なまもの置き場。。。(ニコニコ)

しょうせつ 海の上の月

2014/01/11 11:59 投稿

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いっちょーさいうぷ

中学生のひきこもり少年が女の子と出会う話です!

胸キュンシーン小説を書こうと思って書きました!







 
 すでに目は覚めていたが、起き上がる気にはなれず、しばらく天井を眺めていた。床の上には食べ終えたお菓子の空き箱や飲み終えたジュースの空き缶が散らばり、その上を何匹かのコバエがひゅらひゅらと飛び回っている。閉まりきった薄水色のカーテンを透過してぼんやりと差し込む光が淡いオレンジ色であることから、今が夕暮れ時であることがわかった。外からは、鳥の鳴く声と、下校途中の小学生であろうはしゃぎ声が聞こえてくる。なぜかその声に急かされているような気がした僕は、ベッドにへばりつくような重い体を起こすと、ごみや漫画本が散らばり足の踏み場のない中を、雨の日の水溜りを避ける要領で歩く。少しの尿意を感じたものの、それよりも食欲のほうが上回っていた僕は、トイレには行かずに、二階の自室から一階のキッチンへと向かった。
 ティッシュ箱と観葉植物が置かれ、きれいに白いクロスが掛けられたキッチンのテーブルの上には、やはりいつものように、母親が作っておいてくれた、夕食のデミグラスソースハンバーグとコーンサラダが、それぞれラップをかけて置かれていた。
 キッチンで一人、早めの夕食を食べ終えると、さきほどよりも遥かに強くなった尿意を感じ、用を足しにトイレへと向かう。溜まりに溜まった尿が、膀胱から尿道へと流れ込むと、一気に便器へと放たれる。その快感に、思わず、ぶわあ、というだらしない声を漏らしてしまう。
 用を足すと僕は、自分の部屋に戻りベッドへと倒れ込む。テレビから流れる夕方のニュース番組の、「デパ地下人気スイーツ特集」では、モンブランを食べる若い女性リポーターが、大袈裟な様子で味の感想をリポートしていた。こんなモンブランを食べたのは、生まれて初めてです、だそうだ。もっと味を具体的に説明しろよ、とひとり思った。
 そんな番組を聞き流しながら、既に何度も読み返しているコメディ漫画を読んでは、一人さびしくけらけらと笑っている。そんな自分を、肉体から離れた幽体のような僕が、上から見下ろしては、その胸を痛めていた。
 床の上の、漫画雑誌のなかに埋もれた携帯電話が、一週間ぶりに、自らの存在を知らせるかのように鳴り出した。ベッドに寝転がったまま手を伸ばし、携帯の上に伸し掛かる漫画雑誌を部屋の隅へと投げ飛ばし、埋もれていた携帯を掴み取ると、液晶画面に映る、「耕太」の文字を確認し、通話ボタンを押した。
「よお俊介、今から行ってもいいか」
 そう訊く声の後ろからは、車の走る音や信号機の誘導音、今日は風が強いのか、風がマイクへと入り込む際の雑音が聞こえてくる。 「いいけど、部活はもう終わったの?」 「そろそろ中間試験だからな。どの部活もいつもより早めに終わってるよ」
「そうなんだ」
「シガヤの前の露店が久々に出てたんだ。お前の分のつくね串も買っておいたぜ。お前も好きだったよな」
「うん。ありがとう」
「おう、じゃあもうすこしで着くから。着いたらまた電話する」

「お前、もう少し部屋片付けたほうがいいって。コバエが飛んでるし」
 部屋に入った耕太が、顔をしかめながら言った。
「僕も片付けようとは思うんだけどね。いざ片そうと思っても、どうしてもやる気が出なくて、結局このままになっちゃうんだ」
 床に倒れた空き缶を立てながら答えた。立てた空き缶の飲み口からは、一匹のコバエが驚いた様子で飛び出してくる。
「でもなあ、さすがにそろそろ片したほうがいいぜ」
 耕太は、一週間前に部屋に来たときに読みかけであった漫画本を、巻数の並び順がばらばらであった本棚から探し出し、抜き取ると、ベッドへと腰掛けた。
 耕太は小学校からの同級生で、昔はお互いの家を毎日のように行き来して遊ぶほどに仲が良かった。しかし、中学に入ってからは、クラスが離れてしまったこともあって、通学時に会うと軽く挨拶をする程度で、面と向かって話すことはほとんどなくなっていた。でも、僕が半年ほど前から学校に行かなくなると、心配してくれて学校帰りに僕の家に寄ってくれるようになり、また以前のように話すようになった。話してみると、性格は昔から変わっていなく、たまに言葉遣いに少し乱暴なところはあるが、根はいい奴のままだった。
「はいよ、つくね串。そういえば、お前のクラスの奴も心配してたぞ。森くんはどうしたんだろうって」耕太が漫画本のページを開くと、言った。
「クラスの奴って?」
「宮門。サッカー部の。あいつとお前、仲良かったよな」
「特別良いわけでもないけど。ていうか耕太と宮門って仲良かったんだ」
「いや、そういうわけじゃなくて、俺がお前のクラスの奴に用があって会いに行ったときに話し掛けられてさ。最近森と会ってるんだろ、あいつ、どうしてる、って」
「きっと、周りの人に心配してる自分を見せたかっただけだよ。森のこと気に掛けてあげて、宮門優しいなって思われたくてさ」
「お前なあ、せっかく心配してくれてるんだから、もっと素直に受け取れよ」
 耕太は人差し指をしおりのようにして漫画本を閉じると、続けた。
「やっぱり、まだ学校に来る気にはならないのか」
「前から言ってるけど、まだ行く気にはなれないんだ」
「別に学校で嫌なことがあるわけではないんだろ?」
 半年ほど前から僕が学校に行かなくなったのは、友達にいじめられているわけでも、気に食わない教師がいるわけでもない。それなのに突然、何の前触れもなく、学校に行く気が無くなってしまった。今までに何度も、今日こそは行こう、と思ったりもした。しかし、どうしても行けなかった。それがなぜなのか、もう半年間もずっと考えているけれど、いまだに自分でも理由が全くわからない。心の奥の方に、底の見えない暗闇が広がっているような、そんな感覚だった。
「別に嫌なことはないよ。ただ、どうしても行く気にはなれないんだ」
「そうか」
そう言うと、耕太は大きく息を吸い、吐くと、何かを思い立ったように立ち上がり、言った。
「今日はもう帰るな」
「え、今来たばっかりなのに?」
「ああ、ちょっと用事思い出した」
「……そっか」
 耕太を一階の玄関まで見送ると、部屋に戻り、耕太からもらった、プラスチック容器の底に薄く溜まるタレに浸ったつくね串を、勢いよく頬張った。小さな頃から食べていたその味に、小学生の頃、シガヤに行った際、母親にもよく買ってもらっていたことを思い出し、感傷的に懐かしんでしまう。
 つくね串を食べ終えると、少しばかり部屋の片付けをする意欲が沸き、足元に転がるお菓子の空き箱を、つくね串の入っていたポリ袋へと入れたことをきっかけに、僕は部屋中に散らばるごみをひとり、無心で、黙々と片付け始めた。

