心や身体? でも、私の心、私の身体、と言いますから、心や身体は「私」そのもの、「本来の私」ではなさそうです。
ヨガでは本来の自分とは「永遠なる愛の意識」であるとしています。心や身体だけでなく、なんだかよくわからない目に見えない存在については、なんとなくあるかも、と思っている人も多いと思います。仏壇に手を合わせるのもそのひとつのあらわれでしょう。
「私」とは心でも身体ではない。つまり「私の心」が悲しいことはあっても、「私」が悲しいということはない、ということです。でもわたしたちは、「私」が悲しんでいると思い込んでしまいます。そうすると、とたんに悲しみがある状態がとってもつらくなっていきます。それはちょうど、映画を観ているときに、主人公が辛い場面にあったことを、映画を観ている自分が、自分ごととしてとらえて苦しんでいるようなもの。
自分に起こることを、ひとつの体験として充分に味わうために身体や心があります。でも、味わうためであって、苦しむためではありません。ハッピーエンドの映画を楽しみたいときもあれば、ホラー映画を楽しみたいときもあるように、目の前にはいろいろなことが起きてきます。それをきちんと観て、味わうこと。それには自分の心や思考に気づくことが必要になります。逆説的ではありますが、自分の心に気づき、味わう、それこそが「本来の自分」に気づき、心に振り回されない方法です。
悲しいことやつらいことがあったとき、わたしたちはそこから逃げるために、お酒を飲んだり、マッサージを受けたり、甘いものを食べたりします。でも、それでは、悲しいことやつらいことを味わうという体験が完了しません。泣きわめいたり騒いだり、なにをしてもいいので、苦しいときこそその心を味わいます。そこで自分を責めたり、自分に大きな影響を及ぼすだろうというようなそんな「考え」を介入させたりしない限り、感情はそんなに長続きはしません。それに、「私」とは、どのみち「永遠の愛の意識」です。せっかく心や身体があるのですから、これらを充分に使って、目の前にあることを精一杯体験してみたらいいとおもうのです。
今日の1枚:
「Love is life, life is love.」自分とは「永遠の愛の意識」であるというヨガの教えは、とても気に入っているもののひとつ。たとえそれを感じられなくても、そうなんだ、と知ることは安心感や勇気をくれる気がします。
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