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「老いの才覚(曽野綾子著)」

2018/04/12 19:00 投稿

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・帯には80万部売れたベストセラーと書いてある、老人の心得みたいな本。
著者は発言を巡っていろいろ叩かれたり責められたりしていることも多いような。一方で正しいことを言っている、と評価する向きも。

第一章 なぜ老人は才覚を失ってしまったのか
 「私は老人だから、○○してもらってあたり前」みたいな老人が増えたんじゃないかといくつか例をあげていて、老化度を計る目安は「くれない指数」だと著者は書いている。
 友だちが「してくれない」配偶者が「してくれない」息子娘兄弟親戚が「してくれない」ばかり主張する、老人だからもらって当然、親切にされて当たり前、みたいな考え方では自分の判断力や行動力は衰える一方でしょう、他人と同じサービスを受けられないと損をしたと考え、権利が阻害されたと考えるのはだめですよ、みたいな事が書いてある。
 そういう人が増えたのは大部分が日教組のせいだっても書いてあるのでいろいろ論議を呼ぶのだろう。
 朝日新聞が天皇皇后両陛下に敬語を使わないと宣言した(らしい)ことも醜い発想だと書いている。誰にでも敬語を使うべきだというのが著者の考えらしい。

第二章 老いの基本は「自立」と「自律」
 「自分のことは自分でしなさい」ということを言っている。どんな手を使ってもいいと書いてある。友だちに哀れっぽく頼んでもいいから、自分の才覚で生活を成り立たせろと書いてある。著者は失明寸前になったり、松葉杖を手放せなくなったりした経験があるそうなので、その時その時に自分の力で出来る限りのことはやり、できないことはやらないようにしたみたいな。松葉杖で動ける限りは車椅子には乗らず、鞄が重くて持てないのであれば鞄を持たないことにする。痛みに耐えるのも人生だ、みたいに書いてある。そうした人への愛情は、してあげるのではなく見守ることだとも。早くしろ、みたいにせかさず。
 日本に何人もいない名医にかからねば治らないような難病であれば、その診察を受けるのは若い人に譲るべきだ、ワクチンが限られているのなら若い人を優先すべきだとも。これを老人に強制するとまたおかしくなるけど、老人は自ら辞退すべきだとも。
 食べる量とか睡眠時間とか、自分が抱え込める問題の量とかを把握して、人付き合いがどうこう言われても自分の適量をわきまえて行動すべきだとも。それで調子を崩せば周囲に迷惑をかけるわけだからと。
 この人は性悪説を支持するそうで、そのつもりで生きていればよけいな幻滅もしないし、親切な人に当たれば感謝を覚える。性善説で親切が当たり前と思うと、感謝の心も忘れ、損害も受けると主張している。
 生きている限りは、緊張して生きろ、と書いている。

第三章 人は死ぬまで働かなくてはならない
 ひと昔前まで、人は死ぬまで働くのが当たり前だったけど、戦後のほんの一時期だけ、年金で老後は遊んで暮らせる一時期があった。でももう状況は変わったので、その考えは捨てないとだめでしょう、みたいなことが書いてある。もちろんフルタイムで不眠不休で働けと言ってるわけではなくて、その人の体力と能力に応じて週に二日でも三日でも、午前あるいは午後だけでも。病気とかで働けない人まで働けといっているわけではなくて、元気な老人にはそんな感じの働く場があってもいいよね、みたいな。そして平均寿命を超えたら公職にはつかず、若い人に場を譲るべきだと。その流れで87歳で参院選に出た某高名な女性議員を批判しちゃうんで嫌われるんだろうな。個人商店主などは構わないらしいが、会長とか理事長とか評議員とかは、という意味らしい。また、高齢でそうした職にある人は、倒れて字がかけなくなっても提出できるよう、辞任届けは書いておいて、その人が倒れたら家族などが日付だけ入れて提出するべきだ、とも書いてある。ご主人はそうしていたらしい。
 年をとったら何をしてもらいたいかではなくて、何ができるか、市井でどういう働きができるかが生きがいにつながる、と書いている。それで多少なりとも稼げればなお結構、と。