 夜中の二時を回る頃、僕は海を眺めていた。学校に行かなくなってからというもの、僕は毎日一歩も外に出ず、部屋でテレビを見るか、インターネットをするかの毎日を過ごしていた。しかし、そんな生活を一、二ヶ月も続けているうちに、どんどん鬱屈していく自分の精神状態に気付き、外へと出ることにした。しかし、生活が完全に昼夜逆転していた僕は、体が一番活発的になる真夜中のこの時間に、散歩に行くこととなった。
 僕の住む町は、千葉の最東端に位置する港町で、僕の家から海までは割と近い。ウォークマンで音楽を聴きながら歩けば、三曲目が終わる頃には着くほどの距離だ。
 秋の夜風が顔に吹きつける感触がとても心地良い。夜空に浮かぶ月の光で、海面が波の動きに合わせてはきらきらと反射し、その先の水平線上に浮く十隻ほどの漁船は、まるで冬を彩る街のイルミネーションのように、赤や白の光をきらびやかに放っている。とても幻想的な情景だった。今の僕は、この景色を眺めるために毎日を生きているようなものなのかもしれない。船の光を眺めていると、ふとそう思った。
 家にひきこもるようになった僕には、底知れぬ不安が押し寄せた。このまま学校に行かない僕は、この先どうなってしまうのだろう。高校に上がることも出来ず、大学にも行けず、そして職にも就けず、一生誰とも係わることなく孤独に死んでしまうのではないか。そう考えるだけで、気分はひどく落ち込み、最近では、もう死にたい、消えてしまいたいとさえ思っていた。しかし、そこまでの心持ちになってもなお、学校に行く気にはなれなかった。そんな自分が自分でわからず、怖かった。
 
 耕太が家に来てから四日ほどが経った夕暮れどき、耕太から着信があった。今から行ってもいいかということだった。目が覚めたあと、尿意を感じつつも起き上がる気にはなれず、ベッドの上に寝転がっては、何をするわけでもなくただぼうっとテレビのワイドショーを眺めていただけだった僕は、了承した。
 家に着いたとの連絡を受けると、いつものように、一階へと下りて玄関の扉を開ける。すると、扉の向こうの光景がいつもとは違っていた。
「こんにちは。森くん」
「俺が誘ったんだ。上がってもいいだろ」
 耕太の横には、顔を洗わずに出たことを後悔する人物が立っていた。里見有希さんだった。彼女は、入学式のときに初めて見かけて以来、ずっと気になっていた存在で、俗に言う一目惚れのようなものをしてしまった女の子だった。しかし、彼女は今流行のアイドルグループにでも入れば、間違いなくトップ争いができるほどの容姿であって、さらに、一年生の頃から高校生の彼氏がいるとの噂もあって、とても僕なんかの手には届かない存在として、好き、などという感情さえ持つ隙はない、高嶺の花のような存在だった。
「うん。どうぞ」
 洗っていない顔をできるだけ里見さんに見せないように、うつむきながら答えるその声は、少し上擦っているように思った。
 三日分ものゴミが散乱した自分の部屋へ里見さんを入れる訳にはいかず、誰もいない一階のリビングへと二人を招いた。耕太一人のときには出すことのない、冷蔵庫に入った二リットルペットボトルの緑茶を、グラスニつに注ぐと、二人に差し出す。二人が軽くお礼を言うのを聞くと、僕はすぐさま洗面台へと向かった。
 顔を洗い、ボサボサだった髪を手グシで整え、鏡に向かって顔つきを少し精悍にさせると、リビングに戻り、談笑する二人が座るソファーの、テーブルを挟んで斜め向かいに置かれた座椅子へと腰掛け、二人に訊ねる。
「どうして里見さんが?」
「お前、最近、全然女子と会っていないだろ。やっぱり男としては、そろそろ会いたくなってくる頃なんじゃないかな、と思ってさ」
 耕太が緑茶を一飲みにすると、答えた。
「でも、なんで里見さんなの?」
「同じクラスで仲も良いし、一番誘いやすかったからさ」
 耕太と里見さんは同じクラスで、耕太との会話の中に、たびたび里見さんの話題が出てきていたことあり、二人が仲の良いことは知っていた。でも、まさかこんなかたちで初めて話すことになるとは思わなかった。自分の家の居間のソファーに座る里見さんを見ていると、いつものリビングが、非現実的な空間であるような、なんとも不思議な気持ちがした。
「どう、久しぶりに会う女子は」
 里見さんが、少しからかったような口振りで訊く。この小悪魔的な素振りも、学校中の男子を虜にする起因なのだろう、と思った。
 姉も妹もいない僕は、女性というものにあまり免疫がなく、なんとも思っていないようなクラスの女子とでさえ、話すときは緊張してしまう。それなのに、相手が里見さんともなると、なおさら緊張してしまって、口ごもってしまう。すると、そんな僕の様子を見ていた里見さんが、唐突に言った。
「これから三人で出掛けない?銀座通りのほうなら、うちの学校の生徒もあまりいないだろうし」

「お前、もっと笑えって」
 耕太が、プリクラの画面に映る僕の無表情を見て言った。僕は、緊張で引き攣った顔を直そうと、必死で笑顔を作ろうとするが、画面に映る僕の顔は、まるで唇の左端だけに釣り針が引っかかっているかのように、ぎこちのない笑顔だった。「3、2、1、ハイッチーズ」プリクラのスピーカーからの、いつかテレビから流れるアニメ番組のなかで聞いたことのある声を合図に、カメラのシャッターが下りる。するとその声が、機械の外に出て出来上がりを待つようにと僕らをうながした。
「森くんとのプリクラなんて、レアだなあ」
 里見さんが、プリクラのすぐ近くにある、ゲームセンターのレジカウンターに置いてあったハサミで、出来上がったシールを三等分にカットしながら言った。
「はい、これが耕太の分」
 里見さんが、三等分にしたうちの一つを、耕太に手渡す。
「お、サンキュウ」
「これが、森くんの分」
 そして、残った二つのうちの一つを、僕に手渡した。僕が軽くお礼を言うと、里見さんが、微笑みながらうん、と頷く。
「プリクラも撮ったし、どこかに夜ごはんでも食べに行こうよ」
里見さんが、自分の分のシールをピンク色の手帳のような物に挟み、バッグへとしまうと、言った。
「そうだな。俺はもう親に電話しておいたし、俊介も大丈夫だよな」
「森くんは、電話しなくてもいいの?」
「うちの親は共働きで、いつも帰ってくるのは九時過ぎになるから、大丈夫なんだ」 「そっか。じゃあ、どこに行こっか」
 里見さんが僕らに訊ねると、耕太が決まり切っていることだろう、と言わんばかりの口調で言った。
「そりゃあ、あそこしかないだろ」

