斜め72度

ハリーポッター教職論

2013/08/22 15:41 投稿

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いえね、先週、姪が産まれまして、今週、姪の誕生日で、その誕生日のほうの姪が9歳になりましたものですから、そろそろと思いまして「ハリーポッターと賢者の石」をくれてやったんでございます。

まあ、あっしが読んだやつのお下がりでございまして(誕生日プレゼントは買わない主義)、ハードカバーのやつでございますけどな、ちゃんと「ふくろう通信」もついてございますでね、問題はなかろうかと存じます。

この作品は多方面から研究するに恰好の材料でございまして、文芸創作論や文学史などの観点からみても面白いものにございます。創作論的には「一杯のコーヒーで書き進めたローリングは、どれほどその世界構築を自由への解放とできたか」といったところが興味深く、文学史的には「予約が必要な流通形態は文学になにをもたらしたか」とか「ビフォーポッターとアフターポッターでのラノベ作家の数的推移」なんぞが興味深いものにございますな。

まあ、それはともかく、哲学(専門は記号論)教授の友人に言わせると、ダンブルドア教授という登場人物について
「見えざる生徒の苦心に良い評価を下す希望」
ということでございます。

これだけじゃなんのこっちゃ分かりませんけどな。

でも今、この言葉を思い出すにつけ、昨今、ニュースを騒がせる教育現場に、こういう人がいればいいな、という幻想を抱いたりもするのでございます。

さて、ハリーポッターシリーズに関しては「ハリーが主人公」というのは何となく分かりますが、「主役」は誰なのか、というのが非常に難しい。
「ドラえもん」であれば主人公はのび太、主役はドラえもん、と、すっぱり分かるようになっているんですが、……あるいは、もっとも純粋に分かりやすいのは「西遊記」、主人公は三蔵法師、主役は孫悟空であります。

文学には、こういう「ぬしが役割を変えてふたりいやがる」ということがままございましてな。

単純化すると、
主人公は、困難にぶちあたりやすい属性を持ちます。
主役は、主人公の困難をなんとかしてやろうとする能力を持ちます。

さあ、あなたは、自分の人生の、主人公でしょうか、主役でしょうか?
……とか、禅問答ですけどな。

ハリーポッターシリーズにおいて、主役は、ダンブルドア教授であるかスネイプ教授であるかハーマイオニーであるか、この三者が特に有力と考えております。

で、さきに「ダンブルドアは希望の象徴」と友人の言葉を借りましたけれど、これを前提としますと、ダンブルドア教授はどうも、西遊記に喩えるなら観音菩薩の役割に近かろう、と。
おいしいところをかっさらう、おちゃめな性質、ちょっとした黒幕という共通項がございますな。

スネイプ教授とハーマイオニーは、よき対抗馬だと考えるのですが、はてさて、軍配はどちらか。

全7巻を通して考えると、スネイプ教授でよろしかろうけれど、図書のほうの(映画ではないほうの)「アズカバンの囚人」では、ちょっと残忍さがきわだってしまいましてな、ここが難しいのでございます。もっとも、この巻は、卿と直接対決をしていないことに加え、毎巻のゲストとなる防衛術の教授が、名教授のルーピン教授であり、実質ハリーの敵対者となる登場人物が存在していない、ということで、悪名はスネイプ教授だけ(正確にはおっさんネズミもいるのですが)のものとなってしまっている特殊さも加味せねばならぬのではあります。

ハーマイオニーはどうかと申しますと、たしか、作者ローリングが自分をモデルにしてできたのがハーマイオニーであったはずですので、主役性質は突出して高いわけでありますね。しかも、主人公にほど近いところに常にいるという点からみても、大いに主役の傾向が高い。ロンを猪八戒と仮定するとハー子は孫悟空とみなしてさしつかえない、と考えます。

まあ、この「主役」に関する結論は、他のハリポタファンに譲るとして。


教師・教授陣を論じていこうというのが主題でございますでな。
教職に就くにたりる人格、教師としてのふるまいというのはどういうべきものか、教育現場とはどう運営されるべきか、というのを探るのに、ハリーポッターをネタに眺めてみることといたします。

教育現場という観点からすると、なによりもアンブリッジ教授をやり玉にあげたく思います。
このテーマは「教育の独立」と「教育の行政管理」という相当に厄介な課題でございます。

