メタ坊のブロマガ

「人生余熱あり(城山三郎著)」

2018/04/23 19:00 投稿

  • タグ:
  • 城山三郎
  • 人生
  • 老い
  • 老後


 城山三郎氏による、さまざまな「老い」に関するレポート。1989年に出た本なので、事情は当時のもの。

・二十四時間銭湯のレポート
 NHK特集で「泊まり続ける老人たち」という番組が放送され、氏も現地に行ってみる。
いわゆる24時間銭湯、スーパー銭湯とかいわれる場所を、老人ホーム代わりに使う人たちがいるという。それも百人以上。これを哀れな、と思うかそれもいいね、と思うか。
 個人的にはこんな感じで老人施設不足とか保育園不足とかを補えてもいいように思う。
 取材対象になった施設は現在も健在らしい。
http://www.tokaikenkocenter.com/

・干渉されない場所
 横浜の寿町、東京の山谷、大阪のあいりん地区のような自由労働者の街に、五十代、六十代になって移ってくる人たちがいるという。こうした街は互いに余計な干渉をしない、こうでなくてはならないという規範が無い気楽さがある一方で、生活はきびしい。でも一種のあたたかさもある。一方で豪華ホテルのような高級老人ホームで暮らす人たちもいる。快適であってもお金あってのこと。寿町のような人間的なものはない。

・異国に天国はあるか
 著者が見聞きしたアメリカ、オランダ、スペインなどの例をいくつかあげて、老後の海外移住について、それぞれの国にはそれぞれよさげな場所やシステムがあるが、それは長年培った人間関係あってのもの。お金だけ払って友だちのいない場所へ移り住んでも楽しくはないだろう。今誰も友人がいないというならアリかもしれないが。

・退屈しない暮らし方
 アメリカでは退職後、キャンピングカーであてもなく旅をして暮らす人たちが一定数いるという。病気になったらどうするか、寝たきりや恍惚の人になったら、と心配になるが本人は気にしていないようで、それも一つの生き方ではあるだろう。
 蒸発して家族を捨て、土木作業員をしながら山登りや写真の趣味に生き、そうした生活が続けられなくなったところで焼身自殺した70歳間近の老人の記事も紹介している。

・空っぽの世界
 超一流企業の役職にあった人が、定年退職して取引先に役員待遇で天下り。家族と共に豪邸に住んでいる。そんな人が一年後に自殺する。肩書きが無くなり、自分の影響力が下がったことが嫌だったらしい。娘がそんな父の事を書いた本がある。あっても満足できない人、無くても幸福な人、無くて絶望する人、人はそれぞれ。
 それなりに恵まれて退職しても、何をしていいかわからないという退屈な地獄が続く人もいて、何を贅沢な、と思っても当人にとっては深刻な悩みなのだろう。

・したいことをして生きる
 ある技術者は、都内のいい土地に自宅を構えてその気になれば悠々自適でここで暮らせるが、定年を待たずに退職し無償に近いボランティアで中国に技術指導に行く。さすがに宿泊費などは出して貰えるようだが持ち出しの様子。妻は様子を見に行って、こんなヒドイ環境では暮らせない、と思い東京で暮らす。だが本人は嬉々として働いている。
 中国では還暦を華甲というそうで、このように還暦を過ぎて技術指導をするような人を華甲戦士と呼ぶという。

・わが人生の晩秋をかけて
 戦時中、技術将校としてパレンバンの陸軍燃料部隊におり、敗戦後はシンガポールで強制労働をやらされた男性。現地での日本兵への感情は厳しく、辛い日々だがインド人婦人将校がそっとパンを分けてくれる。これがいつか東南アジアに礼をしなければという気持ちになり、会社でもそのような提案を続ける。ブローカーに搾取される農民が自律できる仕組みを作れないか、みたいな。そして彼の地へ工場長として妻と共に赴任する。

・「受け皿」は貧弱でも
 だが現地では今も反日感情が残り、連れて行った犬が殺され、泥棒も入る。工場前で射殺される人もいる。日本人の慰霊団が来たりすると、挟まれてつらい思いもする。現地の人の働かないで金を欲しがる気質にも悩まされる。だがなんとか軌道に乗せて、5年後に帰国する。
 ついでパキスタンに行くが、ここではパートナーの現地社長が粗悪品を貧乏人に売って設ける、という考え方で合わず、二ヶ月耐えて帰国する。失敗も経験のうち、と現在も様々な土地にでかけているという。

・毎日毎日を新鮮に
 高校生と小学生の男児二人を連れ、家族4人でシルバーボランティアとしてザンビアに渡ったパン屋さんの話。パンは一部の白人の金持ちだけのもので、庶民は塩分の高いトウモロコシの団子しか口にできない。援助物資としていろいろな国の小麦が入るが、現地ではうまく使いわけられないでいる。店も自宅も売って現地に渡る。
 だが治安は悪く、隣家で銃撃戦が起きる。強盗はトラックで集団でやってくるのでガードマンも逃げてしまう。現地の人はボールペンでもサングラスでも勝手に持っていってしまう。

