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たまこまーけっと雑感~最終回を前にして

2013/03/22 03:09 投稿

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1月から放映されてきた「たまこまーけっと」も、いよいよ最終回を残すのみとなりました。今回は本題の「もぶおん学」から少し離れ、「たまこまーけっと」の雑感を書いてみたいと思います。なお、第11話までの内容を前提としますので、地域環境等によって未視聴の方は、お気をつけください。

まず、本作における一推しのキャラクターと一番お気に入りのエピソードについて。これは、やっぱり「けいおん!」3年2組クラスメイトの中では高橋風子に次いで思い入れのあるのが宮本アキヨであることからも、色々な面でオーバーラップする朝霧史織と彼女を中心に描かれている第3話をどうしても挙げざるを得ません。

もちろん、「けいおん!」と「たまこまーけっと」は別作品であり、アキヨと史織も別のキャラクターであって、両者を混同してはならないことは承知していますが、やはりアキヨで十全に描けなかったことを史織に仮託し、スタッフさんたちもかなり意識して制作した面はあると思います。アキヨが軽音部に「面白かった」と直接伝えることができたのは、卒業式が終わり高校生活も本当に最後の最後の時でしたが、史織はもっと早い段階で「楽しかった」と自分の口でたまこに伝え、友達になることができました。図書室に入り浸っているアキヨに比べ、よりアクティブな(?)バドミントン部に入っていたり、デラが落下してきた時に咄嗟にラケットや本で受け止めようとしたりと、史織の方がやや積極性を持ち合わせているせいもあるかもしれません。しかし、家庭訪問中に道に迷った担任の先生と遭遇して商店街まで案内したり、デラに思いは直接伝えるべきだと忠告されたりと、アキヨよりも背中を押してもらえる環境が整っていた点も大きかったと思います。

言葉で伝えたいことはたくさんあるけど、頭の中で色々考えてしまってうまくいかない。新しいクラスの自己紹介で名前と部活を手短に言うだけなのも、たまこからのアプローチを避けて無視したような形になってしまうのも、商店街の人たちに声をかけてもらってもちょこんと頭を下げるだけなのも、常に相手に対してどういう状況でどういう言葉をかけるのがベストなのか考えつつも石橋を叩いて壊してしまう、そういう生真面目なんだけど内気な性格の持ち主の心理を、3話では本当によく映し出している点を高く評価しています。

3話だけでなく、たとえば10話ではたまこの父・豆大を通して大人の男性の哀愁を、11話ではみどりとバトン部を通して「けいおん!」を髣髴とさせるような瑞々しい友情を見事に描き出しており、視聴した後には心が温まりました。もちろんその他の回も総じて高水準であり、登場するキャラクターたちもみんなしっかりと個性が浮き立っており、安定的に楽しく視聴することが出来ました。

ただ、「たまこまーけっと」の感想の中でしばしば指摘されることですが、肝心のたまこが主役としては弱すぎるということがこの作品の難点と言われます。曰く、感情の起伏がなさ過ぎる、あまりに恋愛感情に鈍感である、主役らしいストーリーに乏しく感情移入できない……。たしかにこうした面があることは否定できませんが、個人的にはたまこに対してはかなり甘いというか、人一倍好感を持ってみているつもりです。やはりかわいらしいですし、何と言っても家族や近所の人々を愛し、確固とした信頼関係を築いている――人として、これ以上大切なことはないと思っているので、多少学校の勉強ができなかったり、泳ぎが苦手だったりといった弱点などは取るに足らない実に些細なことのように見えます。

母親を早いうちに亡くし、職人気質で頑固な父親の家業を手伝わなければならない、商店街の人々との関係も濃密であるが故に、一面それはしがらみであり鬱陶しくもある、人によっては背を向けてひねくれたくなるような環境に、たまこは置かれています。しかし、彼女はそういったものを全肯定し、その中で幸せを見出し、日々の生活を実によく楽しんでいます。これは素直に尊敬するに値することではないでしょうか。