教育の独立というのは、極論すると「教師が好きなことを教えたらよい」という感じですね。教師がおのれの好む教材で、おのれのやりかたで、その科目に興味を持たせるように研鑚し、研究し、生徒を伸ばしていく、という。教師にとっては自由度が高く、やりやすくなります。

が、問題はえらい勢いで噴出するでしょう。
ハリポタで考えますと、

ビンズ先生……その科目に興味をもたせる手法をもたず、生徒の関心よりも自分のカリキュラムを優先する

トレローニー先生……専門知識の影響力をことさらに用い、恐怖を助長させる方法で関心を買おうとする

ロックハート先生……教科へ興味を向けさせようとするのではなく、自分自身へ関心を向けさせようとする

ハグリッド先生……自分の興味に突っ走るため、段階を踏んだカリキュラム形成ができない

といったように、教育の本質に相当なノイズを含んだ状態がありえるわけであります。教師も個性ある人間でありますから、こういったこともあってしかるべきなのですけれど、教職を担うに相応しいか、教育の方法として正しいか、ということを考えてみてくださいませ。

「教師の影響力」というのは、ハリポタの隠れテーマのひとつのように考えてよろしかろうと存じますが、アンブリッジ教授(および、魔法大臣ファッジ)は、教育の独立が暴走するとダンブルドアが軍団を組織するに違いないと考えるわけでございますね。
これは至極まっとうで、そのダンブルドア自身も、若きトム・リドルが教師になったら、その教師の影響力のもとで軍団を組織しようとするに違いない、と考えていたわけでありますね。

教育の現場は、曇りガラスの向こうでありまして、教師が生徒に秘密裏になにかしていても、見えづらいものでございます。

スラグホーン教授を例にすると、この曇りガラスの向こうで、生徒に不適切な発言をしてしまった、それが大事件だった、ということになりましょう。

ゆえに、ある程度「教育の行政管理」が必要になるわけでございますね。
日本で言えば「教育委員会」はては「文部科学省」となりましょうけれど、必ずしも教師の好き勝手にさせてたまるか、ということでございます。
実は、これのほうが問題は大きくて「文部科学省」はその影響力を行使して日本の学校教育の基本方針「教育指導要領」を10年に一度くらいだしています。これに従っていればいいや、という教師ばかりであったら、日本はアホの国になりましょう。なりかかっていますけど、まだ持ちこたえている部分もあるのは、これもまた、教師がある程度個性をもった人間だから、だったりするわけでありますね。

ムーディ先生、その実はクラウチという、厄介な教師がハリポタには出てまいります。
これがもう、教育者としてはすさまじい。

人間を、生徒を育てるというのは、綿密な計算と、計算間違いを補正する数々の策略のもとになりたちます。
目的と申しましょうか、目標と申しましょうか、生徒を「ある水準まで高めなければならない」という課題があるとき、教師は、手をかえ品をかえ、そこまで導く方法を探究せねばならぬものと感じます。

そして、彼がそこまでする原動力が「誰かのため」であることも重要なポイントであります。まわりまわって自分のためにもなる誰かのため、でございますけれど。

もう少し現実的には「家庭のため」「家族のため」に教師という職業をする、というのは、逃げられない覚悟と、耐える根性、自分の職をよいものにしようとする工夫などが根付く可能性があるのでありますね。
日本の教師には、こうしたひとが少なくないように考えます。

ただ「誰かのためだけ」でなく、さらに「目の前にいる生徒のため」であると、教職は聖職となっていきます。まあ、ぼっちがほぼ確定しますが。5巻までの四寮監とダンブルドア校長は、そういった傾向が特に顕著です。これに関しては、あっしでは語りつくせぬ部分を、読者さまがたが思い当たってくださることと存じます。


ともかく、行政管理下にある教育の怖さは「不死鳥の騎士団」をそのまま感じ取っていただけばよろしかろうと存じますが。
日本の学校教育はどこまでも行政がくっついてまいります。それほどまでに監視が必要な教師ばかりだというのでしょうか? 教職を担うにふさわしい人材を、それほどまで選べていないということなのでしょうか? あるいは、それほどまで教職にふさわしい人材を育てられない教育が横行してきたのでしょうか? なんともメビウスの輪でございまして、この枠組みを取り外しはじめている学校もなきにしもあらずではありますが、それでも、世間一般の初等中等教育が、こんなに閉鎖的な教育でいいのか、不安を覚える今日この頃でございます。

いい先生はたくさんいるでしょうに。

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