうないのです。
だから、ゲームをするということは、今の僕にとって停滞を意味します。
だからドキドキもしません、ワクワクもしません。
ただ、それはゲームというものが、僕にとって不要になったということを意味しません。
たぶん人には、停滞する時というのも必要なんだと思います。
僕は時々、ゲームがとてもやりたくなる時があります。
そのときは、仕事だったり勉強だったり、人との会話だったり、成長というか前に進んでいくようなことの全てに対し、やる気がなくなっています。
ゲームの中には喜びはないかもしれませんが、恐怖も悲しみも苦しみも何もありません。
そこにいれば安全です。そのような安全地帯で休息し、力を回復するということが、ゲームをすることの意味です。
こう言うと、「ゲームをしなくても、何もしないで休んではどうか」という意見があるかもしれません。
しかし、「何もしない」というのは、とても難しいことです。
寝るのはいいのですが、そう睡眠ばかりもとっていられないので、目が覚めてしまいます。
そんなとき、何もしないで起きていると、頭には何か浮かんでくるものです。
そしてそれは、たいていろくでもないことです。
つまり、マイナスの思考というようなもので、それは自分自身を攻撃するものであるといえるでしょう。
ゲームをしていれば、そんなことは考えずに済みます。
ゲームは思考や瞬時の判断を要求しますから、余計なことを考えている暇はありません。
ゲームの中の、どのような戦略で攻めようとか、敵がどっちから来るかとか、そういう現実においてどうでもいいことで頭はいっぱいになります。
これが読書やネット閲覧なんかだとそうはいきませんね。思考が現実と繋がっていくので。
そういうわけで、ゲームというのは、非常に有用なものだと考えます。
僕が今回言いたいことは、ゲームというものに、上記で述べたような有用性がある、ということではありません。
それは、僕にとっての個人的な有用性でしかないからです。
その有用性は、現在の僕にとっての、ゲームの意味です。
ゲームがその人にとってどのようなものであるか、どのような意味を持つかは、それぞれの人にとって違うはずです。
また、その意味もその時期によって変化していくでしょう。
僕が言いたいことは、ゲームに限らず、ある物事の意味は、その人によって、また同じ人でもその時期によって違うということです。
僕にとってのモンハン4Gは、息抜きや休息の意味を持っていますが、ある人にとっては真剣に取り組むべき課題であり、またある人にとっては全く興味のないものであるでしょう。
あるいは、モンハン4Gを毎日何時間もプレイして楽しんでいた人が、飽きて、どうでもよくなって放り出す、といったことも考えられます。
あたりまえのことだ、と思われるかもしれません。
これはゲームを例に出したから、きっと、当たり前のことを述べたような感じの文章になってしまったんだと思います。
ゲームに対する人々の考え方というのは様々で、ゲームが大好きな人も、まあまあ普通ぐらいな人も、興味がない人もたくさんいて、そのうちのどれがマジョリティでマイノリティかとも言えないからです。
しかし世の中には、そうではない事柄もたくさんありますね。
そんな事柄に対しては、「ある物事の意味は、その人によって違う」ということを、忘れがちになるものです。
以上のようなことを、モンハン4Gを入手したことから、僕は考えました。
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