 学校からは遠い、銀座通りの商店街であることもあって、僕たちの学校の生徒は一人もおらず、隣の中学校の生徒や、高校生で店は溢れ返っていた。僕らの学校と同じで、テストが近いのであろう、ノートや参考書を広げ、友達同士勉強する中学生もいれば、携帯ゲーム機で通信対戦をしては、大声を出して騒ぎ立てている高校生もいた。
 テーブルの上には、僕と里見さんが頼んだ、「ミラノ風ドリア」が二つと、耕太が頼んだ「シシリー風辛子明太子スパゲッディ」が置かれている。両方とも、オシャレなお皿に盛り付けられてはいるものの、値段が格安なこともあって、料理自体の見た目は普段よく食べている冷凍食品のものとあまり変わらないように思った。しかし食べてみると、ミートソースはトマトの酸味がよく効いていて、コクもあり、表面に乗った焦げ目のついたチーズも香ばしく芳醇で、冷凍のものとは比べ物にならないほど美味しいものだった。
「学生が行く店って言ったら、やっぱりここだよな」
 耕太が、フォークにパスタを巻き付けながら言った。しかし、うまく巻き付けることが出来ないのか、途中で巻き付けることをやめ、すくうようにして食べはじめる。
「やっぱり安いもんね」
 里見さんが、スプーンでドリアをすくうと答える。
 この店は、イタリア料理専門のチェーン店で、僕らの学校から近い駅前の商店街のほうにも同じ店がある。ほかのファミリーレストランと比べて、格段に値段が安いことで、学校の生徒のほとんどは常連だった。
「やっぱりここに来たらパスタを食わないとな」
 耕太がズルズルとパスタを豪快にすすると、里見さんに言った。
「いやいや、やっぱりドリアが定番でしょ」  里見さんが反論する。
「まあ、確かにドリアも美味いけどな。パスタに比べたらまだまだだな」
「いや、絶対にドリアだよ。メニューにだって、『当店人気ナンバーワン』って書いてあるじゃん」
 里見さんが、テーブル脇に立て掛けられたメニューの表紙を指差しながら言うと、耕太は釈然としないというような顔で首を傾げると黙ってしまう。
「でも、本当に美味しいんだね。ここ料理」
 僕は、想像していた物よりも遥かに美味しかった料理に、そう言うと、里見さんが驚いた様子でこちらを見ながら聞いた。
「森くん、ここの料理を食べるのは初めて?」
「うん。テニス部って、ほかのどの部活よりも練習が終わるのが遅いでしょ。だから、帰りに一回も寄れたことがないんだ」
「そっか、森くんってテニス部だったんだ」 「そういえば、お前、なんでテニス部に入ったんだ?小学校の頃はサッカー部だったのに」
「ちょうどその頃、テニスの漫画にハマってたからさ」
「ああ、なるほどね。影響されちゃったのな」
 耕太がからかうように言った。
「そういう耕太だって、小学校の頃は野球部だったのに、何でバスケ部に入ったんだよ」
「え、まあ、俺も漫画の影響なんだけど」 「人のこと言えないじゃん」
 そう里見さんがつっこむと、耕太ははにかむようにして笑った。
「それにしても俊介って、小学生のころと比べて、だいぶ性格変わったよな。なんていうか、おとなしくなったっていうか」
「……そうかな」
 自分でもそう思っていたものの、あえてそう答えた。
「そうだよ。それまでは、今よりも、もっと明るかったじゃん」
「へえ、そうなんだ」
 里見さんが、意外だというような顔で言った。
 たしかに、二年生に上がる以前の僕の性格は、今よりもっと明るいほうだった。友達も多く、一年生のころは、クラスの学級委員をやっていたこともある。自分はクラスの人気者であるという自負心もあった。事実、友達からは毎日のように遊びに誘われ、慕われていた。しかし、一年の終わりごろ、学校に行きたくないと思うようになってからは、クラスの友達に心を閉ざすようになってしまって、話し掛けられても、そっけない態度をとるようになった。本当はそんな態度は取りたくはないのに、自分の意思とは無関係に、そんな態度を取ってしまうのだ。そんな自分が嫌で嫌で仕方なかった。しかし、どれだけ以前の自分に戻ろうとしても、心の奥に広がる、自分の意思さえもとどかないなにかには、成す術がなかった。当然、そんな僕からは、たちまち友達は離れていった。
「でも、森くんって今日初めて話してみて思ったけど、なんだか話しやすいよね。色々相談出来そうな雰囲気があるっていうか」
 里見さんが僕を見て言った。そんなことを言われるとは意外だった。今日だって緊張していて、里見さんとはまともに話すことも出来なかったし、話し掛けづらい、暗い奴だと思われているんだろうとばかり思っていたのに、まさかそんなふうに思われているとは思わなかった。
「色々相談できそう、なんて初めて言われたよ」
「そう? わたしは今日話してみて、そう思ったけどなあ」
 僕は小学生のころから、かなり重度の優柔不断で、携帯の機種を変更するときに何色にしたほうがいいか、なんていう些細な事まで人に相談しているようなタイプで、あまり友達から相談を受けるようなタイプの人間ではなかった。この半年、家に引きこもっている間に、僕の雰囲気は以前と少し変わったのだろうかと思った。
「そういえば、まだ電話番号、聞いてなかったよね」
 里見さんが、学生鞄から携帯を取り出すと、僕を見ながら言う。僕もポケットから、傷で至る所の塗装が剥げ、黒色から元々のプラスチックの色である灰色へと変容しようとしている携帯を取り出すと、赤外線通信機能で里見さんと電話番号とメールアドレスを交換した。
 その瞬間、心の奥のほうで、琥珀色の光が一瞬ぱっと光ったような気がした。その光は、冷たい風が吹きつける冬のなかから、家族の集まる、暖房のよく効いたリビングへと迎え入れられたときのような、優しい暖かさを持っているように思った。

