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もがき苦しんだ“燃え尽き症候群”と伊達公子さんから学んだこと〜元マラソンランナー・市橋有里

2019/10/20 05:30 投稿

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SPORTSカテゴリーでは、「元アスリートの意識改革」をお届けします。常に結果を求めていたアスリートたち。彼女たちの意識が変わったターニングポイントは何だったのか? その意識は競技生活や、その後の人生にどう影響しているのでしょうか。引退したいまだからこそ語れるリアルな言葉とともに、現役時代を振り返っていただきます。

10回目を迎えた本連載でお話を伺うのは2000年のシドニーオリンピックで、高橋尚子さんとデッドヒートの見せ場を作った元マラソンランナーの市橋有里さん。本気で陸上をやめたいと思ったことが二度あったそうです。それを乗り越えるきっかけとなったこととは?

* * *

市橋有里の言葉

ただ楽しいという感情だけで走っていたけれど、改めて、ちゃんと打ち込んで1番を目指そうと思いました。

陸上に打ち込むきっかけとなった母の言葉

――市橋さんは1998年の東京国際女子マラソンで2位、1999年の世界陸上で女子マラソン2位、さらに2000年のシドニー五輪に出場して15位と、高橋尚子さんを中心とする女子マラソン群雄割拠の時代に活躍されました。

キャリアを振り返って、ターニングポイントと言える出来事もいくつかあったのではないかと思います。

市橋有里 :

私は中学生から陸上を始めたんですけれど、本気で「やめたい」と思ったことが二度ありました。
それぞれのタイミングでもらった言葉、出会った人、そういうものに救われて、陸上を続けることができました。だから、そのふたつの出来事が、私にとっては大きなターニングポイントだったと思います。

――市橋さんが陸上を始めたのは、中学生になってからですよね?

市橋有里 :

はい。1度目のターニングポイントは、陸上を始めたばかりの中学1年生の時です。
運動すること、走ることが好きなだけで入った陸上部だったんですけれど、始めたばかりの頃から、なぜか結果がついてきました。
3年生が引退して迎えた秋の新人戦は、800メートル走でいきなり徳島県1位。まだ子どもだったから、結果が出ると素直にうれしいですよね。だから、走ることがどんどん楽しくなっていったんです。
でも、ある日、朝の練習が終わって教室に戻ると黒板に悪口を書いた落書きがあって、クラスメイトからいじめられていることに気づきました。ショックでした。
私はもう陸上をやめたいと思って、普段から何でも話す母親に相談しました。そうしたら、「そんなことでメソメソしていたら、全国で1番どころか県で1番にもなれないよ」と言ってくれて……。
その言葉が、当時の私にとってはとても大きかったんです。ただ楽しいという感情だけで走っていたけれど、改めて、ちゃんと打ち込んで1番を目指そうと思いました。

――徳島県内では有数の中学生ランナーだったとお聞きしました。

市橋有里 :

いまになって振り返ると、いじめがあって、母親の言葉があって、逆に集中力が高まったのかもしれません。
中学生、高校生の頃は陸上から離れて遊びたいと思うこともなかったし、ますます陸上に集中できるようになった気がします。
不思議なもので、陸上の結果がついてくるようになると学業の成績も伸びていきました。だから、またいじめられないように、目立たないように注意しながら、陸上と勉強だけがんばろうと意識していました

――高校から、東京の学校を選んだのはなぜですか?

市橋有里 :

中学3年生の頃には「オリンピックに出場したい」という夢を持っていて、ずっとひとりで考えていました。その夢を叶えるためにはどうすればいいのかを。
ちょうどその時、両親が新聞の切り抜きをやってくれていたんですよ。その中に、日本陸連が1年前に長距離ランナーを育成するためのクラブチームを作ったという記事がありました。
それを見た私は、「ここに行く」と決めました。でも、2回も入部を断られてしまって。日本記録を持っていないし、全国で1番になったことがないからという理由でした。
そのクラブチームは日本陸連の直轄で、海外遠征もあるし、ほぼマンツーマンのような状態で選手を育成する方針でした。つまり、本物のエリートしか入部できなかった。当然ですよね。でも、私はあきらめませんでした。
3度目の電話で「お願いします」と伝えると、「わかりました。走りを見ましょう」と言ってもらえました。江戸川陸上競技場のトラックを、たった1人で走ったんですよ(笑)。そうしたら、「走りがいい」と言っていただけて、入部することが決まりました。

――ちなみに、中学3年にしてご自身で連絡のやり取りをされたんですか?

