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徒然って便利な言葉だよね

格闘ゲームについてあれこれ

2018/11/18 08:02 投稿

コメント:11

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  • 格ゲー
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  • 四方山話

格闘ゲームは難しい?下手糞が考えてみた

こちらの記事で、色々思った事があったので備忘録代わりにあれこれと。
尚、以下はあんまりはっきりしたソースの無い自分の所感がメインの割には断定口調で書いてたりする所もあるので、そんなわけねー!と思った方もやんわりとご指摘いただければ幸いです。泣いちゃうからね?
自分は自分が知らない事を他人から教えてもらえる事は、ありがたい事だと考えます。


結局格闘ゲームって何が楽しいの?

最近ちょこちょこあちこちで話題になってる、「格闘ゲームの衰退とその原因」についてだが、問題の本質的な事をずばりと言うならこれだろう。
「格ゲーって何が楽しいの?」
この問いに対する答えがそれぞれの個人の価値観によって違っていて、それぞれが譲る事が無いが為に論議になっている、というのが実際の所だと思う。

自分は学生時代にあれやこれやとやっていた程度の、現状ではほとんど触ってない見る専なので、今の時代の格闘ゲームにはほとんどついていけてない。というか、昔やった奴をSteamで買ってやっても、ほとんど昔のようには動かせない。歳か。歳なのか。

閑話休題。

で、自分が格ゲーを楽しんでいた時というのは、友達との対戦がメインで勝ったり負けたりしながらわいのわいのやってるのが楽しかった。家庭用では友人宅でやっていたギルティギア無印やセーラームーンの格ゲー(懐いなおい)スーファミのサムスピ、餓狼SPECIAL、たまにNEOGEOCDの真サムやKOF96……アケではKOFの98~99辺りを主に、友人たちと楽しんでやっていた。時代がごちゃまぜなのは勘弁してほしい。格ゲーか否かは賛否があるだろうが、スマブラは64からwii辺りまでは家族皆で遊んでいた覚えもある。
この自分自身の経験だけでなく、この手の話題について書かれたコメ欄を見ても、格ゲーが「わいわい皆で集まって遊ぶパーティーゲーム」としての需要を満たしていた時代は確かにあったと言える。どっちが勝つかは確かにある程度のファクターを占めてはいたが、それが全てではなく、とにかく皆でああでもないこうでもないと色々言い合いしながら遊ぶのが楽しかった、そんな経験を持ってる人は少なからずいるだろう。
では現状はどうだろうか?

色々な意見を見ても、そういったパーティーゲーム的な需要を満たせているとは到底言い難い状況にあるように見受けられる。むしろ「格ゲーがパーティーゲーム? 何寝言言ってんのwww」というような意見のが現状の格ゲープレイヤーでは多数派だろう。
まあ実際、格ゲーはパーティーゲームとして皆でわいわい楽しむのには向いていない。散々言われているが、勝敗が技量や知識量で付くから、恒常的な勝者と敗者が割合はっきり区別される。家庭用でならハンデをつける事である程度その区別を曖昧にする事もできるが、アケではそうはいかない。パーティーには程遠い無残な連敗を経験する事になる事もままある。ましてや、相手が見ず知らずの他人となればプロレス的な風車の理論なぞ適用されるわけもなく、ただただ無力感に苛まされるだけになる、というのは想像に難くないし、実際に経験した人も多いだろう。

今の格ゲーの楽しさは「勝つ事が楽しい」「これまで出来なかった事ができるようになる事が楽しい」と言った、パーティー的な楽しさとは程遠い、競技的、スポーツ的な楽しさに集約されていると言える。大元の格ゲーの性質を考えれば、それはむしろ自然な事だと言えるだろう。だからこそeスポーツの種目に選ばれることにもなっているわけだ。
そんな格ゲーが、なぜその黎明期から発展期にかけてはパーティーゲームとしての需要を満たす事ができていたのか。それも、家庭用のみならず、アケにおいてすら、である。
それは、流行っていたからである。もう一つ理由は考えられるが後述する。