「今日、帰りに寄ってもいいかな」
 耕太と里見さんの二人と出掛けてから、一週間ほど経ったころ、里見さんからこんなメールが届いた。「大丈夫です」と、自分でも味気がないかな、と思うような返事を送ると、笑顔マークの絵文字を添えた、「では、おじゃまします」という返事が返ってきた。そこで僕は、昨日、寝る前にシャワーを浴びていなかったことを思い出し、部屋のクローゼットの扉に掛かったバスタオルを掴み取ると、洗面所へと向かった。
 男というものは、自分から人に会う気がしなくても、得体の知れないなにかに見舞われていても、女性への関心というものは残るものらしく、里見さんが来ることに、待ち遠しさを感じている自分がいた。髪をドライヤーで乾かし、自分の持っている服の中でも、出来るだけオシャレだと思う服を着て、テレビを見ながら里見さんの到着を待った。夕方のニュース番組は終わり、人気のお笑い芸人が司会を務めるクイズ番組では、今流行のおバカタレントというものが、小学生でもわかるような算数の問題を、とんちんかんな回答で答えては他の出演者の笑いを誘っている。その番組がコマーシャルに入り、部屋の時計を確認すると、ほぼ同時に、リビングのインターホンが鳴る音が聞こえた。テレビを消し、机に置かれたスタンドミラーを片手に、手グシで髪型を整えると、階段を下りて一階の玄関へと向かい、扉を開けた。
「こんばんは」
 その瞬間、僕は当惑した。僕は、てっきり耕太も一緒に来ているものだと思い込んでいた。確かに、メールを送って来たのは耕太ではなく里見さんであったし、耕太も一緒に来る、ということを聞いていたわけでもないが、僕のなかには里見さんが一人で来るという発想が全くなかった。前回出掛けたときには、耕太がいたからその場が持っていたようなもので、里見さんと二人では話す話題も見当たらないし、気不味い雰囲気になることは目に見えていた。一体何の用事で来たのだろうか、それとも耕太は遅れて来るのだろうか、などと、半ばパニック状態で考えを巡らせていると、里里さんが不思議そうな顔で聞いた。
「上がっても、いいかな」
 その一言で我に返った僕は、冷静を装いながら、しかし隠し切れない動揺が表れている声で了承した。
「お茶でいいよね」
 僕は冷蔵庫を開けると、流し台越しの、リビングのソファーへと腰掛ける里見さんに訊ねる。
「うん。ありがとう」
 会話が途切れても沈黙が訪れないように、リビングへと里見さんを招き入れるのと同時に、テレビの電源を入れた。テレビからは、自分の部屋でも観ていたクイズ番組が流れていて、さっきも出ていたタレントが、日本初の総理大臣は誰でしょう、という問題に、自信満々に聖徳太子、と答えるなど、相変わらずな解答を繰り返しては会場の爆笑を誘っている。ガラスコップにお茶を注ぎながら、横目で里見さんのほうを見ると、あまり好みの番組ではないのか、おバカタレントのとんちんかんな解答には目もくれず、テレビの横に飾ってある、僕の幼稚園時代の写真を、どこかさびしげな目で見つめていた。
「どうぞ」
 コップに注いだお茶を里見さんに差し出すと、僕も座椅子へと腰掛ける。
「ありがとう。この写真の子、森くんだよね、それとも兄弟とか?」
 里見さんが、さびしげな目のまま微笑むと、聞いた。
「いや、僕だよ。僕一人っ子だから」
 予想よりもかなり早くに会話が途切れる。さっきまでは心の中で馬鹿にしていた、タレントのとんちんかんな解答が、今はとても頼もしく思えた。必死で考えを巡らすが、僕から話すような話題は見つからず、どこに向ければ良いのかわからずにさまよう目線をテレビ画面へと落ち着かせる。実際は十秒ほどであろうけど、それよりも遥かに長く感じた二人の間に流れる沈黙を破り、里見さんが言った。
「学校に行かないって、どんな感じ?」
あまりに唐突な質問に、間の抜けた声で聞き返してしまった。
「ごめん、失礼だよね。こんなこと聞いて」
「いや、別に大丈夫だけど」
 そう答えると、里見さんはため息をつき、少し微笑むと続けた。
「わたしも、学校行きたくなくなっちゃった」
「なにか、あったの」
「……森くんは、彼女とかいたことある?」
「いや、ないよ」
「もし彼女が出来たら、彼女にはどうなってもらいたい?」
 どうなってもらいたい、とはどういう意味だろうか、どんな服装をしてもらいたいか、という容姿的なことなのか、それとも、優しくしてもらいたいとか、甘えてもらいたいとか、内面的なことなのか、などと考えていると、里見さんが続ける。
「幸せになってもらいたいよね?」
 さっきよりも強く、同意を求めるかのような口調だった。
「それは、もちろんそうだと思うよ」
 そう答えると、里見さんは荒ぶっている気持ちを抑えるように、少し深めにソファーに座り直すと、テーブルに置かれたお茶に初めて口をつけた。僕は、テレビの音量が少し大きめだったことに気付き、テーブルの上に置かれたリモコンで音量を下げる。すると、里見さんがお茶をテーブルに置き、言った。
「そんな相手を殴るって、どうしてなのかな」
 里見さんの声は少し上擦り、目は潤んでいるように見えた。僕は、予想外に飛び出した、殴る、という物騒な言葉に、一瞬体が熱くなり、冷や汗が噴き出すのを感じた。そして、今までの彼女の言葉を自分なりにまとめた結果、一つの結論に至り、訊いた。
「彼氏に、殴られたの?」
 すると、彼女は今にも涙がこぼれ落ちそうな目で微笑むと、言った。
「森くんって、結構鋭いんだね。鈍感な人なら、今の会話だけじゃ気が付かないと思う」    
 どうやら、僕の出した結論は正しかったらしい。
「話、聞いてくれる?」
 ところどころ裏返った声で聞く里見さんの姿は、不謹慎ながらも、思わず抱きしめたくなるほどに可愛いかった。そしてそのとき、僕はテレビの横に置いてあるティッシュ箱に目が留まり、二枚ほど引き抜くと、彼女に手渡す。 「ありがとう」そう言うと同時に、彼女の目からは大粒の涙がこぼれ落ち、深い紺色をした制服のスカートを水玉状に濡らす。彼女は、渡したティッシュで慌てて涙を拭うと、ゆっくりと話し始めた。
「付き合い始めてから半年くらい経った頃かな、最初は私が悪かったの。友達と遊んでたら、デートの時間に少し遅刻しちゃって。そのとき、待ち合わせ場所で軽く頭をぶたれて。ほんとうに軽くだったから、ふざけてやったのかなって思ったんだけど、顔を見たら、本気で怒ってて。それまではそんな顔見せたことない、いつも笑っているような人だったから、すごく驚いたのを憶えてる。その日からかな、本当に些細な事でも怒鳴って怒るようになって。叩く強さも日に日に強くなっていって。今では、ただ自分の機嫌が悪いってだけで、ぶつようになって」
 そう言う里見さんの目からは、なおも涙が溢れ出し、唇は微かに震えていた。
「ぶつって、どこをぶたれるの?」
「ほとんどが背中とか、あまり目立たないようなところ」
「今も、痛む?」
「うん。結構大きなあざになってるから。わたし、もうどうしたらいいのかわからなくて」
 そう言う彼女に、僕は、何をそんなに悩んでいるのかと不思議に思った。どうしたらいいのか、その答えが僕にはすぐに見つかったからだ。
「別れた方がいいよ。そんな人とは」
「……そうだよね、そう思うんだけど、別れられなくて」
「どうして?」
「きっと彼も、殴りたくて殴ってるわけじゃないと思うから。いつもぶったあとにね、泣きながら謝るの。こんなつもりじゃなかった。本当にごめんって」
「でも、謝ればいいっていう問題ではないと思うけど。それに、謝っても、結局は繰り返しているわけでしょう」
「……それは、そうだけど」
 しばしの沈黙が流れる。テレビに視線を向けると、いつの間にかさっきまで流れていたクイズ番組は終わり、サスペンスドラマの人気シリーズが始まっていた。おそらくこれから殺されるであろう中年の男が、犯人とおぼしき若い男に追われ、夜の雑木林の中を逃げ回っている場面だった。
 僕には、もう言える事は何もなかった。どんな理由があろうと、男が女の人に手を上げるなんて、僕は絶対にあってはいけない行為だと思っている。だから、そんな男とは別れて当然だと思うのに、いくら謝っているとはいえ、彼女が何故その男を許せてしまうのか、僕にはわからなかった。
「ごめんね。急に家に来て、こんな話しちゃって」
 里見さんが、涙で赤くなった目で笑うと、言った。
「……帰るね」
 そう言うと、彼女はおもむろに立ち上がり、横に置いた鞄の取っ手を腕に掛けた。僕は、なにか言い残しているような、心に引っ掛かるようなものを感じたが、それがなんなのかわからず、なにも言えないままに彼女を玄関まで見送る。そのとき、扉が閉まる直前に見えた彼女の横顔が、僕の胸を締め付けた。   

 里見さんが帰ってからというもの、僕はベッドに寝転がっては、ずっと考えていた。しかし、いくら考えても里見さんの心情を理解することは出来なかった。そもそも今の僕は、自分のことだけでも一杯一杯であって、そんな話を聞いて、心の暗闇がさらに深くなったような気さえしていた。せっかく相談をしてもらったけど、今の僕には荷が重過ぎるし、あまり係わりたくないとも思った。しかし、その気持ちを凌駕するほどのなにかが、僕のなかにあることも事実だった。部屋の時計は既に夜の九時を回っていて、一瞬躊躇したものの、沸き起こった衝動がその躊躇を飲み込むと、僕は床に転がる携帯電話へと手を伸ばしていた。

