斜め72度

崇める布の教団5~修行的行為

2013/08/29 20:00 投稿

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【修養】
修道専願をたて、神に仕えることを志した者は、導師のもとで次の修養に努めること。
1、教義を学ぶこと。
2、占星術を獲得すること。
3、旅をすること。

【第十教義】
「旅人の国境を越えんと、関にて改めをうけし。
 門を開きしは小さき人にて、
 苦なる旅にては、せざるにしくあらず、と笑う。
 楽なる旅とはいかに、と問えば、応えて、
 思いて歩かば、思いのさらに豊かにならむ、と」(原経典)

(釈)話が旅人にもどり、関所を越えようとしている部分である。
小さき人とは、宮廷に仕える道化であろうと推測されることが多く、門を開く存在として「愉」の人間の姿だとするのが通説である。他説「功」や「嘲」の可能性を指摘するものもあるが、前後の関係からして信憑性にとぼしい。
旅人は、さきごろ、疲れて山姥に助けられ、そこで精霊以下21柱を夢うつつに感じたばかりである。その顔色をみたか、あるいは旅の目的を問いただされたか、「苦しい旅なら、しないほうがよいのでは?」と、みとがめられたのである。
そこで旅人は「苦しくない旅とはどのようなものでしょうか」と聞き返すと、「考えながら歩けば、思想が膨らんでよいものだ」と応えてもらったというのである。
これは、アイディアに詰まったときにも効果がある。というのも、脳内で思考が停止しているときに、視界が動くと、アイディアが進んでいるような気がするためである。
教義の場合は、神への思い、信仰のことであるが、これを考えながら歩くとよい、ということであり、教団の行者(修道専願をたてた修行者)は「旅をすること」が修養科目としてはいっている。大きいものでは巡礼がそれとなるが、日ごろの修行にも「歩きの行」として、「私は神の幸せをたどる」と唱えながらぐるぐると歩き回る修行法が存在する。
上記のように、旅人に信仰のための行動はどうあるべきかを教えたゆえに、「愉」は、行者の守護精霊という性質をもっている。

【第十一教義】
「王女ありて裁可をとどめし。
 旅人と婚儀を望む。
 小さき人の、それを見て、
 汝は豚なりや。
 いまありし子を顧みずや、と。
 宿願ありし旅人、王女の羞恥するさまを見て、
 故郷の母を思いしかば、
 子を育てるは母の業なりと諭せし。」(原経典)

(釈)国境越えに際して、通行許可にダメをだした人がいた、というのである。
王の娘は、その旅人の志の高いさまに惚れこんで、結婚を申し込んだ。権力者の娘であるため、無下に断れない。そこで、さきほどの宮廷道化が現れて、王女にむかって「あなたはブタなのですか?」と暴言を吐いた、という部分である。宮廷道化は、宮廷内にあって政治批判や自由な言動が許された特別職であったので、そういう言い方もできたのである。
さて、この王女であるが、本性は「快がり」であろうとされている。独りよがりを象徴する罪の像であるが、「私は権力者の娘だ、だから旅人という賎民は、自分と結婚すれば生活は安泰だ」と、実に独りよがりに言い寄ったわけである。
そこで、先に旅人の旅の信念をしっていた道化が助舟をだして、「王女には子どもがいるだろう、恋に目を奪われていいのか」と詰め寄る。おそらく、王女は既に結婚していたことがあり、夫を亡くしていた、ということであろう。
旅を続けたい旅人は、それを聞いて、ふと故郷の母に愛されて育ったことを思い出し、親に愛されない子ができては気の毒だ、という結婚の申し出を断る口実を得たのである。
この教義の記述から、この旅人も父親不在であった可能性がある。自分の母が、片親でも自分を曲がりなりにも育ててくれたように、王女にも夫がいなくても立派に子を育て上げて欲しいと説得したのだと解釈される。
「快がり」は九罪のひとつであるが、このように、旅人が母を思い出したこと、旅人の説得をうけたこと、などから、母性、とくに母の強さなどとの関係が非常に深い。
また、この教義を由来として、この教団はブタを悪い性質と見なしていることも分かるが、「快がり」は外典でブタの姿をとっていることが少なくない。

【第十二教義】
「やがて王のきたりて、裁可を下せし。
 いわく、
 小さきものが星を調べしかば、
 汝のきたるは既に知れり。
 神を訪ねんとするなれば、
 我が王国の西、
 神殿を訪ねたまえ。と。」

(釈)とうとう、国王がでてきて、通行許可をだした、というくだりである。
どうも、この国王も、旅人の信念の硬さがわかったようで、国のために祈って欲しいと神殿へ行くように勧めたのである。実際に強い信仰をもち、精霊以下21柱のありさまを「閃(または努)」が用意した風呂で夢想している旅人であるから、そういう人物に国の安泰を祈願してもらって、迫をつけたかったといったところであろう。この性質から「貪り」の人間姿だとされる。相手を見定め、効率よく自分のために利用しようとする罪の像である。先にでてきた王女の父親であるから、「貪り」にも父性の象徴が加味されている。
ここでは宮廷道化、すなわち精霊「愉」の助舟は直接にでてこないが、それは「愉」が、旅人が神殿に向かうことに賛成であったからに他ならない。また、このときの宮廷道化の役割は、星を調べて、王に神の道へ進もうとする旅人がくることを予言していたことである。
教義のなかに幾度となく星は出てくるが、この修行者の守護精霊である「愉」が「星を調べて」いたということから、教団の修養には星占いが必須事項とされるようになったようである。
また、神殿に向かうことに賛成であったのも「精霊などを幻視しただけでは足りない、教義を学ぶ機会をもたせたい」という「愉」の考えだったのではないか、と解釈されている。



※編集後記
お読みいただきましてありがとうございます。
今回は修行のお話です。一般信徒、ただの信者は別に修行などしなくとも、儀式行事に参加してくだされば十分なのですが、信徒信者のなかにも、もっとこの宗教にどっぷり浸って、神のためだけに生きることにしよう、とする人がいるかもしれません。そういう人は修道専願をたてて、導師に弟子入りして、教義に由来する修行をこなしましょうね、ということでございますな。
今回の教義は、旅人が出会っていく人々です。宮廷道化、王女、国王、と、やっかいなメンツが顔をそろえています。
お気づきの人はお気づきかもしれませんが、気づかない人は気づかないのでまだ黙っていることにしましょう。実は教義の草稿段階では、登場は「宮廷道化」「山姥」「王女」「国王」の順番だったのですが、大人の事情で、もっとずっと前に「山姥」を先行させているんですね。と、いうのは、山姥では王女や国王を牽制するのに、ちょっと力不足に感じたから、というか、そもそも性質としてそういうタイプではないんですよね、「閃」の概念も「努」の概念も。
意外にも「愉」は動かしやすいので、ここで活躍してもらっています。「愉」はもちろん、三大宗教のなかでもひときわな例のあの人ですが、象徴化をして道化、層、M字の門とかいうゲシュタルト崩壊的な何かになってしまっていますね。まだまだ「愉」は活躍する見込みですので、そこらへんを楽しみになさるかたは応援よろしくどうぞ。




……つづく。

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