流行り、それは時としてそれ自体が持つ力よりも遥かに大きな力を発揮させる。
流行っているから皆やり、皆やっているからさらに流行り、格ゲーブームの際のプレイ人口は相当な物だった事が伺えるが、その相当な人数というのはパーティー的な楽しさを担保する十分な武器になる。なぜなら、プレイ人口が多いという事は、それだけ住み分けを行う事も可能になるからだ。
そして格ゲー隆盛期は、ゲーセンの数自体も多かった。うちのような田舎では、スーパーの屋上スペースやら端っこの方のゲームコーナーやらがせいぜいだったが、都会になれば「ゲーセンの選択肢」という物が存在し得た。あそこのゲーセンは強者が集まるから、デパート屋上のゲームコーナーでのんびり対戦しようぜ!といった選択肢があった時代は確かにあったと言える。
そういった選択肢の多さは、意識的、無意識的にせよ、住み分けを行わせていたと考えられる。集まる集団のレベル差によって場を変えるという事が可能だったからこそ、格ゲーブームは1~2年で終わらず、それなりに長く続いたのだと私は考える。
ソシャゲをやるようになってから強く感じた事だが、到達レベルによる住み分けが行われているゲーム程長く続く傾向があるように思う。同じことが対戦ゲームでも言えるのではないだろうか。そして、その住み分けの中にはパーティーゲーム的にわいわい楽しむ層――ライト層も存在しえた。

だが残念ながら、格闘ゲームの隆盛期はだいぶ昔に終焉を迎えた。それとほぼ時を同じくしてゲーセンの稼働店舗数は減少の一途を辿る。そうなると、パーティーゲーム的な楽しみ方をしていたライト層は一気にその居場所を失う事になる。家庭用ゲームの多様化も進み、ライト層が楽しむ題材に流行りが終わってやる人が少なくなり始めた格闘ゲームを選ぶ理由も少なくなりライト層の格ゲー離れは一気に進んだ

結果訪れたのが、格ゲー暗黒期とも言える二千年代初頭の状況である。格ゲーは、かつてのSTGが辿った道をそのまま同じように歩み、衰退したと言われるようになった。当然である。ライト層が興味を示さなくなり、先鋭化していくばかりではかつての隆盛≒プレイ人口など願うべくもない。それを「相対的な衰退」であると表現するのを否定する事は誰にもできないだろう。そして人は衰退を感じればそれから離れていく。

それをなんとかして踏みとどまらせたのは「格ゲーを観る楽しみ」であったと自分は考えている。

やる楽しさから観る楽しさ――さらに競う楽しさへ


実際、パーティーゲームとして楽しんでた少年時代の頃から、他人がやっているのを観るだけでも結構格ゲーは楽しいと思えた部分はあった。というか、金が無い時はむしろ友達が対戦、ないしはCPU戦してるのを観るのがメインで、それが結構楽しかった。
そしてそう思う人はやはり多かったようで、格ゲーは観せる事を目的とした大会が度々開かれていた。隆盛期は無論、暗黒期に入ってからも尚。日本ではなく海外でも盛んに大会が開かれ、そのプレイ風景を動画などで観ていた人は多いのではないだろうか。
そして、流行りの力を借りていたとはいえパーティーゲームとしての需要を満たせていたということは、それはつまり「観ていてある程度面白い」という事でもある。

そういった流れの中で、ウメハラに代表されるような職業格ゲープレイヤーを生み出すまでに格ゲーのプレイを見せる事が商品になると、それこそ世界的に認知されるに至った結果、格ゲーは再度の流行の兆しを見せていると言える。
格ゲーをやれば世界的に有名になれるかもしれないという可能性の創出、eスポーツとしての認知の上昇、それらの結果「競技として」格ゲーをプレイする人間の数は増加傾向にあるだろう。全体のプレイ人口も、暗黒期と比較して増えているといっていいだろう。
そして、ネット環境の安定によるネット対戦の充実もこれを後押ししたと言える。「競技として」やる分には、ネットさえあればプレイ環境を問わずに、世界中の、しかも同程度の実力の持ち主と戦う事が可能になったのだから。海外勢の気楽な参入も、全体的なプレイ人口の増加に追い風になっていると思う。
「競技として」プレイするという事は、ある程度のレベルへの到達を目標とする事になる。隆盛期は、凄いプレイヤーとして尊敬される事をモチベーションにして一部のプレイヤーはこういった競技的なプレイをしていたわけだが、暗黒期に入って格ゲーがあまり顧みられなくなると、そういったモチベーションは激減した。だが、最近の「競技として」の格ゲーの認知度上昇などは、こういった競技的なプレイのモチベーションとなるに十分だったと言える。
結果として、格ゲーは再度の流行の兆しを見せる事になった。