・救援車は来るか
 日本から車を取り寄せるが、部品が狙われ、国境を警備する兵士からも物に飢えている。
英語を話すと敵視される。当時は中国とユーゴスラビアの評判がよかったらしい。車は生活必需品だが、ガソリンスタンドはあってもガソリンがない。サバンナの真ん中でガス欠になる。途方にくれていると現地の少年が偶然通る。大人が近づくと逃げるので、現地の小学校に行っている次男に金を持たせて使いに出す。二人で地平線の向こうへ消え、翌日になる。昼を過ぎて、子供を乗せて救援車がやってくる。60km先から来たという。

・東京は死を待つだけの場所
 家庭を預かる奥さんもたいへん。石鹸も洗剤もクッキングオイルも現地では手に入らない。塩もあぶない。コップもない。牛肉だけ安い。現地の人は羽蟻や芋虫を食べる。テレビにも見るものはなく、自然と家族の会話が増える。設備が古すぎてどうにもならないので、まず現地の人に手でこねて作るパンを教える。200度の熱が必要なのに、窯は古くて160度までしか上がらない。材料の配分を工夫して、160度で焼けるパンを作る。ザンビアでは73の言語があるそうで、指示も5つくらいの言語で繰り返さないといけない。なるべく同じ部族で班を作ってもらう。
 大統領にも感謝され、牧場をやると言われたが断わって3年経って帰国。だが帰国後は仕事が無かった。この人の経験も熱意も、買ってくれる会社は無かったという。

・やりたいことをやらせてくれる
 東マレーシアのコタキナバルで工場を作ってほしい、と華僑資本からヘッドハンティングされる。一年契約だったが結果を出し、スーパーもまかされる。そこに日本からも大手スーパーが進出。日本のスーパーと現地代表として戦うようなはめに。そんな感じで働いている。今は今が大事だという。

・シルバー・ボランティア第一号
 マレーシアのコタバルで、日本シルバーボランティアズの第一号とし行った人が健在で、専門なんか関係ない、博士号があったって、情熱と気力と責任感が無かったら相手は歓迎してくれない、と語っている。自動車整備士として行ったのが現在は農業指導。戦時中は爆撃機の整備員として働き、捕虜となり、インドネシア独立を目指す義勇軍にもいたという。復員して自動車整備業。戦友とインドネシアに慰霊の旅に出たのが、何か手伝いたいと思うきっかけになる。

・専門など関係ない
 日本シルバーボランティアズに登録し、ナウル共和国で自動車整備の指導を2年間。次いで東京電力がナウルに海洋温度差発電の実験プラントを作って実験して撤去するまで駐在員を頼まれ3年間。帰国後こんどはオイスカからマレーシアで農業指導を、という話が来る。ここは全寮制の農業学校のようなところで、地元の農業公団の仕事。ほかに二人日本人スタッフがいて、最年長のこの人がまとめ役。毎年50人が卒業し、既に300人の卒業生がいるという。

・いい土地なら誰でもやる
 だが現実は厳しい。現地は気候もよく、放っておいても果物が実り、二毛作も可能。だが野ネズミやヒルやキングコブラ、ムカデ、サソリ、マラリア蚊、オオトカゲ、大蛇も元気いっぱい。開墾するとわっと寄ってくる。酷暑と洪水の繰り返し。交通や流通も未整備。粘土質の土は農業機械を壊す。
 研修生は気性もおだやかで素直だがその分保守的で、無理に機械化しなくても昔通りの農業で食べてければよい。機械化には借金も伴い、そこで不作になれば重圧になる。そもそも若い人が新たに農業をはじめようとしても農地がない。だから狭い農地の生産性を上げようと農業指導しているわけだが。死ぬまでここで働き続ける覚悟だという。

※日本シルバーボランティアーズという団体は現在も活動しているみたい。ここで紹介されている方のその後を紹介しているようなページは見つけられなかった。
http://www.jsv.or.jp/

・家にじっとしていても
・名誉顧問に聘す
 機械科の出身で、自転車を作る会社の工場長をつとめた男性。オイスカ発足時からのメンバーで、いろいろな国に行くが、特に中国には9年間いたという。兵役で盧溝橋や杭州湾、南京などに分隊長として本人に言わせれば戦わされた。
 当時の中国には無かった様々な自転車を考案する。女性の体格に合った自転車や、農村用の荷台付きで頑丈な自転車。オリンピックの自転車レース用のものも手がけた。
 製造技術を一から現地の若者に教える。戦争の記憶から、謝礼はほとんどとらず、外国人技術者の50分の1くらいの金額で働く。日本の民間人がこんなにやっている、と中国の上層部に届いてくれればいい、という思いだったという。

