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「春宵十話(岡潔著)」表題作以外(宗教関係)

2019/06/17 19:00 投稿

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・著者が主に宗教について語った文章がいくつか収められている。著者は終戦に伴う価値観の混乱の中で精神のよりどころに悩んで宗教に救いを求めたらしい。

・宗教について
 著者は敗戦に際して人の心がすさみ行く様に耐えかねて宗教の門をたたく。今も宗教の道にいるという。著者によれば理性と宗教は全く別物で、人の悲しみがわかるのは理性だが人の悲しみに呼応して自分も悲しくなるのが宗教だという。
 人の悲しみを知って自分も悲しくなるのが宗教の本質であろうと著者は述べている。
 著者は孔子の思想は道義であって宗教ではないだろうと言い、基督は宗教というよりは理性であろうと言う。
 だが宗教の世界には向上は無い。だがら自分は宗教の世界と数学の世界を行ったり来たりしているみたいな。
 
 著者は人間の世を自他対立の世界と言っていて、そこでは生きるに生きられず死ぬに死ねないといった悲しみはどうしてもなくならないと書く。そうした人の世のはかないあわれさを書いたのが芥川龍之介の「秋」だという。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/16_14570.html
 私なんぞは表面しか読めないのでつまらん話だとしか思わなかった。

 また、漱石の「明暗」もそうだという。

・日本人と直観

 日本人は昔から直観を疑わないで実践し、それが成功して明治維新となりそれが悪い方向に行って2・26や5・15になった。
 直観には三種類あって、一つは平等性智とも呼ばれる間違いを見つけて直すような直観。
二つめには真善美を判定する直観。最後は妙観察智とも呼ばれる自分の行動を振り返ってあとから何が自分を動かしたのか気付く、といった直観。第三のそれは自分を見る自分と見られる自分に分けることにもつながる。
 三つの直観を合わせたものが本当の知力ということになる。これを真智と呼ぶとすると、通常は二重に錆のようなものが覆っている。一重の場合を妄智、二重の場合を邪智という。
 これを取り除くに念仏がよい、と著者は書いている。

・日本的情緒
 ヤマトタケルの命を助けるために、橘媛命(弟橘媛)が荒海に飛び込んだことや菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)という人が異母兄(仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺した(これは諸説あるらしいが)、みたいな行為を日本では善行であり美しい行為と考えてきた。
 宮沢賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と書いたように、社会の下積みとなることを少しも意としない、打算を伴わない好意を自然にできてしまう人たちがこの国にはいたと著者は書く。
 人がこうした行為を行う時に働くのが真智あるいは智力という。だがこれには内外二種類の邪魔物がまとわりついて人はなかなか真智が見えない。
 外側の物に邪魔された状態を邪智あるいは世間智といい、内側のそれを妄智あるいは分別智という。
 邪智に取り付かれた心は ものの欠点だけが目につき、不公平が承知できずまたこらえ性が全くない。そして悪いのは自分でなく他人であると思い込む。
 妄智についても書いてあるけどちょっと主旨をまとめられない。数学の計算も論理も妄智とのことで、著者は計算も論理もない数学をやりたいと言ったことがありこの発言がなんか有名になってしまった。
 著者は祖父から「他を先にし自分を後にせよ」と言いきかされて育ち、中学に上がるまで金に手を触れることがなかったという。
 情緒の流れを切らないことが義務教育の役割だと著者は言う。
 著者は戦後の新制による義務教育がはじまって約10年、道義をわきまえない学生が増えてきたようだと危惧している。
 「人づくり」という言葉をとんでもない、人はつくるものではなく、人を育てるのは大自然であって人はその手助けをするに過ぎない、人がつくれるなんて思い上がりもはなはだしいと書く。このままでは動物的な闘争性や残虐性を持った人間が次々教師になっていく。このままではまずい。どうすればいいか。とりあえず戦前に戻して軍国主義を抜いてはどうかという。
 教育の目標が個人の幸福になっているが、それでは犬が満足するのと変わらない。教育が心配でたまらない、と書いている。
 それから70年以上過ぎた。著者の心配は杞憂だったかどうか。
 
・無差別智
 という仏教用語があるそうで、分別智に対応する概念で、純粋直観とも。意味は
「自明のことを自明とみる力」で理性のモトみたいな智力だという。
 自分の言葉にふと疑義を感じて首をひねるのもこれによるらしい。他人の言った通りただ追随するだけの人はこれがない。また私利私欲が強すぎるとこの無差別智が働かなくなるらしい。もともと道義が心の中に無い人間もまた同じ。
 無差別智というのは人間が意志で働かせるものではなく、「おやっ」という形で個人よりももっと大きなものの意志があるかのように外からやってきて働くものらしい。

 とりあえずここまで。

 
 

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