斜め72度

サイコキラー的な

2013/08/10 14:49 投稿

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怖い話

いえね、占い師なんかをやっておりますと、自然と霊能者とかのかたがたと横のつながりができてしまったりするのでございますけれども、あっしはどちらかというと一般的に言うような霊的能力、霊感、というものを持ち合わせておりませんもので。霊的なものに関しては、耳学問であれこれ知識を得たり、考えたりというだけで、除霊とかの能力は実際は持っておらぬものと自覚しております。いうなれば、オカルト・オタクなのでございますな。

そのため、実体験の怪談などは前回くらいのものでございまして……、いや、ほかにも数件なきにしもあらずですが、さほど怖くもないものにございましょう。
そもそも、ゾンビがうじゃこら出てきたり、ブルーベリー色の二頭身のつぶらな瞳のなんらかに追いかけられたり、というようなゲームの類がございますような昨今、本当に怖いものと申しますのは、人間の妄執、ですとか、人間の無垢なる好奇心、といったものではございませんでしょうか。

無垢なる好奇心。
あっしはこう呼びますけれども、人間社会の垢にまみれていないということでございます。
もうちょっと訳しますと、社会を構成する、または社会を構成しようとする人間が、社会的に刷り込まれている倫理的な感性にまみれていない、ということにございます。
……訳そうとして、余計難しいことを申しておりますな。

例解してみますとね、たとえば現代日本人であらば「人を殺すことは悪いことだ」という感性を、知らず知らずに獲得するわけでございます。これが倫理的な感性の社会的刷り込み、でございます。多くの場合、13歳前後で自己納得の上に獲得しますので、ネット民はこれを「厨二」と呼び、占い師は「13は死の概念と出会うの義」などと解釈する。
このときの自己納得、というのは「他者にも心や考えがあって、やりたいことやしたいことがあるんだろうな、だから命をうばってそういうことをさせてあげないのは可愛そうだ」とかなんとか、自分なりに自己と他者を線引きしていくことでございますね。

この倫理の刷り込みの最中に歪みがありますと、社会が当然であると思っていること(社会通念)が通用しなくなりますな。「人を殺すことは悪いことだ」という感性を持たない。社会というものの手垢にまみれていない状態の人間が育っていくわけでございます。

あっしの知り合いに、べらぼうな天才がございましてな、どこだか忘れましたがアメリカの大学院でロボット工学だかの博士号をとっているヤツなんですが、齢30を越えて
「ようやく殺人が悪いことだってのを理解できた」
と言ってきたのを思い出すのでございます。
どうも、そのあたりの頃に、指導教官であった人が亡くなったから、というのが理由らしいですが。
もう、感性じゃなく、無理やり理論付けで理解したものになってございましてな、人間が社会的人間の感性を持たない、というのは、結構怖いことに思えるんでございますよ。

怨恨やら物取りやら、というのが、まあ、日本の殺人における古来からの「動機」でございますけれど、刷り込みのない人間、純真無垢な状態のままの人間、というのは、「恨み」や「物欲・金銭欲」という感情に任せなくとも人殺しになれるのでございます。つまり、邪気がない状態。

例えば、庭の花壇で摘んだ草花の毒性を確かめるために、父母に猛毒茶をふるまってみたり、トランスセクシャルな女性が、好きになった女性の腹を裂いて、子宮に赤ん坊人形をつめこんでみたり、宗教的観念に導かれて、新鮮な人間の脳を食するためにノコギリで生きたままの人間の頭蓋骨をあけてみたり、愛する人の病気を治すために自分の性器をぬきとって食べさせたり、他者の絶望の瞬間を見ることに快楽を覚えてホームレス狩りをしてみたり、いわゆる「ネジが一本とんでる」ようなわけでございますな。悪気がないから、なおのこと恐ろしいものにございましょう。

昔ねえ……、
「恨みを抱いて人を殺傷するのと、過失による事故で人を殺傷するのと、どちらが悪いか」
というようなことを熱心に議論していたことがございますんですが、法律の上では前者のほうが罪が重いわけですけど、どうしても後者のほうが非道だと思えたのですねえ。

だって、恨まれて殺意を抱かれるようなことしたのは本人も悪くね? と。
どこの誰かも知らん、何も接点もないはずだったのに殺してしまったほうが、殺されたほうは無念じゃなかろうか、と思うんでございますねえ。

と、この考えだと、なんらの邪気もなく殺されたら無念だろうな、と思うのでございますけど、いかがなものでございましょう?

物取りでも怨恨でもない無垢で無邪気な通り魔、もし会ったらどうしたものか。しかもこれが、昨今日本では少なくなくなってきますでしょうねえ。
裁判員制度に期待いたす所存にございます(そういえば、一昨年、あっしは裁判員やったのでございますが)。



「袖摺りあうも他生の縁」とか申しましてな「袖が軽く触れる程度でも現世で接点があったのであれば、前世や来世で、大きな縁があったのだろう」という考え方でございますけれど。

今を生きることにはどうでも良いような他生で、何の因果がございますものか。殺されるような、殺さねばならぬような、そんな因果で現世に影響を及ぼしているのであれば、前世も来世も信用できたものではありませんな。

みなさまには、最低限の自警をなされますよう。

厨二が恥ずかしいことだとする風潮が人間の倫理の刷り込みを少しずらしてしまったこんにちでは、道々、何が起こるか分かったものではございませんでな。

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