斜め72度

崇める布の教団3~呪と数

2013/08/27 20:00 投稿

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【日常祈祷様態】

1、宵拝
夜空に向かい、香を薫じ、三拝して、自己の願いを思い浮かべながら、次の言葉を唱える。
「星にささやきを献じる。
 眠らぬ旅人を今宵に待ち
 安らぎの夜に眩む光をみる。
 蛇蠍(じゃかつ)の音も無く去りて
 狩人の巡る星のつぶやきを得る。
 眠らずのこの旅、
 心の軽やかなる明日を星に託す。」(宵拝文句)

2、浴拝
浴槽でロウソクを灯し、腰から下のみ湯につかり、瞑想して、他者の幸せを祈りながら、次の言葉を唱える。
「零を数える。
 零をして壱。
 壱をして参。
 精霊、精霊、讃えあれ三柱。
 参をして六。
 半神半獣、讃えあれ六柱。
 六をして九。
 賢精、賢精、讃えあれ九柱。
 九をして十二。
 星霊、星霊、讃えあれ十二柱。
 七層をして、参を二十一。
 これを宇宙となし、讃えあれ二十一柱。
 二十一を以って零に還り、
 汝の世に栄えあれ」※十回繰り返し(浴拝文句)

【第七教義】
「次に3つの精子を数え、これを讃う。
 『閃』と『努』の子を『情』
 『愉』と『閃』の子を『析』
 『努』と『愉』の子を『信』
 三精霊が像を刻むは、神を慰めんがためなり。
 よりて6柱となす。
 また3つの精を数え、これを讃う。
 『努』と『信』、作るは『慈』
 『愉』と『析』、作るは『念』
 『閃』と『情』、作るは『功』
 これをもちて神の似姿とす。
 よりて9柱となす。
 また3つの精孫を数え、これを讃う。
 『情』と『析』をして『執』
 『析』と『信』をして『疑』
 『信』と『情』をして『妄』
 浅ましき像になれども、成り為せば災なし。
 よりて12柱を星霊となす。」(原経典)

(釈)3つの精霊が生じたのは神の気まぐれのようなものであるが、ここでは精霊たちが、孤独な神を慰めるために像(子)を作り出したと説明される。
この精霊の行動により、教団は偶像崇拝の是否に対し「是」とし、「神の慰めになるもの、神の似たる姿となるもの」に師事し、支持することは構わないこととし、また、新たに創造することも禁じていない。この教団にも「わたし以外に像を刻んではならない」という大原則が存在しはするが、「神の似たる姿」を除外したのは「人間のつくりおおせるものは全て、神の似姿である」(『九星術師の法的見解』より)のひとことであった。

「浴拝文句」は3の倍数を唱えることで構成され、第七教義がその主たる根拠である。また、第六教義に、山姥が旅人を風呂に入れるとあり、その部分が様態に影響する。
山姥は『閃』の人間姿と考えられている。円錐である山、乳房をも象徴する山で待つ老女は、「宵拝文句」に「安らぎの夜に眩む光をみる」として書かれるが、外典によれば「青い衣と青い円錐帽をつけ、星を先端につけた杖で道を示す」とある。「星の杖」は天体が円を描いていることから「周る」の象徴で、「食むは実、煮るは根、飲むは沈」ともあいまって、鍋をかき混ぜる象徴。旅人に活を与える風呂を用意するなど、薬事や湯治を司る側面があらわれている。
また外典によると「精霊の大鍋は死者を蘇らす」という伝説があり、これも湯治を如実にあらわしたものといえる。ただし、三精霊のうち「閃」が女性であることを考慮すると(「努」は幼女の姿をとることがあるが性に目覚めていない状態のため女「性」としない)、この大鍋は子宮のことともいえる。戻らぬ男性の子を産むことを「死者を蘇らす」と喩えたものだという説がある。これにより山姥は母性の象徴ともとれる。
上記が山姥の解釈の通説であるが、山姥は、「子種」「食物」などを司る「努」の人間の姿であるとも、また、「子宮」「混ぜる」などを司る「愉」の人間の姿であるともいわれている。

さて、第七教義は、山で精霊に出会い、英気を養った旅人が、次々に精霊の子、神の三部位、精霊の孫、あわせて12星霊というものに出会っていくさまをしめしている。と、同時に、これは人が人間へ、人間が神へと近づく方法をも指し示しているという。

まず精子は精霊のかけあわせによって作られ、精霊と精子とあわせて6柱となる。
それぞれの精霊の特質の良いところと悪いところを引き継ぐ形であるため「浴拝文句」には「半神半獣」と称される。
また、これは、人体における左の手の指と左の脚、あわせて6本を意味し、人間として半人前である、「人という段階」と解釈される。

