「社会的少数派」の意。「社会的弱者」として言い換えられることもある。
当連載では、自身もマイノリティの立場であるライター・おつねが、マイノリティを描く映画を通して、見解を語っていきます。
『アイ・アム・サム』
2001年公開。マドンナの元彼であるショーン・ペンがアカデミー賞にノミネートされ話題となった。知的障害のため、7歳児程度の知能しかないサムは、ホームレスの女性との間に子どもを授かるが、女性は子どもとサムをおいて姿をくらます。サムは理解ある人々に囲まれながらしあわせに暮らすものの、あるとき愛娘・ルーシーを育てる資格がないと判断され、教育権を奪われてしまう。ルーシーと再び一緒に暮らすため、サムは立ち上がることを決意した。
思わず心のなかで小さく悲鳴をあげた初めて観たのは、私自身がゲイであるということを自認し始めていた時期。
いまほどセクシャルマイノリティの人々が日の目を浴びていなかった。
「これからの私の人生は、主人公のサムのように、まわりから偏見に満ちた眼差しを向けられる辛いものなのかもしれない...」という不安を抱えながら、どこか主人公に自分の姿を投影しながら見ていた。
でも、大学生になった私は、幸いにもまわりに人たちに恵まれた。「自分はこういう人間でいいじゃん!」と明るく自分自身という人間と向き合いながら生きていけるようになったんだ。
そんなときに改めて『アイ・アム・サム』を見かえすと、次はマイノリティの主人公だけでなく、それを支える人たちの苦悩や葛藤というところにも目がいくようになっていた。
「いままでは自分のことしか考えていなかった」ということを痛感させられて、思わず心のなかで「うわ!」って小さく悲鳴をあげたことを、いまでも覚えている。
天才でなくていい。ただいい人であるだけで十分さまざまなマイノリティを描く作品は、いまでこそたくさん作られているけれど、『アイ・アム・サム』が作られた2001年当時は、それほど多くはなかった。
そして、ほとんどの映画の場合、マイノリティを持つ人たちはマジョリティ側の人たちを凌駕する才能を持っていて、その才能によってまわりに認められていく、といった描かれかたをしている。
でも、本作の主人公であるサムには、その「特別な才能」がない。
よく障がい者やマイノリティの人たちを語られるときに使われる言葉がある。「彼らはハンデはあるけど、その代わりこんなにすごい才能もあります!」って。
たしかに障がいを持つ人たちのなかには記憶力や芸術的センスに優れている人もいる。
とはいえ、そういう人たちはほんの一握りで、多くの場合がマジョリティの人と同じく、「普通」であることが多い。
その「普通」がプレッシャーになる人もきっと少なくはないはず。
監督であるジェシー・ネルソン氏はこう語っている。
「私たちは特別な人が描きたかったわけではない。サムは障がい者だけどスターバックスコーヒーで働きながら一生懸命に人を愛した。愛することで人々を変えた。純粋な人間であることが彼の強みであり、天才でなくていい。ただいい人であるだけで十分なんだ」と。
マイノリティとかマジョリティという立場は関係なくて、たとえ「普通」であっても「愛」さえあれば困難を乗り越えられる。
そんなシンプルでもっとも強いこのメッセージがこの映画の暖かさの根源である。そんな気がしている。
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