 潮気の混じった秋風のなか、僕と里見さんは二人、海岸へと続く坂道を下っていた。通り過ぎる軒並みは、僕の家の周りとは雰囲気が異なり、木造建築の昔ながらの日本家屋が目立つ。まるでこの坂だけが、昭和にタイムスリップしているかのようだった。ほとんどの家の窓の明かりは消えているが、数件の家にはまだ明かりが点いている。通り過ぎる窓からは、入浴中なのであろう、開いた窓のなかから湯気が漏れ、シャワーヘッドから噴き出すお湯が浴室の壁を叩く音が聞こえた。石鹸と湯気の混じり合った、いい匂いがした。下る坂の向こうには、今にも夜空を押し上げそうな、深い紺碧の海が広がっている。僕は、何度見ても飽きることのないその景色に、心がふっと軽くなるのを感じると、沈黙を 破り、里見さんに切り出した。
「この坂、すごく好きなんだ。まるで昔にタイムスリップしているみたいじゃない?」
「本当だね。わたし、ここを歩くのは初めてだけど、気に入っちゃった。でも、まだ九時半だっていうのに、ぽつぽつとしか明かりが点いてないね。もう寝ちゃってるのな」
 里見さんが、周りの家を見渡しながら言う。
「このあたりに住んでいる人は漁師をやっている人が多いんだ。朝早い漁のために、早めに寝ちゃうんじゃないかな。それに、おじいちゃんおばあちゃんも多いしね」
 坂を下りきると、砂浜へと続く十段ほどの階段へと彼女を差し招いた。
 潮騒の音と潮の香りが融けあう砂浜海岸へと着くと、僕の指定席である、砂浜に打ち上げられてからかなりの年月が経っているのであろう、朽ちて所々に穴が空き、動物の骨を組み合わせて作られたオブジェのような姿になった流木へと、彼女と腰掛ける。きのうの夜に降っていた雨のせいか、少し湿っていた。
「呼び出しておいてなんだけど、実は、とくに言いたいことはないんだ。でも、なんだか海を見せたいなって思って。僕、毎日のようにここに来るんだ。ここに来ると、普段の落ち込んだ気持ちが、少し薄れるような気がして」
「そういえば最近、海見てなかったなあ」 「里見さんの家も、どっちかというと海から近かったよね?」
「うん、松山町だからね」
「だったら、なおさら海には行くといいよ」  
 横に座る里見さんを見ると、後ろの灯台の明かりが逆光となり、潮風に巻き込まれてはひらひらとそよぐ髪を、あでやかに輝かせていた。その横顔は、思わず時を忘れてしまうほどに綺麗で、どれくらいかの間、見とれてしまっていた。
「ひとつ、訊いてもいいかな」
 里見さんが視線を海から僕へと向けると、訊いた。我に返り、慌てて顔を海へと向け直す。
「森くんは、どうして学校に来なくなったの? あ、別に言いたくないならいいんだけど。なんか、今なら聞いてもいいかなって思えちゃって」
「べつに大丈夫だよ。ただ、僕にもわからないんだ。今まで、これといった問題もなく、普通に生きてきて、中学に上がって。一年のときはそれなりに楽しくやってたんだけどね。二年生になる頃から、急に行きたくなくなっちゃったんだ。いや、行きたくても行けないのかな。でも、それがどうしてなのか、考えるんだけど、自分にも全然わからなくて」  
 そう答えて、ふと空を見上げると、今日の夜空は一面の分厚いくもり雲に覆われ、月が、存在もわからないほどに隠れてしまっていることに気付く。
「そっか」
 里見さんは、それ以上は何も訊こうとはせず、すこしの間が空くと、言った。
「船、きれいだね」
 里見さんの指差す先には、まだ時間が早いこともあってか、いつも僕が見ているものよりもいくらか少ない漁船が、水平線上で様々な色の淡い光を放っていた。
「もう少し時間が経つと、数が増えて、もっときれいになるよ。イルミネーションみたいに。今日は曇っていて見えないけど、月が出ているともっときれいだよ。月の光が海面に反射して。僕のおすすめは、もっと深い時間で漁船がたくさん出てて、月も出ているときに、ここに来ることかな。でも、里見さんは学校もあるし、深夜には来れないよね」
「でも、休日なら大丈夫だよ。今度、休みの日にでも来てみる」
 そう言って、里見さんは大きく息を吸い込むと、言った。
「……わたし、今の彼と別れることにした」 「え、どうしたの、急に」
 唐突な里見さんの言葉に、聞き返す。
「なんでかな。今、急に思ったの。別れようって」
 僕には、里見さんの心情にどんな変化があったのかはわからなかった。でも、良かったと、ただそう思えた。
「僕からも、一つ聞いていい?」
「なに?」
「彼氏のこと、どうして僕に相談しようって思ったの」
 そう聞くと、里見さんは、少し考えて答えた。
「なぜだか、森くんになら話せるって思ったんだよね。でも、なんでそう思ったのか、自分にもわからないや」
 そう言うと里見さんは、微笑む口から息を漏らして笑った。その笑顔は、長いこと心に引っ掛かかっていた思いが吹っ切れたかのような、清々しい笑顔だった。
 その笑顔を見ていると、僕の心まで明るい光に照らされたような感覚が起こり、半年ほどぶりに幸福感のようなものを感じたような気がした。その懐かしい感覚に、僕は何故だか目頭が熱くなるのを感じたが、今、突然泣き出すわけにもいかず、ぐっと湧き上がる感情を抑える。そうすると、その幸福感はどこかへと消え去っていた。すると、今までに経験したことがないほどの絶望感が、心全てを支配せんとばかりに広がり、僕の呼吸を加速させる。頭の中がパニック状態になり、今にも叫び出しそうになったが、里見さんの手前、そんなわけにはいかず、顔をうつむかせると、気持ちを落ち着かせようとする。そんな僕の状況に気付いた里見さんが、僕になにか声をかけているようだったが、耳鳴りに掻き消されて聞き取ることが出来ない。どんどん呼吸が荒くなり、息を上手く吸うことも出来なくなる。苦しさが増すなか、もう駄目だ、僕は死ぬんだ、そんな思いが頭の隅々を駆け巡ったかと思うと、口の開いた風船から空気が漏れ出すかのように、絶望感が心から抜け出ていくのを感じた。呼吸は落ち着き、さっきまでの自分が嘘のように、平静さを取り戻していく。
「大丈夫、森くん!」
 里見さんの声がようやくまともに耳に届くと、僕は手足を砂浜に着き、四つんばいのような格好でいることに気付く。その横では、ひざをついた里見さんが、一生懸命に僕の背中を擦ってくれていた。
「ごめん。なんか急に具合が悪くなって」  
 少し荒い呼吸のまま、言う。
「大丈夫? ものすごく苦しそうだったよ」 「うん、もう大丈夫」
 そう言って僕は、流木に手をつくと、腰掛けた。すると、里見さんも心配そうに僕の顔を見ながら、隣へと腰掛ける。
「ねえ、本当に大丈夫」
 里見さんが、なおも心配そうに僕に訊く。
「うん。もう本当に大丈夫だから」
「……そう?」
 そのとき、僕は何気なしに空を見上げた。空一面を覆うくもり雲には、虫が開けた葉穴のように、いくつかの穴がぽっかりと空いていた。その空いた穴のうちの一つからちょうど覗いた月は、まるで今の僕の心模様のように、ぼんやりと、周りの雲を照らしていた。

 この半年間、焦燥感や絶望感というものは、常に持っていた。しかし、今までそれがあのときほど表面化することはなかった。きっと無意識的に、そのような感情を抑える、人間の本能的な能力が働いているのだろうと僕は思った。常にあれほどの感覚に苛まれているようでは、人間はとても耐えられないだろうと思う。
 あのときの僕を例えるならば、表面張力が働くほどのすれすれまでに水が溜まったコップへとビー玉を落とすと、一気に水が溢れ出す現象とよく似ている気がした。あの日、コップの中にビー玉が落とされ、僕の、抑えられていた陰の感情が一気に溢れ出てしまったのだろうと思う。でも、その水と、ビー玉の正体がなんなのか、僕にはやはりわからなかった。
「昨日、彼と別れてきた」
 里見さんが、テレビへ向けていた視線を僕へと向けると言った。
「拍子抜けするくらいに、あっさり了承してくれた。もっと、引き止められたりするのかと思ってたのに」 「僕も、ちょっと心配だったんだ。そういう人って、簡単に別れさせてくれないような気がしたから」
「そうだよね。わたしもそう思ってた。だから、あまりにもすんなりいきすぎて、びっくりだよ」
 少しの間を空けると、里見さんが言った。
「あのさ、今週の日曜日って、森くんなにしてる?」
「特になにもしてないと思うけど、どうして」
「今週、久しぶりに部活が休みなの。だから二人でどこかに遊びに行かない? 近場じゃなくて、知ってる人が誰もいないようなところ」
「いいけど、どこに?」
「千葉なんてどう? ちょっと遠いかな」
「いや、僕は全然大丈夫だよ」
「そう? じゃあ詳しいことは、またあとでメールするね」
 そう言って里見さんはバッグを持つと、立ち上がる。
「帰る?」
「うん。今日はただ彼と別れたってことを伝えたくて」
「そっか」
 僕も立ち上がると、彼女を玄関まで見送った。