だが、それでも格ゲーは「衰退した」と言われ続ける。これはなぜだろうか?
世間的な認知度は上がり、対戦環境も以前と比較にならないほどに整ったのに、なぜ格ゲーは「衰退した」と言われるのか?
それは、あくまで昨今の格ゲーの流行りが「競技として」の流行りだからだ。
否、流行ってるというレベルにまでまだたどり着けてない、その一歩目を踏み出した状態と言った方がいいかもしれない。まだ地上波で大会が中継されるレベルにすら至っていないものを、流行っているとは言えないだろう。
その状態を、二十年程度前の格ゲーが流行っていた状況を知る人間が見れば「衰退している」という言葉が出るのもこれはやむをえないと言える。これは何にでも言える事だが、最盛期を知っている人間は、それと比較して隆盛と衰退を評価する物なのだから。
ましてやそれがあくまで「競技としての」流行りの兆しであれば、ライト層まで巻き込んだ大きなうねりを知っている人間からすれば、衰退してた頃と何も変わってねえじゃねえか、となるのは当たり前の話なのである。これはそう願ってるだけとか、格ゲーについていけない弱者の僻みだとか、そういった話ではない。「かつてを知る者と知らざる者(あるいはかつてを知るが故に今を受け入れざる者)」との見解の相違でしかないのだ。
間違いなく存在していたライト層すら楽しめていた時代を知っているからこそ、ライト層が入り込む余地が無い程競技化されつつある格ゲーを「衰退している」と評するわけだ。かつて自分自身がライト層であった人間程、その傾向は強いだろう。

そこからさらに観せる楽しさへ

では、格ゲー衰退論に対してはどう対処すればいいのか?
言われるがままに任せて、徒に反論などはせずに放置すればいいのか?
そんな事言ってる奴は老害だと攻撃的に排除すればいいのか?
格ゲーに適応できなかった弱者だと切って捨てればいのか?

今回この一連の文章を書くきっかけになったとある人のように、攻撃的な言動でもって他人の価値観や見解の相違を端から攻撃しまくってしまうような行動は論外であるのは言うまでもない。だからと言ってただただ黙ってやりすごしてばかりでは現状は変わらないだろう。世間にはイメージという物がある。それを覆していく努力をしない事には剥がすのにとても長い長い時間が必要になるのがイメージという物である。そして、格ゲーには「衰退している」というイメージが少なくとも日本国内ではかなりべったりと張り付いている。
これをウメハラなりが剥がしてくれるのを待つだけで良いのだろうか?

やるべき事は、「格ゲーは観てて楽しい」とアピールする事である、と自分は考える。
というか、eスポーツ化を念頭に置いているのならば、これは絶対に必要不可欠な要素のはずなのだが、思いの外こういった事を口にする格闘ゲーム愛好家と思しき人間は少ないように思う。

なんでもそうだ。観ていて楽しい物は実際に自分もやってみようと思う。自分でやってみようと思う人間が多い程、その競技の競技人口は増える。競技人口が増えれば商業的にも成功できるし、そのジャンル自体の安定にも繋がる。スポーツ競技として盛り上がっているジャンルは概ねこの循環を作る事に成功していると言えるだろう。
ライト層をバカにしている人には理解できないかもしれないが、ジャンルの隆盛とはこのとりあえずやってみようかと思う層=ライト層をいかにして作るかという点に尽きる。ライト層が存在しない流行なぞありえない。

やってみた結果のフォローが足りないという意見もあるが、それは上述した通り、競技人口自体がある程度増えてきたら住み分けによって解決が可能な問題である。もちろん、増えるまでの間にある程度のフォローは必要になるだろうし、それが足りない(あるいは足りていないという思い込みを覆せていない)現状については改善の余地があるだろうが。
だが、そうやって競技人口を増やし、隆盛期の住み分けのような状況が半ば意図的に作れるようになったら、今度こそ格ゲーは安定して評価を得られるようになるのではないかと思う。
草野球や草サッカーのように、草格ゲーでわいわい楽しくプレイする人間が、かつてのようにあらわれもするだろうし、そういった人間にとやかくいう人間もいなくなるだろう。