うさぎ山商店街の温かい雰囲気を体現したのが北白川たまこという存在なのであり、「たまこ=まーけっと」としてこの作品に親しんできました。たまこが商店街と不可分の関係にあるからこそ、第11話でいざ南の国の王子のお妃にという話が一気に進んだ時、あれほどの拒絶反応を示したのではないでしょうか。

たまこにしては珍しく、「自分が商店街からいなくなってもいいんだ」と感情を爆発させる直前に、糸電話で会話をしたのは幼馴染でたまこのことを憎からず思っているもち蔵でした。もち蔵のたまこへの思いは、これまでもずっと空回りし続けてきましたが、この段階にいたっても「商店街を離れ、遠く南の国へ行ったとしても、そこでたまこが幸せになれるのならそれでかまわない」というようなことを言ってしまうあたり、やはり彼はたまこのことを理解しきれていないのだなと思いました。

もち蔵の恋愛感情がいまひとつたまこに伝わらないのは、彼がかなり奥手というのもあるのかもしれませんが、その姿勢が「恋に恋する乙女ならぬ少年」とでも言うのか、隣のかわいい女の子だから何となく好きという以上のレベルに昇華されていないせいもあるような気がするのです。

豆大は、もち蔵のことを「娘に言い寄ろうとする男」としてではなく、「商売敵の息子」として見ていますが、たまこもまた父親の見方に近いものがあるのかもしれません。ただしたまこは、豆大ともち蔵の父親・吾平が喧嘩している間をくぐり抜けるシーンに象徴されるように、父親ほど隣の同業者を敵視しているわけではありません。また、この二人の関係が実はそれほど悪いわけでなく、手法は違えど自分の店に誇りを持ち、もち作りという生業を通じて商店街を盛り立てていこうとしている姿勢は同じであることを感覚的に分かっているのかもしれません。

それでは、たまこがもち蔵のことをまったく恋愛対象として見ていなくて、もち蔵のたまこへの思いは叶う見込みのない絶望的なものかというと、それもまた違うと思います。彼がもう少し成長して、もっと総合的にたまこのことを見る、すなわち「うさぎ山商店街の『たまや』の長女・北白川たまこ」として見ることができる、それは取りも直さずもち蔵自身が商店街や社会の中で自分が何者であるのか、ある程度理解することでもありますが、そうした時にはじめてこのふたりの仲は進展するのではないかと思います。仮にそういったところにまで気が回らないうちに、もち蔵が性急に告白したとしても、たまこの場合うまくいかないのではないでしょうか。

何となく、たまこが商店街を「出ない」ことを前提に話を進めてしまいましたが、もちろん最終回において南の国へと旅立つ可能性がなくもありません。それはそれで、幸せはどこにおいても見出すことが出来ますよというお話が成り立つとは思いますが、これまでの作品のテーマ性から考えれば、あまりあり得そうにない展開です。

前回の記事で、「けいおん!」における3年2組の教室の果たした役割は、「たまこまーけっと」における商店街に似ているというようなことを書きましたが、ひとつ大きな違いを挙げるとすれば、3年2組の教室というものが1年間の限定的な空間であり、卒業したら思い出の中で生きるものであるのに対し、商店街は世代をこえて持続していく空間であるということです。

もちろん、個人レベルで見た時、たとえば眼鏡の素敵な銭湯の娘さんは商店街を離れてお嫁に行ったため、彼女にとっての商店街は、いずれは出なくてはならない空間でした。たまこの妹のあんこが、割合に商店街や自分の店に対して必ずしも肯定的な感情ばかりでないのも、姉に比べてそのような可能性が高いことを本能的に感じているからかもしれません。

幸せは、どのような環境においても見出し得るものだけれど、たまこの場合それは商店街にあったし、これからもそうあり続けるのが相応しい。「たまこ=まーけっと」を見てきて、個人的にはそのような感を強く受けました。

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