市橋有里 :

全部自分で。その時は「行きたいところに」という気持ちが強くて、怖いものなしだったんです(笑)。

伊達公子さんに教えてもらった「走る楽しさ」

――二度目の転機について教えてください。

市橋有里 :

2000年シドニー五輪の直後のことでした。当時のことを覚えていらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんけれど、あの時は、五輪出場メンバーの選考をめぐる問題が大きく取り上げられていました。
私は1999年の世界陸上で銀メダルを取ったことで出場権をいただけたのですが、同郷の先輩である弘山晴美さんをはじめ、私よりタイムのいい選手がいたこともあって、いろいろなことを言われました。
もちろん、その結果として弘山さんが出場できなかったこともつらかった。本番の結果もついてきませんでした。その悔しさもあったけれど、いわゆる“燃え尽き症候群”になってしまったんです。
「陸上をやめたい」という気持ちがどんどん大きくなってしまい、気持ちを切り替えるために海外でホームステイをしたり、車の運転免許を取ったり、いろいろなことにチャレンジしました。でも、何年経っても、気持ちは戻りませんでした。

――シドニー五輪後、2001年と2002年は1度ずつ、2003年と2004年は1度もレースに出場しませんでした。

市橋有里 :

自分でもどうしていいかわからなくて、「この先どうしよう」と考えていました。
そんな時に、ずっとスポンサードしていただいているアディダスさんとの縁で、ロンドンマラソンにチャレンジした伊達公子さんの練習パートナーを務めさせてもらうことになったんです。

――女子テニス界を牽引した伊達さんは、1996年に一度引退し、2008年に現役復帰しています。

市橋有里 :

つまり2004年は選手ではなかったのですが、メンタリティも、私生活も、間違いなく世界トップアスリートのそれでした。伊達さんがマラソンのトレーニングに取り組む姿勢を間近に見させてもらい、いろいろなことに気づきました。
決定的だったのは、ロンドンマラソン完走直後の伊達さんの行動です。だって、伊達さん、42.195キロを走った直後にガトーショコラにかぶりついたんですよ(笑)。いくらスイーツが好きでも、そんな人なかなかいないですよね。
でも、「ずっと我慢してきたから最初に食べたい。ロンドンで一番おいしいガトーショコラを買ってきて」とスタッフにお願いして。

――すごい話ですね(笑)。

市橋有里 :

私は、自分自身に対して「結構ストイックだな」と思うところがあったんです。でも、伊達さんのストイックさは私よりはるかに上だった。
伊達さんはずっと対人スポーツの勝負に挑んてきた人だけれど、マラソンでは、“自分の中のゴール”を設定して挑んできたんだなと感じました。
その様子を見て、私もタイムや順位にストイックになるのではなく、自分自身に対してストイックになるべきなんだと思いました。それで、一気に気が楽になりました。

――伊達さんがロンドンマラソンを走ったのは、2004年4月のことでした。

市橋有里 :

遅かったんです。伊達さんと出会うのが(笑)。
もちろん、その年のアテネ五輪には間に合わないですよね。“燃え尽き症候群”の時期がほとんど4年間もあったわけですから、やっぱり長かったです。もがきました。しんどい4年間でした。

――市橋さんは2005年8月に北海道マラソンを走り、2007年に第1回東京マラソンを走って、それを最後に引退しましたね。

市橋有里 :

伊達さんと出会ってから、走ることがシンプルに「楽しい」と思えるようになりました。だから、「この気持ちのままずっと走り続けたい」と思って、東京マラソンを最後に市民ランナーになることを決めました。

Qちゃんと、ずっと一緒に走りたかった

――市橋さんと言えば、1998年の東京国際女子マラソンを思い出す人も多いと思います。国立競技場での浅利純子さんとのデッドヒートは、どのような思い出として残っていますか?

市橋有里 :

もう、ホントに、すっごく悔しかったです(笑)。ラスト100メートルでスパートした時は「勝った」と思いました。まさか抜き返されるとは思っていなかった。
私、何回もあの練習をしていたんですよ。チームメイトに800メートルの日本記録保持者がいたので、その人といつも練習して、イメージも完璧にできあがっていました。だけど本番で負けてしまって……。あまりにも悔しくて、ゴールした後もずっと走っていました。

――ただ、あの大会を機に市橋さんの存在感がぐっと増して、翌1999年の世界陸上でも銀メダル、そしてシドニー五輪とものすごい勢いでした。

市橋有里 :

