あいも変わらず、宗教談義で申し訳ございませんけれど、ニコニコ三大宗教についてもう少し宗教学の見解から分析を続けていこうかと思う次第にございます。
ニコニコ三大宗教とは、「ドナルド教」「ヴェルタース教」「ねるねる教」のみっつのことをさします(詳細は大百科参照)。
古いものから新しいものへ、と移り変わりますとき。
「古今集」から「新古今集」へ、「新古今集」から「歌詠みに与ふる書」へ、「カトリック」から「プロテスタント」へ、でも、フランスの市民革命でも、科学でも、まあ歴史的事象はなんでもよいのですけど、保守的勢力と新興勢力との衝突がぶつかりますとき、対外的に「新興勢力」というものは敵対勢力を批判、批難することからはじまります。敵を倒すべき大義名分を得て、同時に、志を同じくする者を集めるためでございますね。「あんなのダメだめじゃん、こっちのがイイぞ」という説得力が、多くの人を動かし、それが歴史になると思えばよろしかろうと存じますが、ニコニコ三大宗教は、そのような「新興勢力」の発生のしかたとは違うように見受けられました。
といいますのも、三つとも同時他発として、経過はどうあれ、他を批判するために存在したのではないという点がございます。さらに、総本山の原曲がみっつとも同じにそろえられていて「宗教法人法」で考えるところの「被包括宗教団体」という並立になっているように思えます。
「被包括宗教団体」というのは、包括宗教団体からお墨付きやらノレン分けやら、まあ、そういった感じで、親玉の宗教団体のしたに包括「されている」団体ですね。被でないほうの「包括宗教団体」というのは、弟子的な位置にある宗教団体を包括「している」ほうの親玉、これこそを宗教では「総本山」と呼ぶのでありますが。……はてさて?
とはいえ、「キリスト教」や「イスラム教」が、「ユダヤ教」のことを総本山と呼ぶのもおかしなことでございますのでな、まあ、それはよろしかろうと存じます。問題としたいのは、ニコニコ三大宗教とは、ひとつの親からうまれた三つ子である、という点でございますね。
このへんが極めて森の民の宗教らしいというか、日本らしいというか、神道系らしいというか。
セムハム一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の文化をもつ人々は「偶像崇拝の禁止」というのがございますね。さらに、この砂漠の民の宗教が北方を巡り、ヨーロッパやアメリカを覆うと「肖像権」「著作権」というものに変容していきます。
「純粋な森の民の宗教」には、こうした概念が存在しませんので、インド、中国、韓国、日本、東南アジアは、知的所有権という考え方は根付くのがきわめて遅くなった。
さらに、森の民の宗教は多神教となります。食べるのに困らない豊かな民である彼らは、自然現象を厳しい神として恐れ敬う宗教であり、豊かさをもたらすものをありがたい神として崇敬する宗教となっていきます。砂漠の民は、過酷な生活があり、奴隷の扱いがあり、太陽の過酷さを知るために、けわしい戒律のひとつ神となります(キリスト教はその戒律を少しゆるめはしますが)。
日本の場合、多神教の神道は、他の民族が崇拝する神を組み込んだということでもあります。「古事記」を考えると、皇家の血統だけをしめしていけばことたりるはずのところ、敵対していた神や民族を、どうにかこうにか受け入れてきたことのオンパレードとなっている部分があります。
相手があがめているものをうけいれて、その民族を納得させ調和させた、と、良い言い方をするとそういうことでございましょうな。
他文化の受容というのは枚挙のいとまがないくらい神道は熱心で、仏教が入ってきてもむりやりこじつけたり、キリスト教が入ってきても受け入れたり、と、とにかく一度、取り入れてしまうというのが日本人のようでございます。宗教に限らず、文化のほうがその傾向は史実にあきらかといえましょうけれど、
取り入れる→改変、改善する
島国らしい受容機構ともいえるやしれません。
……あっしがいまさら指摘することでもございませんけどな。
この、文化融合とでもいうのか、日本式文化改変とでもいうのか、「やなぎの下のドジョウ三匹」とでもいうのか、
メインカルチャー、すなわち、社会の中心を形作っている文化・文物、
大勢のひとが「右向け右」と命じられたかのようにその方向を向いているものごとに、
サブカルチャー、すなわち、社会の中心からはじきだされている文化・文物、
少数のひとが感じている別の事象のいろどりを加えていく。
あまり好きな言葉ではありませんが「二次創作」という方法は、メインカルチャーに注視している人々をサブカルチャーにわき見をさせることができるものと見えます。
この方法は、「新興勢力」が、他者を批難の的にすることなく、むしろ、賞賛しながら勢力的基盤を獲得していくという興味深いものでございますね。必ずしも全てが批難していないかというとそうでもないのですが。
「これが好きなら、これも好きになって」という勢力獲得の手法は、コバンザメ的といいましょうか、ハイエナ的といいましょうか、寄生虫的といいましょうか、時として、何かに依りかかっている状態になり得ます。依存しているものがくずれると存立が危うくなる。
いわく、三大宗教にはすでにその歴史があり「リーブ教」は成りをひそめたといえましょう。無論、現行の三大宗教においても、この後の経過は「神のみぞ知る」。
素材の選定がもし黄金比で成立したとしても、宗教の行く末というのは、文化人類学的に「崇拝されるものではなくなり、寓話あるいは神話に格下げされる」というのが本質と考えます。
あっしは以前「ドナルド教は原始宗教としては評価できない」と申しましたのですけれども、これに対するドナルド教信者、あるいは狂信者の行動や言動から、なかなか興味深い見解を得ました。
あっしの「原始宗教としては評価できない」は、あっしが用いた分析手法の型から外れていて、既存の傾向ではないオリジナリティのある宗教として興味深いのではないか、という義でサイを投げてみたものでございましたのですが、彼らの行動や言動は
①あっしの評価基準のなかに組み込みたがる
……球体や性に関する言及が教義にあることを主張
②さらに既成の要素をくわえる
……「東方」「ドナルド」という要素に加え「キリスト教」「オウム」などの説諭法を用いる
という傾向となりました。
どこまでも、いつまでも、他者の評価を気にし、他の既成の要素をくわえる、という日本的特徴を感じさせるところが興味深いものにございます。
そのものをそのものとして、寄りかからせずに独立させる、確固たるオリジナリティをもつ宗教が多くうまれ、席巻し、各個各自の宗教が堂々と主張できるようになるには、はてさて、日本ではそこまで難しいことでありましょうかな。
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