あとは、端緒としての楽しさのアピールについても考える必要はあるかもしれない
今自分がすごく楽しんでいる格ゲープレイ動画では、攻撃の諸々や選択肢の選択理由、その他諸々を解説しながら(時折ネタをはさみつつ)見せてくれてそのゲームに疎い自分でも非常に楽しく見れる。もちろん、格ゲープレイヤー全員が全員動画作れよとは言わないが、それもまた一つのアピールの手段であるということだ。
慣れてくれば、そういった補助無しに楽しめるようにもなっていくだろうが、このへんは他のスポーツ観戦と同じで入り口のハードルは低く設けた方がいい。一定の知識教授などはやはり必要だと言えるだろう。野球やサッカーのように意識せずとも学校の授業や草競技で見方を覚える競技とは異なり、「観戦人口」を増やす為の努力は必要になるはずだ。
そういった諸々に関して、eスポーツ化を考えている企業などは戦略を練っているのだろうか?と若干不安に思ったりは正直する。まあそんなん自分が知らないだけで、とうの昔に色々やってるよ!ってな話なのかもしれないが……。

こういった、「かつてを知る者に対する今のアピール」「今を知らない者への今のアピール」が必要不可欠であるのに不足しているのではないか、それこそが未だに格ゲー衰退論が跋扈する余地を与えているのではないかというのが自分の主たる考えである。
自分でやっていて楽しい。それだけで終わらず、他人に観てもらえて楽しい、そう思えるようになって初めて、格ゲーはeスポーツなどのプロフェッショナルな競技として成立するようになるのでないだろうか。
まあこの類の行動は、個人の力で一朝一夕にどうにかなる物ではないし、やはりeスポーツに火をつけようとする企業などが舵をとって行うべきなのだろうが(そしてすでに行われているのかもしれないが)、それでも個々人ができる限り声を挙げる事に意味がないわけではないのは言うまでもない。少なくとも、他者否定に終始するよりは余程有益だと言えるだろう。


とまあ、とりとめなく色々と書いてきたが、何にせよ、本当に格ゲーが好きで、格ゲーにeスポーツとして成功してほしくて、かつてのように、いやそれ以上の隆盛を迎えて欲しいと考えている格闘ゲーム好きな方々がには、今一度考えて欲しいと思う。

あなたが「格ゲーは衰退した」「格ゲーは詰まらん」と言ってはばからない人に向けるべき言葉、行動は、本当にそれでいいんですか?と。

やっぱ、なるたけ多くの人が楽しくワイワイやるにせよ観るにせよやれた方が、皆でハッピーになれるんじゃないかなと自分は思いますです。


以上終わり

コメント

myomyo (著者)
No.10 (2018/12/10 10:19)
2の記事は興味深い記事ですねぇ。
今読ませていただいてますが、だいたい私がこの記事で言ってたような事をプロフェッショナルにも追認していただけてるような感覚で、若干楽しいですねw

読み終わってから他の部分はお返事しますので、しばしお待ちを。
myomyo (著者)
No.11 (2018/12/10 11:08)
あー、やっぱりそうですねー。
問題は、この記事を根拠に「以前は簡単だった(今は複雑化・高難易度化した)というのは間違ってる」という主張をするのは間違ってはいないんですけども、「難しくない」と受け取られかねない形で主張をするのは間違っている、という事ですね。
そちらの記事内でも書かれていますが、格ゲーは実際問題難しいわけです。だからこそ、その難しさに真摯に立ち向かっている人からすれば、大して真面目にやってない奴が詰まらないだの衰退しただの言うのには腹が立つというのは実にわかります。でもだからと言って「複雑化したから衰退したというが、別に複雑化してねえぞふざけんな!」と言ってみた所で、それを言われた方にとってはそれは「格闘ゲームについていけてる人間からの言葉」でしかないわけですね。対立する側に対してちゃんと理解してもらおうと説く努力なしに理論だけ突きつけた所で、それが受け入れられ... 全文表示
myomyo (著者)
No.12 (2018/12/10 11:12)
今回の議論で「格闘ゲームは複雑化していない。格闘ゲームプレイヤーが複雑化しているだけなんだ」という事がきっちりと自分の中で認識できたのは収穫でした。お付き合いいただきありがとうございます。

無論続けるつもりがあるのでしたらお付き合いしますので、ご遠慮無くどうぞ。
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