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趣味の分散化による絆の分散化について 昭和と平成の根本問題

2018/12/22 12:44 投稿

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 昭和(戦前戦後すべて含む)のメディアは一括統括・一本化な集約型であるならば、平成のメディアは分散型であったと言わざるを得ません。これに関しては後者でSNSが爆発的に普及してしまったことから議論の余地はないかと思います。

 さて、昭和時代のメディアがまだ根付いている中、社会常識の分散化に少し歯止めをかけているところもあるかと思いますが、趣味の分散化がいわゆる昭和時代の文化を少しずつ崩壊させ、瓦解していくという現象があるのは誰もが感じていることかと思われますし、それによって人々が昭和型か平成型かに分かれているところがあるかと思います。前者の型を集約型と呼ぶならば、後者は分散型の人間ということになるでしょうか。これだけでも一括して分類できないので、カテゴライズをうまくする為にはもう一つ、趣味の集約と分散について考えなければなりません。

 昭和時代になると、一本化、画一化がメインになっていました(たぶん戦後教育は戦前からの画一全体主義の名残、異論は諸説あるかと思いますが、とりま置いといて)。平成時代になると個人主義がはびこって分散型となりました。そしてこれによってもたらされている平成型の社会が、路線図という名の回路図に当てはめれば、パラレル(平行)とクロス(交差)した線路の多様化というところにあります。

 要するに、文系的な社会学を、もっとトポロジーの観点、位相幾何や群論・圏論・類体論・グラフ理論のごとく分析的に研究する必要が急務となっているのです。残念ながら僕にはその力がありません。もっとこういうところに理系の学問が応用されればと思うのですが、とにかくそれが実際に為されていったとしても、この流動的な社会の中で、同じパターンを名残として繰り返している定数としての状況と、その中で新しく変動していっている変数としての状態をパターンとして記述していくことになります。しかし自然言語で主体的に記述するのがどうしても文学チックにならざるを得ないので、数学のような記号処理によってなされなければならないのが現状となってきています。そんな中で、未だに「数学が―、記号がー、分かりにくいー、どこで役に立つの?-」などというてるようでは、メディアや大衆の直観などによって精神汚染を食らって洗脳されているとしかいいようがありません。平成の時代が終焉しつつある今、数学に対する態度を改めなければ、大変なことになります。

 例えば僕の持論ですが、高度経済成長やバブルといった現象は偶然性もありますが、その土台となっている昭和世代の絆としての精神性があると僕は思っていて、それが一体どこにあるかと言えば、ちょっとした共通した趣味・人生経験による雑談の積み重ねにあると思っています。ド根性論や精神論に耐えきれたのはまさにこのためです。それが平成になって耐えきれない人々が出てきたのは、孤独という現象が非常に如実に強く表れてきたからです。もはや孤独が現れるといっても過言ではありません。その人自身が孤独そのものであり、象徴になりえず、現実としてその人が孤独というラベルを付けられてしまうわけです。そうなってくるとラッセルのパラドックスを利用する以外、このラベルから脱出して払拭する方法はありませんが、果たして、どこまでこれが個人だけで可能なのかというのは、自分自身で試す以外にありません(たぶん試したくはないでしょうが)。

 つまるところ、共通記号が眠りの領域、無意識の領域にのみ生き残り、分散されていって出会いと別れを頻繁に繰り返していったところの疲労・孤独・焦燥だけが、現代という精神性に引き継がれ、独り歩きをしては日本という国家的精神回路図に記述され、それが面路(過去記事を参照)となれば、グローバル化の流動性から世界とのかかわりを得るようになります。

 しかしこれは国家レベルから集団組織レベルへと行渡り、さらに個人へといきわたるのは、まるでパターンのウォーターフォールモデルがすでに宇宙の精神規則として出来上がってると言っても過言ではないのかもしれません。鎖国しかり1次大戦2次大戦しかり、インターネットによる急激な分散化しかり、科学や技術、そして懐疑主義哲学・批判主義哲学から生まれた宗教がひっこ抜かれた倫理観(人生観)によって、僕達はどんどん個人化し、他者化し、内的に共通化されていくのです。

 これはもう物的技術で人類が並列化するまでもなく、自分自身の見かけや趣味が全く異なるものであったとしても、それがファッションとして成り立っていて、肝心の内面は全く共通しているというのは良くある話です。加えて人間は、視覚・嗅覚が優先されるので、まずは視覚的な論証、実証、再現性がなければならないわけです。そしてこれがいつまでも昭和型と平成型とで共通されている理解なわけで、フッサールもまさか日本や世界がここまでなるとは思わなかったはずです(気づいてたらとっくに解決策出してるし、エポケーがむしろこの社会的な、共通理解としての暗黙の了解といった、「空気」を助長している)。

 正直この種の問題は、僕だけの力ではもう限界です。一人一人が気づいて行動に移す以外にありませんし、これはもう戦争であるということを、もうそこまで来ていることに気づかずに、来てしまった、「ずっと続いてきた精神交配」に、いい加減いいところでケリを付けなければなりません。ヴィトゲンシュタインは頑張った。でも彼の哲学が、ある意味このような現象を引き起こしてしまった。ベイトソンも頑張った、でも彼の哲学が、あまりにも眠りの領域にあり過ぎて誰しもが分かった気になって行き着いてくれなかった、一抹の寂しさが、天使のおそれにも如実に出ています。無比なる真実、比喩を使わずに真実を伝える方法が、従来の宗教以外にどのように存在しているのか、それが、僕達人間としての、人類としてのずっと続いていた最期の仕事なのです。





それではまたどこかで、会えたなら。



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