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「暮らしの中の日本語(池田弥三郎著)」③わたしの中のことば

2020/05/25 19:00 投稿

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わたしの中のことば
 著者の経験として、話しことばというものをどのように教えられたかの述懐。
 著者は家庭にあっては父親と曾祖母や祖母、母親の使うことばを見よう見まねで覚えている。学校の教科書を見てはこの人たちは、こんな馬鹿丁寧なことばを使うのはおかしいと言い、先生に教わった通りに「電車」とか「坂」とか「火鉢」とか言うと、なんだそのアクセントは、みたいに直されたという。そのため未だに何が正しいアクセントなのか自信が持てないと書いている。
 当時教師になるのは地方出身の人が多く、話しことばを統一するなどという配慮は誰にもなく、先生方はそえぞれの出身地の方言を駆使して教科書の誰が使うか、という馬鹿丁寧な文章を教えたらしい。
 だが友人との会話は有用で、地域や階級の異なる人々との会話に気付かされることは多かったという。

 大学では折口信夫先生に就いたので、ここでは上方出身の先生との清濁の違いに困るようになる。
 額田王をヌカダと呼んで叱られる。ヌカタと言えと。畝傍はウネビではなくウネヒ。
土瓶はドビンではなくドヒン。花瓶もカヒン。
 一方で案山子はカカシではなくカガシ。洗濯はセンダク。踵はカガト。
 また先生は略語がお嫌いで帝劇と言えば帝国劇場と言え、小田急と言えば小田原急行と言え、と言い直させられる。インテリやデパートみたいな通用後も略さない原語本来のデパートメントストアとかでないと承知しない。
 社会に出てからは久保田万太郎さんから駒形はコマカタだ、鳥越はトリコエだ、髪結はカミイイだ、と軽蔑されてしまう。ク保田氏は別にこうした言葉を勉強したり研究したりしたわけではなくて自分の身についたまま言っただけだが、久保田氏の弟子にあたる人が久保田氏に教わった通りにこうした用語を使うと、ごく一部の例外を除けばどこか嘘くささがあって、自然に身についたものと単なる人まねの違いみたいに聞こえたという。

父母の呼び方
 江戸時代を舞台にした時代劇で、母親が子供に対して夫のことを「おとうさま」と呼ぶ。これはおかしい。実際にどう呼んでいたかは著者は知らないのだけどおかしいとわかる。
 なぜなら「おとうさま」というのは明治に文部省が作った言葉だから。

 今の日本ではその家族の中で一番若い世代を基準に呼び方が決まるのが一般的とみえて、おとうさんは孫が生まれるとおじいさんに、みたいに昇格する。

 著者はいわゆる下層庶民の職人階級の出と書いているが、著者の実家ではそんなことなくて、祖母は孫と話す時にも自分の夫のことをおじいさんとは呼ばずに実名で呼び捨てにした。
母親もおとうさんなどとは言わずに呼び捨てにした。父親も妻を呼び捨てにした。
 祖母は出入りの者に対してなど改まった場合には夫のことを親方と呼んだ。母は同じような場合には夫を旦那と呼んだ。親方と旦那には格の違いがあって、祖父の代より父の代の方が格が上がったらしい。
 下町では自分の親をとっちゃん、かあちゃん と呼び、少し大きくなるとおとっつぁん、おっかさんと呼んだ。山の手ではおとうさん、おかあさん と呼んだらしいが著者にはこそばよいような抵抗があるという。おとうさま、おかあさまなどとなると聞くだけで恥ずかしく感じたらしい。パパ ママ という言葉はまだ無かったという。
 著者は他人に自分の親のことを話す時は父、母、おやじ、おふくろ などを使い分けているという。

おにいちゃん
 テレビに出てくる母親が自分の子供を おにいちゃん と言っているのが著者には気になる。弟は何と呼ぶかというと ぼくちゃん だという。
 これは親が家庭で一番年下の子供の幼児語を使っているようで著者は好ましくなく感じる。

ことばのしつけ
 子供に対することばのしつけを誰が担当しているのかということについて。著者の場合は祖母にいろいろ教わったとのこと。学校の先生は地方出身で、先生に教わった通り話すと全部直されたという。

オッチョコチョイ
 著者はおっちょこちょいだそうで、その体験談をいくつか。政府から首都圏の問題についての懇談会に参加してほしい、と連絡を受けてOKしたが、スト権の懇談会とかで家族中から馬鹿にされたらしい。

わたしの文章修行
 著者は昭和26年にNHKの解説委員になって5年以上週1回の15分番組を受け持つ。もちろん事前に原稿を書いて、時間内に収まるように読むわけでこれが文章修行になったが、その副作用で何を書いてもこの長さでまとまってしまうようになったとか。息の長い文章を書けるようにするには谷崎潤一郎の文章を読むのが効果があったとか。

辞書を読む
 受験の時に辞書を頭から読むという経験をして、その気になれば読めるもんだなと思ったという話。今みたいに家から出られない時期にはいいかもしれない。

日記<四六・七・二二~二六>

22 政治家が引用する中国古典の解釈はたいてい間違っているという話。

23 恵存という言葉と挿架という言葉について




 となっているけど、著者によれば恵存という言葉には先輩から後輩にこれやるから取っとけよ、みたいな感じがあって目下から目上には使わない方がいい言葉だという。
 代わりに、本棚の隅にでも置いてください、というおもむきのある挿架を使うのが好ましいと書いてある。でも現代の辞書に無いということはどちらも死語みたいなものか。

24 放送記者は話者と名乗るべきではないか、記者というのは新聞記者は偉いという意識がからではないかと書いている。NHKの放送「記者」たちの日本語力に苦言を呈している。

25 ニュースアナウンサーのアクセントについて。斑点と袢纏。那須と茄子などが区別されていない。また野球放送で投げれます、というのに違和感を持つ。

26 近代文学研究の大家が注記で間違ったことを書いている。特に未詳とするのはむずかしい。解釈がある、というのは簡単だけど、無いと断言するのは困難。日本の古代にはそういう例はございません、と言い切れたのは折口信夫先生だけだろうという。

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