こんにちは、すすろです。
今回は、作文についての話をします。
秋といえば、いろいろな行事がありますね。
小中高校では、遠足や運動会(体育祭)、文化祭といったイベントがあります。
このようなイベントの後に、作文を書かされた経験のある人は多いのではないでしょうか。
高校などでは、あまりないかと思いますが、小学校だとかなりの高確率で書かされたと思うのですが、どうでしょう。
「作文」という名称にこだわらず、「日記」や「せんせいあのね」等の文章全般を含みます。
僕は、このような作文がとても苦手でした。
何を書けばいいか、わからないからです。
書くことがないのです。
たいてい、「原稿用紙1枚以上」とか「日記帳1ページ以上」とか、分量が指定されていました。
でも、
「今日は〇〇へ遠足に行きました。楽しかったです。」
以外、書くことが思い浮かばないのです。
しかたがないから、
「朝、◯時に家を出て、〇〇駅に集合し、電車で〇〇駅まで行きました。そこから歩いて〇〇公園に行き…」
というように、朝から夕方家に戻るまでの出来事を順番に並べていきます。
それでも規定文字数に達しない時は、どうでもいいことを書き連ねて、文字数を水増しします。
たとえば、「お菓子を食べました」と書くところを、
「ベビースターラーメンみそ味と、チロルチョココーヒーヌガー味と、焼肉さん太郎を食べました。」
という感じに修正しました。
僕は、作文を書くのがとても苦痛でした。
なぜこんなに苦痛なのだろうか?
そのような疑問を、中学生の時に抱きました。
たしかに、上記の遠足の例のような作文を書くのは、つまらないし面倒であることは明らかです。
でも、それだけでは、「苦痛」とまで言える理由には、ならないのではないでしょうか?
なぜなら、僕は文字や文章を書くこと自体は、決して嫌いではなかったからです。
たとえば、漢字練習帳に漢字を何ページも書くのは、面倒とは思いましたが、苦痛とは感じませんでした。
また、テストの記述式問題や、理科のレポートを書く、調べ学習で調べたことをまとめるなど、文章を作成することも苦痛ではなかったのです。
それらの文章と「作文」との違い。
それは、自分の気持ちを書く、というところにあったと思います。
「楽しかったです」
というこの文が問題でした。
なぜなら、僕は遠足や運動会などを、楽しいと思ったことは、ほとんどなかったからです。
だから、僕は、「作文」において、いつも嘘を書いていたことになります。
ただ、当時の僕に「嘘を書こう」という意識はなかったように思われるのです。
「楽しくなかったけど、つまらないなんて書いたら、書き直しさせられるかもしれないし、もしくは学級会や保護者面談の話題に出され、面倒なことになるかもしれない」
というような意識すら、なかったと思うのです。
言ってみれば、「楽しかったです」という記述は、遠足の作文には必ず含まなければならない定型文のようなものだったといえます。
「環境問題」についての作文に、「一人一人が地球を守る努力をすることが必要だ」と書いたり、
「平和」についての作文に、「戦争は二度と起こしてはならない」と書くのと同じことです。
遠足は、楽しいものでなければならなかったのです。
中学生の頃、そのようなことに気づいた僕の前に、新たな作文の課題が出されました。
修学旅行の作文です。原稿用紙5枚書けというのです。
僕は「帰りの〇〇駅」というタイトルで、作文を書きました。
これは、帰りの電車を降りて、校長の話があり、解散になるまでの間のことを書いたものです。
書き出しは、
「◯時◯分、〇〇駅1番ホームに、〇〇号が着いた」
という感じで、そのまま出来事が順番に並べられていきます。
僕はこの修学旅行が、楽しくなかっただけでなく、とても辛かったのです。
そしてこの作文では、嘘を書かなかったのです。
つまり、楽しかったとは書かなかったのです。
もちろん、楽しくなかった、とも書きはしませんでしたが。
そして、修学旅行中、最もよかったところ、つまり、帰りの駅で、「今から家に帰れる」という喜びを感じた場面だけを、ただ書いたのです。
これ以降、僕は作文を書くのが苦痛ではなくなりました。
以上、作文についての話でした。
今回は、作文についての話をします。
