唯識仏教学の専門家、横山紘一先生に聞きました
観想十牛図 発案・横山紘一、作画・増野充洋十牛図は、心の成長の旅を十枚の絵物語で示したものです。中国の北宋時代に廓庵禅師によって考案され、室町時代に日本に伝わって非常に人気を集めました。今回は、この十牛図について、唯識の教えをもとに読み解いていただきました。
唯識思想は、すべての現象は心の中で起きている出来事だと考える大乗仏教の根本思想で、宗教・科学・哲学の3つの領域にまたがるものです。実は最近、マインドフルネスを欧米に伝えたティク・ナット・ハンの思想の根底に唯識があったということから、世界的に注目を集めつつあります。
もともと十牛図はひとつながりの十枚の絵なのですが、横山先生はひとつの大きな円の中に十枚の絵を配し、まるでマンダラのような独自の「観想十牛図」を考案しました。
では、十牛図の絵を一つずつ眺めながら、心の世界を旅してみましょう(それぞれの図の枠内の言葉は、『観想十牛図 [解説書]』(大法輪閣)から引用)。
第一図 尋牛(じんぎゅう)
ある日、牧人の飼っている一頭の牛が牛小屋から逃げ出たことに気づいた牧人は、ただ一人で野を歩き、川を渡り、山を越えてその牛を探し求めています。彼は、「自己究明」の牛探しの旅に出たのです。
十牛図とは、人生の三大目的である「自分を知る(自己究明)」、「生死を超える(生死の解決)」、「人のために生きる(他者救済)」を解決するためのツールだとも言えます。第一図は、いわば「自分探し」の旅の始まりのシーンです。主人公である牧人(ぼくじん)は、今まで「自分」と思っていた自分が本当の自分ではないことに気付きます。そして、それまで暮らしていた環境を捨て、深い山に分け入って牛探しの旅に出るのです。牛は、真の自己をあらわしています。
第二図 見跡(けんせき)
「もう牛は見つからない」とあきらめていた牧人が、ふと前方に目を落とすと、そこに牛の足跡らしきものを発見しました。「ああ、牛は向こうにいるぞ」と牧人は喜び、その足跡をたどって駆け寄っていきます。
牧人は牛を探して、山を越え、川を渡りましたが、牛はまだ見つかりません。さすがに強靭な彼も今にも泣き出さんばかりの状況です。ところが、ふと足元を見てみると、自分の牛の足跡らしきものを見つかりました。喜び勇んだ牧人は、そちらを目指して走っていきます。
牛の足跡とは、「言葉で語られた教え」を示します。正しい言葉は、正しい場所に迷わずたどり着くための道しるべだと言えます。
第三図 見牛(けんぎゅう)
牧人はとうとう探し求めている牛を発見しました。牛は前方の岩の向こうに尻尾を出して隠れています。牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足を忍ばせて牛に近づいていきます。
ようやく牛の「尻尾」が見えてきました。牧人は、ここで初めて自分の本性を知ることになります。禅の臨済宗では、これを「初見性(しょけんしょう)」といいます。牛に近づけば近づくほど、全体像が見えてきます。いわば、今まで知ることのなかった新しい自分を再発見しつつある段階です。
第四図 得牛(とくぎゅう)
牛に近づいた牧人は、持っていた綱でついに牛を捕らえました。牧人は、渾身の力を振り絞って再び逃げようとする牛と格闘を始めました。
牧人は、手にした手綱で牛を捕まえます。ふと気づけば、牛はいつの間にか巨大な姿になっており、牧人は全力を振り絞って牛を押さえ込みます。本当の自分に出会うには、ものすごい力で立ち向かわなければなりません。中には、牛を押さえ込む(見性)ときに力が足りず、精神的にダメージを受けてしまう人もいます。真理や真実に直面するときは、強烈な力が求められるのです。
第五図 牧牛(ぼくぎゅう)
牧人は暴れる牛を綱と鞭とで徐々に手なづけていきます。牛はとうとう牧人の根気に負けておとなしくなりました。牛はもう二度と暴れることも逃げ出すこともありません。
牧人は牛をうまく手なづけて、押さえ込むことができました。今では牛を乗りこなしています。彼は、真の自分を掴むことができたのです。しかし、牧人の深層心理の根本(唯識思想では阿頼耶識[あらやしき]という)の中にはまだまだ煩悩がたくさん詰まっています。これから彼は世の中に戻り、他者との関係の中で修行を続けなくてはなりません。
第六図 騎牛帰家(きぎゅうきけ)
牧人は、おとなしくなった牛に乗って家路についています。牛の堂々とした暖かい背中を感じつつ、楽しげに横笛を吹きながら......。
今では牧人は、すっかり牛を手なづけました。第六図は、牧人が他者と関わる生活を通してエゴを消していく様子を描いています。唯識思想では、「自分」というものは存在しないと考えます。そして、自分があると思うことこそが「迷い」を生み、その自我や執着心が苦しみのもとになるとします。そのためには、人との関わりを通じて磨かれる必要があります。第一図で人里を離れて深い山に入っていった牧人は、第六図で山を降り、人々の中で揉まれながらさらに修行を続けます。