勢いはあったと思うんですけれど、私、メンタルが弱かったんです。そこにちゃんと気づいていれば、もう少し違うやり方もあったかなって。

――そうですか? どちらかと言えば「メンタルが強い選手」という印象でした。シドニー五輪でも、高橋尚子さんの最初のスパートについていったのは市橋さんとリディア・シモンさんだけでした。

市橋有里 :

実は、あのスパートの直前、日本人選手の間で水が入ったボトルの回し飲みがあったんですよ。
前年の世界陸上の女子マラソンにはQちゃん(高橋尚子さんの愛称)も出場する予定だったんです。でも、ケガによって出場を辞退することになってしまって、その時に、ものすごく目を腫らしたQちゃんが「みんな、がんばってきてね」と送り出してくれたことが強く印象に残っていて。
たぶん、ケガをしてしまったことが悔しくて、たくさん泣いたんだと思います。そのことがあったから、1年後のシドニー五輪でQちゃんからボトルをもらったことが、私にとってはすごくうれしいことでした。
「絶対にQちゃんについて行かなくちゃ!」と思いました。だから、あの18キロ地点のスパートでも勝手に足が動いたんです。
当時はよく「市橋もメダルを狙いに行った」と言われました。でも、メダルのことなんてまったく考えていなかった。ただ、Qちゃんとずっと一緒に走りたかった。その気持ちだけでした。
Qちゃんとリディア・シモンさんから離されてしまう25キロ過ぎの橋は、私がいちばん苦手とする上りでした。Qちゃんの背中が少しずつ遠のいていく感じが、なんだかすごく切なかった。
でも、あのシドニー五輪のことは、実はほとんど記憶がないんですよ。イヤな思いをしたこともあったし、結果が悪かったから……。もしかしたら、自分でも無意識のうちに忘れてしまおうとしていたのかもしれませんね。

走ることは“ビタミン”みたいなもの

――二度も本気で「やめたい」と思ったマラソン。その経験から、今の市橋さんに活きていることはありますか?

市橋有里 :

特に二度目の経験、シドニー五輪後の苦しかった時間については、「あれ以上に苦しいことはない」と思えることが、いまの私にとっては大きい気がします。そういう経験を乗り越えていきながら、自分の中のムダが削ぎ落とされて軸がはっきりと定まってきた。
もしかしたらほとんどの人にとってそうかもしれないけれど、競技生活って、決していい思い出ばかりじゃないですよね。だけど、マラソンをやっていたおかげでいろいろな人に出会えたし、その出会いがなかったらいまの私はいないですから
オリンピック? そりゃあ勝ちたかったですよ(笑)。でも、私には力が足りなかったんです。走力も、メンタルも。

――ランナーとしては、現在はどのような活動を行っているのですか?

市橋有里 :

アディダスのランニングアドバイザーとして活動しながら、かけっこ教室などを通じて子どもたちに走ったり体を動かすことの楽しさを伝えてます。
それから、お料理をすることが現役時代からずっと好きだったので、アスリートフードマイスターという資格を取得して食育活動も。

――では最後に。市橋さんにとって「走る」とは?

市橋有里 :

お料理の話と重ねるなら、私にとって走ることは“ビタミン”みたいなものです。なくても生きていけるけれど、あったほうが生活が潤う
自分自身の生活のリズムができるし、走ることを通じて人の輪もできる。いろいろな意味で、潤いを与えてくれるものですね。

市橋有里(いちはしあり)さん

1977年徳島県生まれ。世界陸上セビリア大会にて、女子マラソン銀メダリスト。中学卒業後の1993年に上京。「トップレベルの長距離ランナー育成」を目的に誕生した陸連直轄のランニングクラブで、本格的トレーニングを開始。1999年、世界選手権セビリア大会で銀メダルを獲得。世界大会のマラソン種目では、史上最年少のメダリストとなった。2000年シドニーオリンピックに出場。 東京マラソン2007で現役を引退後は、ランニングクリニックなど、一般ランナーとともに新たなランニングライフを楽しんでいる。また、アスリートフードマイスターの資格も持つなど、自他ともに認める料理好き。得意なレシピは、創作和食やカフェ飯風なものまで幅広い。現在カフェを経営する夢に向かってレシピBOOKを制作している。

元アスリートの転機

15歳で直面した内面から出る「美しさ」の追求と表現〜元新体操選手・畠山愛理

スランプを乗り越えて手に入れた「これ以上はない」と思える最高のキャリア〜元テニス選手・杉山 愛

文/細江克弥 撮影/佐山順丸

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