天ノ川源十郎のブロマガ

シュレーディンガーのパンツ

2014/04/13 05:19 投稿

  • タグ:
  • アニメ
  • マンガ家さんとアシスタントさんと
  • シュレーディンガーのパンツ

皆様はじめまして、源十郎です。

初ブログということでここでは今後不定期で

私が思ったこと感じたことを適当に書き連ねていく予定です。



さてひっそりとはじまった第一回のテーマは

ジャカジャカジャカジャカジャカ………ジャジャン!



「シュレーディンガーのパンツ」について



これは量子力学にまつわるシュレーディンガーの猫をパロった言葉で

私がこの言葉を知ったのはつい最近、ニコ動で開始された今季アニメ

「マンガ家さんとアシスタントさんと」のタグの中に発見した時です。

(その言葉自体はもっと前に作られたもののようですが)



と、いうわけで、ここから「漫画家さんとアシスタントさんと」の

一話の内容に少しだけ触れますので

それでもいいという方のみお進みください。



ある日、漫画を描いていた主人公の愛徒勇気は

ふと疑問を抱いて切実に悩み叫んだのでした。


『パンチラとパンモロはどっちがいいんだっ?!』と


淑女諸君はご存じないかもしれませんが

世の中の男子は誰も知っております。断言しましょう。


   パ ン ツ に は 哲 学 が あ る の で す


パンツというのは突き詰めてゆけばただの布きれであります。

しかしその布きれ一枚が神秘たる女体の肝心要たる聖域もとい性域を覆うとなれば

それは最早ただの布きれに非ず。

その布きれは女体に触れた瞬間、神聖なるおぱんつ様へと変化をとげるのであります。

この変化は劇的であり、

さながらグロテスクなさなぎが美しい蝶へと変化するかのようであります。



ちなみにこの変化を生物学的に変態といいまして

蝶のように蛹を経て成虫へと変化することを完全変態と呼びます。

あの美しい蝶ですら完全変態するのですから

我々、万物の霊長たる人類の雄たちが

少しくらい変態したところで一体何を責められましょう?


パンチラ派の男子はこう説くのです。

「わずかに見えるパンツにこそ、夢が!清純さが!美しさがある」と。


一理ある。

本当に価値のある物は直視してはならないのだ。

たしかに直視した瞬間、その希少性は薄れ、価値の崩壊を招く。

都会の水よりも砂漠の水の方がより価値が高いように

パンツが乱発されればそこにある美しさと神秘性が失われ俗な物へと変り果てる。

だからこそ、チラリと見えるパンツの中に恥じらいとエロスを見出し

パンツは隠されなければいけない、と唱えるパンチラ派の意見には納得ができる。


しかしパンモロ派はこう考える。

美しく神秘的であるからこそ、直視したいのだ!と。

隠してどーする! 見せないでどーする!

そこに価値がある以上、見せないのは宝の持ち腐れであり

価値ある物に対してじっくりと見てみたいと思うのは当然ではないか!

という、慎みの欠片もない超絶ストレートな欲求がそこにはあります。


しかし、ここにはパンチラ派にはない

『おぱんつ様が乱発されたところでその価値が下がりなどしない』



というおぱんつ様に対する圧倒的な価値への信頼が存在します。

おぱんつ様の需要は神の見えざる手を離れ常に一定であり

そこにおぱんつ様があるならば見なくては損なのだ。

よって、見ないことによって生じる時間こそが、価値の損失、と考える。

パンツに対して恒久的価値を見出すパンモロ派にとっては

チラリと見え隠れするパンツは隠されたことで

逆に隠された部分だけ価値が下がってしまうのだ。


これは食べものに例えると分かりやすい。

イチゴパンが半分だけよりも

イチゴパン1つまるまるの方がずっとお腹が満たされるのと一緒なのだ。


つまり、それをパンツに当てはめるのならば

イチゴパンツが半分だけ見えるよりも

イチゴパンツが全部見えた方がずっと性欲が満たされる、というわけである。



なるほど、と思う。

どちらの考え方も正しく、そして説得力がある。


しかしそんな二つの選択肢に悩む主人公に対して

「マンガ家とアシスタントさんと」のヒロインである足須沙穂都はこういうのだった。


     「そもそもパンツを見せないのが一番清純な気が……」


これは女性にしか気が付きえない鋭い変化球である。

「アダルトビデオの清純派より、アダルトビデオに出ない方が清純だよね」的発想は

完全変態たる男子には思いもよらぬアイディアと言えましょう。

少なくとも、私には想定の範囲外といえる考え方だ。


その言葉を受けて主人公の愛徒勇気は気が付く。

「見せないことによって、むしろその子のパンツを想像するという楽しみが生まれる」と。


パンツを想像する余地。

もっと突き詰めて考えれば、パンツを認識していない以上

そのパンツの存在すら疑われるのである。つまり、履いていない可能性すらあるのだ。

それこそが冒頭で述べた「シュレーディンガーのパンツ」である。


履いているのか、履いていないのか?

履いているならば一体どのようなパンツを履いているのか?

その想像は無限大であり、隠されたことにより逆に可能性の幅が広がる。


パンツは目視された時点でその存在が確定し

それと同時にノーパンである可能性は潰える。

しかし、しかしである。見えないならば必ずしも履いているとは限らない。


学校で隣に座るあの子も、街で見かけるあの子も、お店で働くあの子も

清純そうな顔をして某生徒会漫画のあのキャラみたいにノーパンの可能性だってあるのだ。


パンツの存在が確認できていない以上、可能性がゼロとは言い切れない。

いや、ゼロどころの問題ではない。

履いているか履いていないかの二択である以上、可能性は50%である。

ななな、なんと50%の可能性で女の子は履いていないのだ。


なんという発想の転換、なんという素晴らしい哲学であろう。

パンツという物自体に疑いを抱く、これを私はCUNT哲学と呼ぶことにした。


ここ近年、絶対領域が崇められるのにはそれ相応の理由があったのだ


ここで肝心なのは見えてはいけない、ということ。

見えてしまった時点で履いている事が確定してしまう。想像の余地がなくなる。

だが、更に重要なのは見えないギリギリのところまで攻め入ることで

履いていない可能性が増すという事である。


ここまで太股が見えているのにパンツが見えないのならば

履いていない可能性は50%じゃなくね?

むしろ80%以上の確率で履いていないんじゃね?

という、結論に至るというわけである。


だから世の男子諸君よ。

ミニスカートを履いていながら階段を上る女性が

手持ちのバック等で後ろを隠すことに怒りを覚えてはいけない。


その光景を見て愚かな者はこう言うかもしれない。

「そんなミニスカートを履くぐらいなら、いちいち隠すんじゃねーよ」と。


しかし、違う。違うのだ。それは誤謬である。

彼女たちは何もパンツが見られたくなくて隠しているわけではない。

履いていないから隠さずにはいられないのだ。


よって、ミニスカートの中身を想像できる

余地を残してくれたことに感謝をして思う存分に妄想の世界を楽しむのが正である。

ただし、紳士たる者、YESノーパンNOタッチ

犯罪に手を染めぬようくれぐれもご忠告をしておく。





「マンガ家さんとアシスタントさんと」

主人公の愛徒勇気の声優、松岡禎丞さんの演技が光っています。

SAOのキリト君みたいな役よりも

こういったコメディータッチの作品の方が合っているような気もします。

阿呆でエロスなアニメに抵抗がなければ見てみるのも良いかと思います。



コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事