秋といえば、いろいろな行事がありますね。
小中高校では、遠足や運動会(体育祭)、文化祭といったイベントがあります。
このようなイベントの後に、作文を書かされた経験のある人は多いのではないでしょうか。
高校などでは、あまりないかと思いますが、小学校だとかなりの高確率で書かされたと思うのですが、どうでしょう。
「作文」という名称にこだわらず、「日記」や「せんせいあのね」等の文章全般を含みます。
僕は、このような作文がとても苦手でした。
何を書けばいいか、わからないからです。
書くことがないのです。
たいてい、「原稿用紙1枚以上」とか「日記帳1ページ以上」とか、分量が指定されていました。
でも、
「今日は〇〇へ遠足に行きました。楽しかったです。」
以外、書くことが思い浮かばないのです。
しかたがないから、
「朝、◯時に家を出て、〇〇駅に集合し、電車で〇〇駅まで行きました。そこから歩いて〇〇公園に行き…」
というように、朝から夕方家に戻るまでの出来事を順番に並べていきます。
それでも規定文字数に達しない時は、どうでもいいことを書き連ねて、文字数を水増しします。
たとえば、「お菓子を食べました」と書くところを、
「ベビースターラーメンみそ味と、チロルチョココーヒーヌガー味と、焼肉さん太郎を食べました。」
という感じに修正しました。
僕は、作文を書くのがとても苦痛でした。
なぜこんなに苦痛なのだろうか?
そのような疑問を、中学生の時に抱きました。
たしかに、上記の遠足の例のような作文を書くのは、つまらないし面倒であることは明らかです。
でも、それだけでは、「苦痛」とまで言える理由には、ならないのではないでしょうか?
なぜなら、僕は文字や文章を書くこと自体は、決して嫌いではなかったからです。
たとえば、漢字練習帳に漢字を何ページも書くのは、面倒とは思いましたが、苦痛とは感じませんでした。
また、テストの記述式問題や、理科のレポートを書く、調べ学習で調べたことをまとめるなど、文章を作成することも苦痛ではなかったのです。
それらの文章と「作文」との違い。
それは、自分の気持ちを書く、というところにあったと思います。
「楽しかったです」
というこの文が問題でした。
なぜなら、僕は遠足や運動会などを、楽しいと思ったことは、ほとんどなかったからです。
だから、僕は、「作文」において、いつも嘘を書いていたことになります。
ただ、当時の僕に「嘘を書こう」という意識はなかったように思われるのです。
「楽しくなかったけど、つまらないなんて書いたら、書き直しさせられるかもしれないし、もしくは学級会や保護者面談の話題に出され、面倒なことになるかもしれない」
というような意識すら、なかったと思うのです。
言ってみれば、「楽しかったです」という記述は、遠足の作文には必ず含まなければならない定型文のようなものだったといえます。
「環境問題」についての作文に、「一人一人が地球を守る努力をすることが必要だ」と書いたり、
「平和」についての作文に、「戦争は二度と起こしてはならない」と書くのと同じことです。
遠足は、楽しいものでなければならなかったのです。
中学生の頃、そのようなことに気づいた僕の前に、新たな作文の課題が出されました。
修学旅行の作文です。原稿用紙5枚書けというのです。
僕は「帰りの〇〇駅」というタイトルで、作文を書きました。
これは、帰りの電車を降りて、校長の話があり、解散になるまでの間のことを書いたものです。
書き出しは、
「◯時◯分、〇〇駅1番ホームに、〇〇号が着いた」
という感じで、そのまま出来事が順番に並べられていきます。
僕はこの修学旅行が、楽しくなかっただけでなく、とても辛かったのです。
そしてこの作文では、嘘を書かなかったのです。
つまり、楽しかったとは書かなかったのです。
もちろん、楽しくなかった、とも書きはしませんでしたが。
そして、修学旅行中、最もよかったところ、つまり、帰りの駅で、「今から家に帰れる」という喜びを感じた場面だけを、ただ書いたのです。
これ以降、僕は作文を書くのが苦痛ではなくなりました。
以上、作文についての話でした。
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