「久しぶりだなあ。電車に乗るの」
「僕もだよ。それに、こんなに朝早くに外に出掛けるのだって久々だよ」
 半分開けた窓からは、怒鳴るような風が舞い込み、この時期にしては暑いくらいの気温で火照った僕たちの体を冷やす。通り過ぎていく田畑のなかでは、まだ朝早いというのに、七十は超えているであろうおじいちゃん、おばあちゃんが数人、腰を屈めてはせっせと農作業を始めていた。
「森くんは最後に千葉に行ったのはい頃?」
「二、三年くらい前かな。里見さんは?」
「わたしは半年ぶりくらいかな。友達と買い物に行って以来」
 今日、里見さんの私服を初めて見たけど、紺色の下地に白のチェック柄のワンピース、その上に、薄茶色のパーカー、そして膝まである黒いブーツという格好で、ファッションにはあまり詳しくない僕から見ても、おしゃれであるとわかった。制服のときの里見さんとはまた違う可愛さがあった。
「このワンピース、可愛いくない?」
 僕の視線に気付いたのか、里見さんが言う。
「うん。すごく似合ってると思う」
「ありがと。去年の秋に、お母さんに買ってもらったんだ。千葉に着いたら、まずは映画だよね?」
「そうだね。まず、駅前の映画館で映画を観て、そのあと近くのレストランで昼ごはんを食べて、あとはパルコとか、街をぶらぶらするって感じ」
 前日の、里見さんとのメールのやり取りで決めた予定を思い出しながら答える。
「でも、本当にいいの? わたしが観る映画を決めちゃって」
「うん。僕はこれといって観たい映画はないから。里見さんの観たい映画、なんていうタイトルだっけ」
「えっとね、『カミカクシ。』って映画。ある高校で、部活帰りの高校生が次々に幽霊に襲われるって話。ホラー映画好きの友達がすごく怖いって言うくらいだから、よっぽど怖いんじゃないかな。森くんはホラーとか大丈夫なんだよね」
「うん、大丈夫。むしろ好きなくらい」
「良かった。わたしもホラー大好きなんだ」

「怖かったけど、最後のほうにはちょっと感動もあって、良い映画だったよね」
 里見さんが氷のたっぷりと入ったアイスティーを、ストローから吸い上げ、飲み下すと、言った。
 以前の僕は、幽霊などのオカルト的なものは苦手で、ホラー映画なんて、とても最後まで観ることは出来なかっただろう。しかし、絶望感を抱くようになってからというもの、そのたぐいのものに、さほど恐怖を感じなくなっていた。人間にとって一番怖いものは、絶望であると気付いたからではないか、と僕は思った。そんなことを考えていると、過呼吸を起こすまでになった、あの大きな絶望感の波が、次はいつ襲ってくるのかと、ふいに怖くなった。
「森くんは、どのシーンが一番怖かった」  
 里見さんが、ストローで氷をからん、と回すと訊いた。
「やっぱり、後半のシーンかな。女の子の幽霊が、主人公たちの行く先々に現れるところとか」
 そう答えると、里見さんはおもちゃをプレゼントされた子供のように目を見開かせては、嬉しそうな顔で言う。
「うんうん。やっぱりあそこが一番怖かったよね。もう成仏したのかなって思って安心してたところに、いきなり出てくるんだもん。それに、あの幽霊役の子役の子の演技、すごく迫力があった。きっとあの子、将来大物になるよ」
「里見さんって、本当にホラー映画が好きなんだね」
「うん。うちの家族は両親も弟もみんな苦手なんだけどね。わたしだけが大好きなんだ」 「そうなんだ。それにしても遅いね、里見さんのサンドイッチ」
「うん、忘れられちゃってるのかな。そういえば、映画の話に夢中で訊いてなかったけど、そのカツサンド、やっぱり美味しい?」
「うん。カツもすごくジューシーだし、トーストも美味しいよ。サクサクしてるのになかはもちもちしてて。テレビで紹介されるだけのことはあると思う」
「そっかあ。わたしも早く食べたいな」
 映画の後、どこで昼食をとろうかと街を二人でぶらついていると、里見さんが、以前テレビ番組で紹介されていて、ずっと行ってみたかったという、サンドイッチが美味しいと評判のカフェがあるということを思い出し、行くことになった。駅から少し離れ、店も疎らになった通りから狭い路地に入った場所にひっそりと佇むその店は、外観もさることながら、抑え目の暖色系の照明に、丸太を敷き詰めて造られた壁、窓も入り口の横にある丸い小さなものが一つで、まるで小さな山小屋をそのままカフェに改装したかのような造りで、周辺の建物と比べて一際目立っていた。カウンターの向こうでは、黒縁眼鏡を掛けた五十歳ほどの痩せたおじさんが、やかんに入った沸騰するお湯をなにやらガラス製の丸い容器へと注いでいる。もう一人の、同じく五十歳ほどのどこか気の強そうな、少し太めのおばさんは、客からの注文を聞くと、伝票へと書き込んでいた。恐らく夫婦二人で切り盛りしているのだろう。昼の二時を過ぎていたが、人気店であることもあって、席は数席空いているほどで、店内は混んでいた。二人で頼んだアイスティーと、僕の頼んだカツサンドはすでに運ばれてきたのだけど、里見さんの頼んだ玉子サンドがなかなか運ばれてこない。
「ちょっと聞いてみるよ」
 里見さんにそう言って、カウンターのなかへと入っていったおばさんに声を掛けようとしたところで、おばさんが玉子サンドを持ってこちらへと向かってくる。「すいません。お待たせしました」おばさんは申し訳なさそうにそう言って玉子サンドを里見さんの前へと置くと、さっさとカウンターのなかへと戻っていった。
 里見さんがサンドイッチの角を小さくかじる。この品のある食べ方から、彼女の育ちの良さが見てとれる。
「ほんと。美味しい」
 丁寧に咀嚼したサンドイッチを飲み下すと、里見さんが満面の笑みを浮かばせて言う。品のある食べ方からの、無邪気な笑顔というギャップが本当に可愛いかった。里見さんといると、普段の鬱々とした気持ちを時折忘れていることに気付く。
「このあとはどうしよっか。森くんはどこか行きたいところとかある?」
「昨日メールで、パルコで買いたいものがあるって言ってたよね。行こうよ」
「そうだったんだけど、やっぱりいいかなって」
「どうして」
 そう聞くと、里見さんは答える。
「うん、まあ、ちょっとね」
 里見さんは視線を僕の目から逸らすと、テーブルの上の自分のアイスティーへと向けた。
「僕は特に行きたいところはないし、行こうよ、パルコ」
「……うん、そうだね」

「そうだ。一緒にこれ買わない?」
 里見さんのてのひらの上には、赤と白のストライプが鮮やかなミサンガが二本、置かれていた。
「ペアってこと?」
「嫌だった?」
「いや、そういうことじゃないよ。それなら、買ってくるよ」
 里見さんのてのひらから、ミサンガを二本つまみ取ると、僕はレジへと向かった。

「本当に良かったの? 買ってもらっちゃって」    
 店を出ると、里見さんが聞く。
「うん。一本二百円だったしね」
「ありがと」
「欲しかったの? ミサンガ」
「うん。最近までずっと付けていたのを失くしちゃって」
 そう言うと、彼女は持っていたミサンガを左手首へと通す。
「森くんもつけようよ」
 こういう類のものを付け慣れていない僕は、無意識にジーンズの右ポケットへと突っ込んでいたミサンガを取り出すと、里見さんと同じように左手首へと通した。里見さんとペアのミサンガをつけているという事実に、改めて今の自分の状況を振り返ってしまう。気にはなっていたものの、とても僕の手の届く存在ではないと思っていた彼女が、突然家に来て、そのあと一緒に食事をした。その一週間後に家に来たかと思うと、彼氏から暴力を受けているという相談を持ち掛けられた。そして今、こうして二人で千葉の街を歩いてペアのミサンガをつけたりしている。最近の彼女を見ていると、まさか僕に気があるのではないかと、淡い期待を抱いてしまう。人生何が起こるかわからないとはいうけど、僕の 場合、いろいろな意味で、本当にその通りだと思った。
「次は一緒にプリクラ撮ろうよ」
「でも前に撮ったばっかりじゃない?」 「でも、あの時は耕太も一緒だったでしょ? 今度は森くんと二人で撮りたいから」   
 