禅の修行では、ある段階まできたら、人々の中で揉まれて生きることを重要視します。「牛を飼い慣らす」とは、エゴに満ちた自分を削っている状態です。このプロセスを通じて、牧人の「牛」は次第に穏やかになっていきます。
第七図 忘牛存人(ぼうきゅうそんにん)
とうとう牧人は自分の庵に帰り着きました。牛を牛小屋に入れてほっとした牧人は、庵の前でのんびりとうたた寝をしています。静寂の中、安堵の気持ちで......。彼は「生死解決」をほとんど成し遂げたのです。
第六図では、牧人は牛を乗りこなしていますが、まだ牛と牧人とは別々の存在です。しかし第七図になると、牛と牧人は完全に一体となっています。牛を牛小屋に入れた牧人の姿が描かれていますが、逆に牧人を描かず牛だけでもいいのです。ここでは、牛と牧人はひとつに溶け合っています。
一見、牧人が牛小屋の前でのんびり寛いでいるようですが、第六図が示しているのは、修行の最後の段階の真剣勝負です。まだ心の中に少しだけ残っている自己執着心を、牧人は命がけで振り払おうとしています。もしもこの段階で、慢心におぼれてしまったなら、もう一度振り出しに戻って最初から修行しなければなりません。この段階を乗り越えた牧人は、たとえ死を目前にしても恐れることはありません。「生死」の問題を解決したのです。
第八図 人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)
うたた寝をしていた牧人が突然いなくなりました。あるのはただ空白だけ。牧人になにが起こったのでしょうか。
最後の真剣勝負を終えた牧人は、「無為の世界」に入っていきます。第八図では、具体的な事象は何ひとつ描かれていません。空(くう)の世界とも言えます。空とは、森羅万象が存在する現象世界(有為の世界)を超えた場所であり、言葉で表現することができません。
唯識では、私たちはそれぞれ、一人ひとり別の宇宙に生きていると考えます。その世界を作っているのが、心の深層の根本にある阿頼耶識(あらやしき)であり、阿頼耶識から吹き出すように一人ひとりの世界が生み出されていると考えます。坐禅などの修行を通じて阿頼耶識がすっきりと浄化されたとき現れるのが、この第八図で示しているような状態です。
第九図 返本還源(へんぽんげんげん)
空の世界から再び自然が戻りました。牧人の中に根本的な変革が起こったのです。牧人は、自然のようにすべてを平等視して生きることができるようになりました。
第八図で、牧人は「空」の世界に入っていきました。空とは、何もないということではありません。それはまるで、小学校の頃、理科の実験で行った「あぶり出し(みかんのジュースなどで紙に文字や絵を描いたものを乾燥させ、火で炙るとそれまで見えなかったものが浮かび上がる)」のようなものです。
空の状態をあぶり出すと、あるがままの世界に溶け込んだ自然(じねん)に生きる牧人の姿が浮かび上がってきます。ここで描かれているのは木の枝ですが、実際には、あるがままの命を生きる牧人をあらわしています。
第十図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)
牧人は、再び人間の世界に立ち返りました。人々が行き交う町の中に入った彼は、一人の迷える童に手を差し伸べています。牧人は、とうとう「他者救済」という彼が目指す最高の境地に至ったのです。
最後の第十図で示されているのは、人間としての最終的な生き方です。それは「他者救済」ということ。もはや牧人は、まるで布袋のように大きく描かれています。そして、目の前にいる小さな子に手を差し伸べています。「小さな子」というのは、凡人を示しています。牧人が立っているのは、人々が行き交う賑やかな雑踏です。右手に持った瓢箪は、おそらく酒で満たされているのではないでしょうか。
人生を登山に例えると、第一図や第二図が山の麓です。第六図あたりが中腹にあたり、第十図が山の頂上になります。禅の教えでは、私たちが最後に目指すべきは「人のために生きる(他者救済)」ということなのです。
image via Shutterstock十枚の絵を見終わってから、もう一度「観想十牛図」の全体像に目を向けると、絵がさまざまなことを語りかけてきます。実は「観想十牛図」の中心はわずかにずれています。第十図まで到達したら終わりなのではなく、心はらせんを描くように成長を続けるからなのです。
<プロフィール>横山紘一
立教大学名誉教授。東京大学農学部水産学科、同文学部印度哲学科卒業。東京大学大学院印度哲学博士過程終了。正眼短期大学特任教授、鹿島神流師範。唯識塾塾長。
参考文献
『唯識に生きる』(NHK出版) 『十牛図入門 「新しい自分」への道』(幻冬舎) 『観想十牛図 [解説書]』(大法輪閣)
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