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なぜ人を殺してはいけないか?(漫画版)

2013/08/21 12:34 投稿

コメント:208

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  • 哲学
「なぜ人を殺してはいけないのか?」みたいなのは色んなところで語られているように思うけど、とりあえず漫画に限定した話として思うのは、人を殺してはいけないという理由は特にないと思う。だって、少なくない正義のヒーローは人を殺しているのだし、それが肯定的に描かれているのだもの。そこには、殺してはいけない理由ではなく、人を殺すに足る理由があるかないかという違いしかないのではないかと思うし、理由があれば人を殺してもいいのだというのが多くの漫画の中にある考え方だと思う。
例えば、幽遊白書の作者コメントにおける漫画用語辞典というシリーズに「勧善懲悪」という項目があって、「善悪の定義をはっきりせんと。正義の見方も人殺しているわけだから。」というのが書いてある。これは実際そうだし、だからこそその危険性みたなのも頭の片隅に置いておいた方がよいのかもしれない。

では、漫画の中の登場人物は何故人を殺すのか?悪人が人を殺すのは、自分の利益のためで、その悪人が悪であるということを表現する手法なので当然のように思うし、その悪人は多くの場合、その悪の報いを受けて倒されてしまう。
正義の人はどうだろうか。これは多くの場合、その悪人を悪に対する報いとして殺している。単純化すると、人を殺してはいけないのに、人を殺すというのは悪であり、悪であるのに人を殺したという当然の報いを受けないような悪はひどい悪であるので、正義はその悪を殺してもよいという理屈なので、まともに考えるとループするし、じゃあ正義はなぜ殺した報いを受けなくてよいのか?というあたりでおかしなことになる。これは一見矛盾するように見えるけど、世の中の矛盾するように見えるものは条件を追加すればだいたいその矛盾が解消される。代表的な条件というものはその正義は「特別な存在」であるということで、そうなると、悪が正義を殺すということと正義が悪を殺すということは等価ではなくなるので矛盾はしなくなる。
これはより具体的に描かれることがあって、それはその悪が人間ではない別の種族であるとして描かれる場合だ。それは、化け物かもしれないし、宇宙人かもしれない、ゾンビかもしれないし、悪魔なんかであったりもするだろう。その世界において、人間と人間以外は明確に区別されるので、人間以外が人間を殺すということと、人間が人間以外を殺すということは等価には扱われないことが多い。よくあるのは、主人公が人間と人間以外の中間の存在、例えばデーモンと人間の中間のデビルマンであったり、パラサイトと人間の中間である泉新一とミギーであったりすることで、その矛盾の最前線に主人公が立つということになる。

「寄生獣」の泉新一がパラサイトの権化である後藤を殺すシーンがとても象徴的であると思う。パラサイトは生物として人間を喰い殺すということが存在意義であり、彼らはその本能に従っているだけなので彼らの立場からすれば決して悪くはない。それはさながら人間が牛や豚を殺して食べているように。泉新一は必死で生きようとする後藤を見てそれを理解する、そして殺さないままに立ち去ろうとするものの、思い直し戻ってきて、結局後藤を殺す。「ごめんよきみは悪くなんかない…でも…ごめんよ…」という言葉とともに。
ここにあるのは正義と悪ではなく利害だと思う。それぞれの立場においてそれぞれは正しい、しかしながらパラサイトは人間を殺すし、殺されたくない人間はパラサイトを殺すしかない。

「カルネアデスの板」という話がある。これは例えば「金田一少年の事件簿」の「悲恋湖殺人事件」なんかでも出てきた話なのだけど、難破した船から海に放り出された人たちがいたとして、そのうちの一人が板に掴まってなんとかしのいでいる。そこに同じく板に掴まろうとする人が出てくるけれど、二人が掴まるとその小さな板では沈んでしまう。そのときに、二人目を突き飛ばすということは罪だろうか?と言う問いで、現代法においては過剰なやり方をしない限り、自分自身の生存のためにとったこの行動は罪に問われないことになる。自分が生き延びるために犯された罪というものは免責される。でも、それで殺された側の遺族としては納得がいかないからこそ、作中で殺人が行われてしまうのだけれど。
このような法律上正しいということと感情的に納得がいかないということは多々あるし、そこには矛盾があるので、それが物語になるのだと思う。