第四章 晩年になったら夫婦や親子との付き合い方も変える
 50歳を超えたあたりで夫婦で「折衷」をはじめるのがいいと。著者夫妻は好きなことがかなり異なる夫婦だそうで、都会派の夫、田舎で農業をするのが好きな妻、アフリカとか旅行好きな妻、そうでない夫みたいなので夫婦一緒に行動はしない。互いに半分は好きな事をして、半分は妥協する。半分だけ好きな事をできたことを互いに感謝する。行動はバラバラだけど食事は一緒にして互いに経験した事を喋りあう。折衷は楽で便利だ、と書いている。
 子供でも友人でも深入りはせず、私を受け入れてくれたら仲よくしてね、くらいの距離感がいいと書いている。「リターン・バンケット」という、もてなしに感謝の気持ちを表明する慣習が欧米にあるらしい。子供は親を無理ない間隔で訪ね、楽しい話をする。身近な人に感謝をする。
 介護施設にいる老人が、日常世話をしてくれる職員には何の感謝の気持ちも持たず表わさず、まれに訪れる家族にばかり金をやる。長男の嫁に毎日世話になっているのに感謝せず文句ばかり言い、たまに来る次男の嫁にはいい顔をする。毎日自分の世話をしてくれる妻には何の感謝もせず、年に一度来る娘ばかりをかわいがる。そういうのは順番が違うでしょう、みたいな。
 もし、そういう感謝がない親や子供、配偶者を持ったらどうするか。それはもう、あきらめるしかないですね、悪事に走らないだけよしとしましょう、世の中にはどんなに努力しても報われないことはいくらでもありますよ、長く生きたらそのくらいわかるでしょ、とあっさりしている。
 愚痴をこぼしても、恨んでも、なんともならないのだからそんなことに時間を費やすのはもったいない。憎しみを最小限度に押さえて暮らす方法を考えたほうがいいですねえ、と。

第五章 一文無しになってもお金に困らない生き方
 人間は弱いので、お金がないと無用な争いをしがちである、ゆとりがあれば損をすることができる。ゆとりがないと得をすることばかり考えて心をすり減らす、みたいなことが書いてある。
 お金を使う時は常に自分が主人公になりなさい、人にいわれのないお金を出してもらったり、人のすすめを妄信してはいけませんとも。
 次元の低い話ではあるけど、得をしようと思わないだけで心は楽になりますよみたいな。
 方丈記にあるように、人が暮らすには大きな家も庭も必須ではありません、見栄を張ってもバレます、分相応で行きましょうと。
 人間はなんでも思うとおり生きられるわけがないのだから、優先順位を決めましょう。その上から2つできればよし。3つできればラッキー。できないものはあきらめる。やり残してもキニシナイ。やったことに満足して過ごすのと、やれなかったことに不満を持って過ごすのと、どちらが幸せか。
 必要なお金がないなら、やりたい事があってもきっぱりあきらめましょうとも。老年は、これまでできたことを捨てていく時代。これまで一度もできなかったことをできるように願ってもダメ。
 余計なお金は使わない。まず冠婚葬祭を切る。好きな人は行けばいいけど嫌いな人は行かないでかまわない。浮世の義理で何かするのはやめましょう。死んだ人に義理をたてても仕方ない。生きてるうちにやりましょうと。
 貯金が少なくて老後が心配という人がいますが、備えあっても憂いはあります、いつ何が起きるかなんて誰にもわからない。だから一文無しになったらあらゆる人にたかって、誰からも相手にされなくなったら野垂れ死にすればいいだけです、と書いてある。誰も相手をしてくれないのに生きていてもしかたないじゃないですか、と。
 病気になっても治療を受けられず死ぬ国の方が多いのですよ、とも。