次に、精霊の親子は、爆ぜてしまった神の身体を復刻しようとし、これを「精」とよび、三部分からなる。
それぞれ神の部分として「慈」は幹、「念」は頭、「功」は血、と説明され、本能、思考、感情を意味すると言われる。あるいは、新解釈として「慈」は膜、「念」は核、「功」は質として、細胞を説明したものも存在するが、整合性はあまりないと評価されている。
この精の記述が前述した「神の似たる姿」を認める根拠となるが「精霊は神から爆ぜた存在」のために、どれほど精霊が復刻しようとしても、それは別物である、ということになる。ゆえに、「慈」「念」「功」はそれぞれ独立のものであり、精霊、精子、精、あわせて9柱と数えている。

精霊の子は、すべて異父兄弟か異母兄弟の関係となるが、その兄弟たちでさらに像(子)が刻まれる。
「親の背中を見て育つ」であり、人間の真似をしたがる人、大人の真似をしたがる子どもの姿を象徴していると同時に、人間に近親婚を戒めたものでもある。
精孫とよばれる3柱が生じるのだが、これは、精霊の極端に悪い面を如実に表したものとなった。「執」「疑」「妄」は、神へ近づこうとして遠ざかる人間の性質を司るため、人間を信仰から遠ざけ、苦しめるものとされる。ただし、これらの性質も、極めれば精霊に気づき神に近づく結果となるため、ハイリスク・ハイリターンの像であると解釈され、同じように「讃えあれ」と「浴拝文句」にあらわれる。

ここまでを12柱の星霊とよび、人間の個性の分類を為していると同時に、12星座、一年12ヶ月などを司るものとなる。これで、両手の指と両脚、あわせて12本の象徴を完成させ、人間が完成することも意味している。

このほか第七教義は、近年の情報社会の影響下で、マンダラ、六曜占術、生命の木(セフィロト)、世界樹(ユグドラシル)などの古典とも関連づけて考察されているが、いずれも、数を数えることの神秘性を物語っており、研究が待たれている。


【第八教義】
「神は真似びて、試みたり。
 9つの罪を刻み、以後世界を顧みず。
 層なす『愉』はこれを哀れみ、
 星霊とともに数えて21柱となし、
 もって爆ぜざる世界の礎とす。」(原経典)

(釈)精霊たちが面白おかしく像を作り出すのを真似て、神が像を作ってみた、というのである。
だが、ひとりよがりであったためか、才能を持たなかったのか、高望みをしたのか、思ったようにいかなかったのか、理由は神のみぞ知るが、神が作り出したのはできそこないばかりであったという。そのため、ますます世界に背をむけた、罪だらけ世界を憎むようになった、自分の失敗から目を逸らしたかった、という記述である。

感情や心情を司る「愉」は、そうやってできあがったのに顧みられることのなかった9つに同情し、下層(第七層と呼ばれる)の柱とした。
罪の9柱と、星の12柱、あわせて21柱で宇宙を支える柱とする世界観である。こうして、神は爆ぜるものから、21柱に閉じ込められるものとなっていく。
教団の最高指導者は代々、二十一芒星(正三角形を約17度ずつ傾けて7つ重ねた紋章)を身につけるが、これが由来であろう。ビール瓶の栓(俗にビールの王冠)が教団の最高指導者の紋章と同じ形を持っているのは偶然ではなく、平面円形を支持するのに強固な重点が21点であったからと、加えて、その昔、教団関係者が、ビール瓶の栓の開発に微力に携わったことも無関係ではない。

この第八教義と、次の第九教義によって、旅人もまた、その9つの罪とも出会っていることが分かる。罪を意識し理解することによって、人は人間になっていくともいえ、また神のように罪を憎むことを覚えていくと解釈される。



※編集後記
数あわせは大変です。およみいただきありがとうございます。
さて、今回は、呪文と数秘のお話ですね。別にこれらがなくとも宗教法人としては何ら影響はないと思いますが、「言葉を発すること」と「数を数えること」は人間の素養、すなわち記号理解という不気味なものでございます。これを宗教に取り入れると、多少の深みがでる、というものなのでございますね。

この崇める布の教団は「ぼっち神」(と、あっしが勝手に呼んでいる唯一神)が一応の本尊でございますが、人格をつけるとなると(本当は人格のある神ではないのですが)基本的にろくでなしです。ヤンデレ的ともいえます。
なので、直接声をかけられるとオドオドする、何かやろうとすると必ず失敗する、もういい! とふてくされる、などの行動をとるため、必然的に讃える呪文が精霊たちに向けてとなっています。

そして、数をこねくり回し、星霊とか罪とかいうものを作って、数え歌じたてにしました。
のちのち精霊や罪についても語る予定でございます。

もうひとつ、七行で作った詩のほうは、「夢路より」「星空のラビリンス」などなど、夜と孤独の安らぎを感じさせる歌などを組み合わせて作っています。

う、……う、奪ってないですよ、神の似姿です!








……つづく。

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