・いったん言い出したら
 インドにも行く。77歳になっており、遺書を書き、墓地を買って出かけたという。最初の任地だった台湾で宴席での食事の際に中毒を起こし、食事をさせてくれた現地の人が政府からお叱りを受けたことがあり、自分が身体を壊すと現地の人に迷惑がかかる、とそういうものを断り、素朴な食事ばかりとるようになる。
そのような老後もある、みたいに書かれている。

・年齢からも自由に
 「8月の鯨」「黄昏」という二つの映画における老人の姿に対する著者の感相。どちらも80代、90代の役者が老人の毎日を淡々と演じる、という趣の作品とのこと。年をとればとるほど、肉体的年齢と精神的年齢の差には個人差が出るのではないか、みたいに書かれている。

・人生二毛作
 戦前はあるメーカーの工場長までつとめた男性。戦後は追い出され、アメリカの技術水準の高さにじっとしていられなくなり、つてを頼って40代で渡米。工場の雑役夫として横目で見ながら技術を学ぶ。

・畳の上で死ななくてもよい
 帰国後、アメリカの最新鋭の機械を購入したものの使いこなせないでいた企業に招かれて働く。50歳で定年。各地の工場からコンサルタントとして招かれるようになり、70歳まで続ける。残る人生は無料奉仕でいい、と海外へ。韓国、中国。中国には7回招かれることになった。持病はたくさんあり、薬を抱えての海外勤務。畳の上で死ななくてもいいと言う。

・ある老医師の生き方
・七十過ぎの身で、なぜ
・一度限りの人生について
・人並みの道は通らぬ梅見かな
・突然の終止符
 90年前の北海道に、72歳で開拓に入った関寛斎という人について。幕末に千葉に生まれ、4歳で母と死別。7歳で伯母にひきとられる。養父は儒者で、この人のすすめもあって佐倉の蘭学塾に通う。西洋医学を学んで故郷近くで開業。この頃妻も迎える。その後銚子に移り医業も軌道に乗るが、31歳で長崎に留学。オランダ軍医ポンペに学ぶ。1年で学びつくしたと銚子の戻ると、四国の大大名阿波蜂須賀家に藩医として招かれるが、藩主以外からはよそ者扱いされ、藩主もすぐ死んでしまう。鳥羽伏見の戦いとなり阿波藩の縁から官軍の軍医となり奥州へ。治療に実績を上げるが、新政府の方針と合わず辞職。徳島に戻っても周囲と衝突を繰り返しつつ実力で病院長となる。地元の有力者となり、8男4女を得てうち5男2女が成人する。さまざまな書物も出版する。ここから72歳になって全てを捨てて北海道の開墾へ。
 妻と石狩郡樽川に一度落ち着き、妻を残して今陸別と呼ばれる地域に入る。牧場の開墾を目指すが、ヒグマと疫病で馬がほぼ全滅。助けてくれていた四男は兵役に行き、妻は陸別に来ることなく急死。寛斎はそれでもこの地を離れず、83歳で「人並みの道は通らぬ梅見かな」という句を徳富蘆花に送り、83歳で自殺する。敗北のようにも、やるべきことはみなやりつくした、という満足の死のようにも著者には思える。
 十分安穏な老後を暮らせたはずの人が、何故72歳で北海道に渡ったのか。まだ燃え尽きない余熱が身体のうちにあったからだろうと著者は考える。

 この人の奥さんを主役にした小説を、高田郁さんが書いている。



・代議士の身分を捨てて
 著者は関寛斎の生涯からもう一人の老人を思い出す。自分でも小説にしたことがある田中正造翁。この人も60を過ぎてからの人生のほうが壮烈で、地位も名誉も安穏な生活も捨てて野垂れ死にしたのだった。


・全人生を叩きつける老後
 ここまで取り上げてきた老人たちの生き方は凄絶すぎて、とてもついていけないと思いつつ、何もやることがないテレビを見て時間を潰すだけの人生にはない手ごたえがありそうにも思うと著者はいう。社会のために役立ちたい、と思っている老人は多いという。

・自分自身を好きになれば
 著者としてのまとめみたいな文章。老後をどう過ごしたいか。世のためになりたいか。でもその評価が定まるのは自分の死後で、大事なのは役に立ったか立たないかじゃなくて自分が満足したかではないか。世のためになるならぬの前に、世の中とのかかわりを多くして生きることではないか。みたいな。

・自由が溢れている
 老後には自由が溢れている。会社からも、家族からも、時間からも、世評からも、他人の目からも自由。あたらしい経験をしてあたらしい発見もできる。完全燃焼して死にたいなら、余熱をそんなことに使ってもいいんじゃないか、みたいに締めくくっている。
 

城山さんは1927年生まれだそうなので、この本を書いた頃は62歳。当時のサラリーマンの定年の年頃。関氏や田中氏がよりキビしい第二の人生を選んだ年齢に近く、ご自身でいろいろ思うところもあったのだろう。約10年後に奥さんを亡くし、その約10年後に逝去されたが、60を過ぎ、奥さんを亡くされてからも多くの著作を残されている。
 
 
 


コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事