第六章 孤独と付き合い、人生をおもしろがるコツ
 一人暮らしの高齢者が増えていますと当時の統計値をあげて、その中には頼れる人が誰もいないという人も増えている、みたいなことが書いてある。お金がなくてもあっても、孤独は多分解決できないでしょう、大きな問題です、と。
 配偶者が死んで一番困るのは、思う存分人のワルクチや他人の秘密や自分の醜悪さを露にしても受け止めてくれる相手がいなくなったこととも。
 本来孤独とは自分ひとりで耐えるしかしかたのないもので、いっそ老年は孤独で普通と思って、皆が孤独なんだから孤独な自分は一人じゃないと考えようとも。
 ささやかで凡庸な人生の偉大な意味を見つけるために、膨大な孤独な時間があるのではとも。
 著者は網膜炎と白内障で失明寸前になったときにも一人で講演旅行に出歩いていた経験があり、きちんと自分のマイナスを告げて頼めば日本のどこでも助けてくれる見知らぬ人がいて、全く困らなかったと書いている。今は昔と違って女性一人でも喫茶店には入れるし、老人一人で電車にも乗れる。一人も決して不便なことばかりではないはず、と。
 その人の生涯がどれだけ豊かだったかは、どれだけこの世で誰かや何かに「会ったか」によるのでは、高齢で一人になっても、「こんなにおもしろいことがあるのか」という経験を増やすことはできますよ、みたいに書いている。

 誰かにしてもらいたい、と思っていると愚痴が出る。老人の愚痴は他人も自分もみじめにするだけ。いいことは一つもありませんし、人を遠ざけます。年を重ねた人は世間の事柄の奥にひそやかな理由があると推測して簡単に怒らなくなるとも。
 すぐ怒る老人は、自分の立場や見方だけに絶大な信用を置く幼児性が残っているのでしょう。誰でも互いにカンにさわる生き方をしているのが普通で、それは良し悪しではなくただ生き方が違うだけ。その違いを笑えればいいですね、みたいな。

 よく政治家が「皆さんが安心して暮らせる世の中にします」とか言いますが、そんなことあるわけない。家の外に出れば、「運がよければ無事に帰れるかも」と思って暮らしてますよ私は、とも。老人のいいところはもし今日何かあってももうそろそろ死んでもいい年なのだから穏やかな気分でいられます。子供が結婚し、家族に対する責任みたいのから解放されたらもっと自由に冒険できるのは老人の特権ですよ、と。

 著者はいくつになっても、気の会う人と男女関係無く集まって食事をしたい、と書いていてこれは同感。特に女性は夫と死別したり離婚したりしてからが楽しい、みたいな人も多いみたい。夫のおかげで自分の人生が開けない、なんて人はそれを楽しみにしてもバチはあたらないかも。著者も失明寸前に追い込まれた時はもう人生に意味がない、みたいに絶望に近い気持ちを持ったらしいのだが、幸い手術が成功して視力を取り戻せた。あの時自殺しなくてよかった、やっぱり最後の最後まで生きないと、とこの章を締めくくっている。

第七章 老い、病気、死と慣れ親しむ
 程度の差こそあれ、老人はみな利己的になり、忍耐力が無くなってゆく。若くても他者への配慮がなくなったらそれが老人なんですよとも。手助けが必要な時は遠慮なく受けて、かといって全面的に頼るわけでもなく、自分の老いたところは素直に認めてやや軽くそれに抗する、くらいでいいのでは、と書いてある。
 著者は50過ぎで膝が痛んでひざまづけなくなり、医者に行っても年のせいと言われるだけだったそうだが、漢方を独学して治したという。偶然かもしれないけど、自分で試せることは試してみる、という姿勢はいいと思う。
 病気にならないために予防処置をいくらしても、病気と無縁でいられないのも現実なので、病気もコミで自分の人生、と考えを切り替えたほうが楽みたいなことも。
 労わってくれない、わかってくれない、みたいに思って生きるよりは、足が痛くても歩けてありがたい、貧乏でも今晩食べるものがあってありがたい、と喜びを探して生きる方がいいですよ、みたいな。そんな話を皇后さまとしたこともあるみたい。