 体はまるで気をつけをしているように硬いが、以前より幾分リラックスしている僕の笑顔と、女の子らしく少し上目遣いで、口元にピースサインを添えて微笑む里見さんが写るシールを、ジーンズのポケットへとしまう。
「もう、こんな時間かあ」
 里見さんがゲームセンターの柱に掛けられた時計を見て言った。時計の針は夕方の四時を回ろうとしているところだった。
「そろそろ帰ろうか」
「うん、そうだね」
「里見さんはまだ他に行きたいところとかあった?」
「ううん、大丈夫」

 日は既に落ち、外の景色は暗かった。外灯に照らされ微かに浮かび上がる田畑が目の前をゆっくりと通り過ぎていく。すぐ次の駅で降りるのであろう向かいの座席に座っていたスーツ姿のおじさんが立ち上がり、ドアの前のつり革に摑まると、ドアが開くのを待っている。僕たちが電車に乗ったときは、車内は満員状態でとても座れるような状況ではなかったが、一つ、また一つと駅に停車するに連れ、乗客はみるみる減っていき、僕たちの降りる駅まであと半分といったところで席に座ることが出来た。それでも、まだ座席の半分ほどは乗客で埋まっている。
「今日は本当に楽しかった。このミサンガ、ありがとうね、森くん」
 里見さんがミサンガを僕に見せるように手首を上げると、言った。
「うん。僕も楽しかった」
「こんなに楽しかったデートは久しぶりだな」
 あの日に誘いを受けた時、なんだかデートみたいだなと思った。今日、里見さんと二人で街を歩いている時にも、過ぎ行く人は僕たちのことをカップルだと思っているのかな、デートをしていると思われているのかな、とも思っていた。しかし、僕のなかでは、付き合っているわけでもないし、ただ一緒に遊んでいるだけだと自分に言い聞かせていた。里見さんもきっとそう思っているのだと思っていた。このとき僕は、里見さんはぼくのことをどう思っているのだろうかと強く感じたが、結局問い質すことは出来なかった。
「森くんはさ」
 里見さんが急に神妙そうな口調で言う。
「やっぱり、まだ学校に来る気にはならないの」
「まだ、ならないかな。僕も行けるものなら行きたいんだけど」
「……そっか」
 少しの間を空けると、里見さんが続けた。
「わたしはね、わたしは、森くんに学校に来てもらいたいって思ってる。もちろん無理してまで来て欲しくはないよ。ただ、わたしは来てもらいたいって、それは伝えたくて」  
 車内に停車駅を知らせるアナウンスが響くと、電車が途中駅へと停車する。自動ドアが開き、澄んだ匂いのする夜風が車内へと滑り込んで来る。すると、それと入れ違いになるように先の駅よりも多くの乗客がホームへと降りていく。窓の外の、外壁にコーラ会社の看板でも掲げれば駄菓子屋にも見えるような古びた無人駅舎の前のベンチには、制服姿の女子高生が二人、互いの携帯電話を見せ合っては笑いあっているのが見えた。
「ありがとう。そんなふうに言ってもらえるのは嬉しいよ」
 自動ドアが閉まると、車内の乗客は僕たちを含めて数人であることに気付く。先程までの喧噪は静まり、車輪の軋む音だけが僕たちの間に流れる沈黙のなかで響く。ふと前の窓を見ると、半分鏡のようになった窓に、少しうつむいた里見さんの顔が、流れる街灯の明かりに混じり、映っていた。
 里見さんの膝の上のバッグから、携帯電話に着信があったのか、モーターが唸る音が漏れた。里見さんはバッグから携帯電話を取り出し、開くと、まだ着信が続いているというのに、少し強めに畳むようにして閉じると、バッグの口へと放り込んだ。その後も、まるでいつまでも餌を与えられない飼い猫のように、数分置きにモーター音は鳴り続けた。しかし、里見さんがその誰とも知れぬ人からの着信に応じる事はなかった。

 駅の構内は数人の男子高校生が残るだけで、閑散としていた。平日のこの時間帯なら下校途中の中学生や高校生、仕事帰りの大人達がまだいるのだけれど、日曜日ともなると、過疎化が進む地方都市なだけあって、駅前でさえ歩く人は疎らだ。改札を抜けて外に出ると、気心の知れた風が僕の髪を優しく撫でた。   
 僕は昔から旅行や遠出をすることはあまり好きではない。いつもと違う環境にいると、どうも落ち着かない。目的地に着くまでもなく、道中で既に早く帰りたいな、なんて考えてしまうほどだ。今日は里見さんと一緒だからか、そんなことは思わなかったが、やはり地元に帰ると、街の空気が僕を迎え入れてくれているような、不思議な安心感を覚える。
「今日は一日、本当に楽しかった。森くんに買ってもらったこのミサンガ、大切にするね。それじゃあ、また今度、メールする」
 里見さんのその言葉を最後に、僕たちは別れた。駅から出てすぐの歩道橋へと歩いていく里見さんの後ろ姿を見送ると、ふいに不安が沸き上がってくるような感覚を心の奥で感じた。少しの息苦しさを感じた僕は、その不穏なものを振りほどくように、家路を急いだ。

 底の見えない夜のなか、僕はベッドの上でひとり、彼女を想っていた。お湯を注いだばかりの湯たんぽのように熱くなった棒を、さらに熱しようとばかりに一心不乱にしごく。頭のなか一杯に彼女の顔が浮かぶ。強く浮かべば浮かぶほど僕の快感はその激しさを増していく。その快感が極点にまで達すると、僕は心の中で彼女の名前を叫んだ。彼女のことを想えば想うほど、快感は極点を超えるほどに強まっていった。
 みるみるうちに萎えていくその棒や生え揃わない陰毛にまとわりつく乳白色の粘液をティッシュペーパーで丹念に拭き取り、平静さを取り戻したとき、僕の心はからっぽだった。いっそこの状態のまま生きていくことが出来たら良いのにと思った。そう思えるほど、普段の僕よりはずっと楽な心持ちだった。以前の僕なら、このような行為をした後、決まって後悔の念に駆られていたというのに。普段の僕はからっぽにも劣る心情なのか。そう思うと、僕は一体なんなのだろうかと思った。無心にさえ劣る心を持って、そんな僕の存在に、一体何の意味があるのだろうか。
 カーテンの色が次第に明るくなっていく。微かに聞こえる鳥のさえずりが、僕の耳をつんざくようだった。いつもならもう眠くなる時間 だというのに、何故か今は眠る気にはならない。少しばかり喉の渇きを感じた僕は、一階のキッチンへと向かう。階段を下りると、廊下に面する和室で寝ている両親を起こさないように、つま先をたて、忍び足で電球が一つ点くだけの薄暗い廊下を歩いた。
 流し台の上の、小さな蛍光灯の明かりだけを点けると、冷蔵庫の扉を開ける。だいぶ量が減り、コップ二杯分ほどの量が残ったペットボトルの緑茶を、口を付けそのまま一気に飲み干すと、ゴミ箱へ投げ入れた。蛍光灯の明かりを消し、キッチンを後にすると、やはり忍び足で廊下を歩き、二階へと続く階段へと向かう。あと二、三歩で階段に辿り着くというとき、丁度真横の、左側のふすまがゆっくりと開いた。
「俊介。起きてたのか」
 水色のシルク地のようにてかてかとしたパジャマを着た父親が、驚いた顔をして立っていた。僕は、そんなはずもないのに、聞こえてないようなふりをして、そのまま黙って階段を上がった。学校に行かなくなってから、父親とはまともに会話をしていない。僕の方から意識的に父を避けるようにしている。さっきのように、話し掛けられても無視をしてしまう。そんな僕を父がどう思っているのかはわからないが、今の僕は、どうしても父親とは話す気にはなれない。母親とは何事もなく話すことができるのに、どうして父とは話す気になれないのかは、僕にもわからなかった。