ちょっとまとめると、漫画の中では現実的な法や何やらは別として「彼ら」と「我ら」という二種類の集団が出てきて、「我ら」や「彼ら」の中のみの殺人は概ね罪であり、「彼ら」の「我ら」に対する殺人も罪として描かれたりするけれど、「我ら」から「彼ら」への殺人は肯定されたりするようなものなのだと思う。もちろん、そこにはそれなりに納得できる理由が描かれるからなので、無条件ではないのだけど。

この辺に関連する作品と言うと、「HUNTER×HUNTER」にジャイロという男が出てくる。彼は飯場で父親とふたりで生きてきた男で、父親から「人に迷惑をかけるな」というこ とを教え込まれる。しかし、あるときジャイロは思ってしまう。この「人」とは何か?父親のことか?いや違う、人とは「人間」だ、俺は人間ではなかったんだ、と。彼はそう思った次の日には父親の頭を叩き割り飯場をあとにする。人間でなければ、ジャイロと人間は同じ「我ら」ではないのだから。

他には、カイジにおける高所に渡された鉄骨の上を安全ロープなしに渡る人間競馬の描写がある。遅れる者は先行する者を突き落さなければ抜くことができない。人間が同じ人間を突き落すということには当然躊躇があるけれど、それは一旦誰かを突き落す人間が出てきたときに一転する。押した人間は「我ら」ではなく「彼ら」に変わり、ならば突き落してもよいという考え方に変わる。そこから先は地獄絵図だ。
その中で主人公であるカイジは押さなければ自分が損をすることを分かっていて、このままだと自分が押される可能性があることも分かっていて、それでも「押さない」ことを宣言する。押さないことこそが人間だということだ。自分たちは同じ人間だろうということを主張する。カイジはこのお人よしのために何度も何度も損をする。それでも、根っこの部分で人間であろうとするということ。分断された「彼ら」でなく「我ら」であろうとすることこそが、一見非合理なように見えて、これこそがあまりにも人間じゃないかと思う。

漫画は現実ではないので、理由さえあれば「人を殺してもよい」ということになっていたとしても、それでも人を殺さないということに僕はいたく感動するし、そうだ、人を殺してはいけないんだという気持ちになったりする。他の人は分からないけれど、もし僕が「なぜ人を殺してはいけないか?」というのを問われたとしたら、この自分の感情を裏切りたくないからだなあと思ったりする。

日本の漫画はそれなりに道徳的にしっかりしているものが多いように思う。復讐譚が手放しに賞賛されるということは意外に少ない。復讐を遂げたリベンジャーは、そのまま死んでしまったりもする。そして、残されたものたちは、手を取り合うことの方が素晴らしいということが描かれたりする。
そろそろまとめるとして、僕が思うのは最初に書いたように漫画の中において「人を殺してはいけない理由」というのは特にないと思う。しかしながら、同時に「人を殺さない」ということは素晴らしいことだということもまた素晴らしいこととして描かれていたりするんじゃないかと思うし、その二つの中で揺れ動くことを疑似体験できるからこそ、現実でない物語というものが現実に存在するという意味はあったりするんじゃないかなあと思ったりしたという話。

コメント

おにろく
No.214 (2013/11/19 21:26)
手塚さんェ…。ポッドキャスト聞いてきたなりよ。
karukan
No.215 (2013/11/27 15:29)
ほんとにここだけコメ多いっすねw
✿あい✿
No.216 (2014/04/25 19:18)
なぜ殺すんですか!特に家族のお父さんお母さんを殺すのわいけない今まで育ててくれたのに
なぜ殺したり自殺するんですか2011年3月11日のことは、忘れてわいけない
後ネズミがねずみ取りで捕まるのわ意味がわかりませねずみが悪いわけじゃないねずみをころすひとはバカです
牛とかは、しょうがないけどねずみを殺すことは、自分のペットを殺すことと同じです
それより何故殺すんですか自分も殺された人と同じことされたらどうなりますか一生回ってこれないんですよ!
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