 どんな人の未来も決まってはいなくて、生後7ヶ月で亡くなる健康な子供もあれば、末期がんの人が回復して長く生きたりもする。でもいつか皆死ぬのだけは同じ。
 そしてたいていの人は病気になったり身体の機能が衰えたり不自由になったりして、少しずつ部分的に死んでいく。
 動物だったら歩けなくなっても目が悪くなっても歯が悪くなってもそこで死ぬしかなくなるけど、人間は生きていける。どこかが不自由になったら、死も近いのだなと思って自覚して残りの人生を生きる。でも誰しもやりたいことを全部できずに時間切れで死んでいく。そういうもんなんです、と。
 おもしろい人生を送ったんだから、もういつ死んでもいい、と一日一日思えるならばいいですね、と。
 著者は作家だから、なるべく後に残るものが処分に困らないように原稿などはどんどん焼いているという。文学館など作れば必ず子孫や地元に迷惑になるとも。財産もちょうど使い切って死ぬのが理想だとのこと。

第八章 神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる
 著者はあの世があるかないかわからないけど、あるほうに賭けるという。ここは同感。
 転生輪廻がもしあって、生まれ代わりが本当にあったら、と思うとこの世でどう生きればようかという考えも変わるだろう。来世で会いたい人もいるし。
 著者は敬虔ではないクリスチャンだそうで、私はそうした信仰を特に持たないけど神道的な自然への畏敬みたいのはあるし、わざわざ罰当たりな行動をしようとも思わない。

 配偶者を亡くしても、著者の知人はみなそれぞれに楽しく人生を送っている。それは故人にできることは全部やったみたいな、自分が生き生きしてないと故人がかわいそうな、みたいな気持ちもあるからでしょう、みたいな。

 キリスト教では自分が嫌いな人の中にも神がいると思うそうで、人に意地悪したり喧嘩したりすると神に意地悪したり喧嘩したりしたことになるらしい。だからシスターは相手がずるくても嘘つきでも困っていれば助けるのだとか。赤十字もだから憎い敵であっても助けるのだとか。
 姑や嫁が嫌いなら嫌いでいいけど、好きな人にするのと同じように接しなさい、というのがキリスト教らしい。世界紛争などみているとそうでもない気もするが、理想はそうなのだろう。このへんをイヤな人でも嫌ってはいけない、みたいな教え方をする人もいるけど、それよりはこちらの考え方の方が楽だと思う。誰とでも仲良くしなくていいけど憎みあって殺しあうほど敵対するな、と。

 私にはあれがない、これがない、これっぽっちしか給料や年金がもらえない、だから働くのがバカバカしい、仕事は無駄な時間、みたいな考え方を引き算の不幸というらしい。
 生まれた時は何も持っていなかったんだから、今住む家があって、毎日食事ができて、話相手がいて、わずかでも好きなことをする時間があって、それだけだって勝ち組じゃない、成功じゃない、というような考え方が足し算の幸福というらしい。

 著者は信仰があると、ものごとを複眼で見れるという。聖書には正しい理論の反対も正しい、と書いてあるらしい。
 
 まあそんな感じで、特に徹底的に嫌われるほどではないと思うけど、時々朝日新聞とかに対する攻撃的な文章も混じるので、そういうのが絶対に許せない人からは不倶戴天の敵扱いされちゃうんだろうな。
 仕事の途切れないものかきとして暮らしている人なので、一般人からみればずいぶん恵まれている人が上から言っているように感じる面もあるような気もするけど、政治的なことはちょっと置いといて、老いや病、孤独に対する考え方には参考になることもあるように思う。

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