「この漫画の次の刊、ないのか」
 耕太がたった今読み終えた漫画本を僕に見せるように掲げると、聞いた。
「それが最新刊だからね。次の刊はまだ出てないよ」
「そっかあ。続きが気になる終わり方だったのになあ」
 耕太は残念そうな顔をしてそう言うと、漫画本を本棚の元にあった場所へと戻した。
「いつ頃に出るの?次のは」
「どうだろ。たぶん、年明けくらいになるんじゃないかな」
「そんなに先かあ。それなら他にどれかおすすめない?」
「これなんか、中々おもしろいよ」
 僕は読み返していた漫画本の表紙を耕太に見せると言った。
「お、じゃあそれ読ませてよ」
 僕はうん、と頷くと、漫画本を手渡す。
 耕太は渡されたそれを片手にベッドと腰掛けると、ふいに言った。
「お前、最近有希と二人で会ってるのか」
 僕は何故だか、知られてはいけないことを知られてしまったような、一瞬妙な情感に駆られたが、そんな思いを持つ必要がないことに気付くと、答える。
「うん、会ってるよ。と言っても一、二回だけど。どうして」
「先週の日曜日にお前と有希が二人で駅前に居るのを見たって奴がいてさ。なに、もしかしてお前ら付き合ってんの」
 耕太がにやつきながら言う。
「いや、そんなんじゃないよ」
「ふうん。でも、お前らがそういう関係になったら、俺としては嬉しいんだけどなあ」
「え、なんで」
「なんかお前にとって、良いことなような気がするんだよな」
 その時の僕にはその言葉の意味がわからず、適当に軽く相槌を打つと、何気なしに床に落ちたリモコンを拾い、テレビの電源を入れた。
「それにしても遅いな、有希」
 耕太が部屋に掛けられた時計を見ると言った。時計の針が指す時刻は夜の七時を十分ほど過ぎたところだった。
「本当に今日来るって言ってたの?」
「ああ、あっちから今日、森くんち行こうって言ってきたくらいだしな。お前の携帯に連絡来てないか?」
 僕は漫画雑誌を手で払いのけ、埋もれた携帯電話を拾い上げて蓋を開く、すると、待ち受け画面には着信があったことを知らせるアイコンが表示されていた。その発信者は里見さんで、着信時刻は六時四十分だった。里見さんと千葉へ行ったときにマナーモードに設定して、そのままにしていたせいで気付かなかった。僕はすぐに里見さんの携帯に電話を掛け直したが、何度掛けても十数秒程で留守番電話に切り替わってしまう。
「出ないのか?」
 うん、と頷く。
「部活が長引いてるにしても、遅すぎるしな。有希と同じ陸上部の奴に電話して聞いてみるか」
 そう言うと耕太は鞄から携帯電話を取り出し、電話を掛ける。
「どうだった」
「部活はいつも通りの時間に終わってるし、その後のことはわからないって」
「なにかの事件に巻き込まれてたりしないかな」
「おおげさに考え過ぎだろ。何か急な用事でも出来ただけだと思うぜ。あいつ、いつもなにかと忙しそうだからな」
 でも、僕がそう言い掛けた時、僕の手のなかの携帯電話が鳴った。蓋を開くと、液晶画面には「里見さん」の文字があった。僕は全身の力が抜けるような安堵感を覚えると、通話ボタンを押す。
「森くん。ごめんね、今日行けなくなっちゃって」
「それはいいけど、なにかあったの」
「うん。文化祭の実行委員の仕事があったことをすっかり忘れてて。たった今終わったところ」
 里見さんがそう答えると、僕の口からはまだ考えが追い付いていないというのに言葉がついて出た。「あのさ」
「ん、なに」
「今日、夕食の後にでも会えないかな」
「……うん、いいよ」
「じゃあ、また後でメールするね」
 そうして電話を切ると、耕太がひやかす。
「なんだよ、デートのお誘いか」

 メールが届いた事を知らせる着信音が鳴り、そのメールの内容を確認すると、僕は玄関を開けて外に出た。門の前には制服姿の里見さんが立っていて、暗い中に光る、携帯電話の液晶画面を、左右に振るようにして僕に手を振った。
「それで、行きたいところっていうのはどこなの」
「行けばわかるよ、行こっ」
 里見さんはそう答えて携帯電話を制服の上着のポケットへしまうと歩き出した。

 職員室の明かりはすでに消えていて、どうやらもう学校には誰も残っていない様子だった。里見さんが花壇を乗り越え校内へと入ると、僕を差し招く。すると僕も花壇を飛び越えて、半年ぶりに校内へと入った。体育館を左に周り、グラウンドと校舎が見渡せる位置にある、体育館の出入口へと続く、五段ほどの階段に二人で座った。
「行きたいところって、学校だったんだ」
 隣に座る里見さんに言う。
「嫌だった?」
「ううん、そんなことないよ」
「実は今日、森くんに伝えたいことがあって」
 里見さんが少しうつむくと言った。
「伝えたいこと?」
「うん」
「なに?」
「……正直、最初に耕太から森くんの家に行こうって誘われたとき、森くんのことはほとんど知らなかったの。あの日、森くんの家に行って、初めて顔と名前が一致したくらいで。でもね、初めて話したとき、なんていうのかな、あのときも言ったと思うけど、なんだか話しやすいなって思ったの。なんでも、嫌がらずに聞いてくれそうな人だなあって。直感なんだけどね。だからきっと彼のことも、森くんに相談したの。そしたら森くん、わたしを海に誘ってくれたでしょう? なんていうんだろ、あのときくらいからかな。森くんのこと、ちょっと良いなって思うようになって」
 里見さんが少しの間黙ると、言った。
「よかったら、私と付き合ってくれないかな」
 見慣れない、真っ暗なグラウンドと校舎、そんな景色を見ていると、今が夢の中の世界であるような、現実ではない空間に居るような錯覚に陥ってしまう。しかし、顔に優しく吹き付ける夜風、なにより隣に座る里見さんのぬくもりが、今が現実であることを僕に気付かせる。
「でも、良いの? 僕なんかで。きっとまだ、学校にだって行けないと思うし」
「学校は、来れるようになったら来たらいいと思う。 ……わたしは、待ってるから。でも、無理はしないでね」
 そう言うと里見さんは、少しの間を置き、じっと僕をみつめて続けた。
「返事、聞かせてもらっていいかな」

 あの夜からふた月ほど経った日の朝、僕は目覚めた。時計の指す時刻を確認すると、ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。その向こうの、どこまでも澄んでいる空の青に誘われるようにして、僕は窓を開けた。その空の青は、僕の胸の奥を締め付けるものと同時に、少しの優しさも持っているような気がした。近くの通りを車が走る音と、すぐ前の電線にとまる小鳥が鳴く声が聞こえる。顔に伝わるひんやりとしたつめたい空気が、僕に季節のうつろいを感じさせた。


コメント

マヒロ
No.1 (2014/12/07 21:32)
面白い!!!!面白いッスよ!!しっかり想像が出来るし、何より話に入り込めて読んでて疲れない!!
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