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「武士の家計簿(磯田道史著)」メモ

2017/08/19 19:00 投稿

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  • 武士の家計簿
  • 磯田道史
  • 江戸


・古くは「元禄お畳奉行の日誌」、最近では「ブシメシ」など、実在した無名の武士が残した記録をベースに現代人向けに読み解いたような本が時々話題になったりする。これもそういう系統で、話題にもなり映画にもなった。「武士の献立」という映画もあった。
 「武士の家計簿」は映画は見たが原作は読まず、今回ようやく読む機会を得た。

 映画の方はあまり印象に残っていないのだが、借金を軽減するために父と母が嫌がるものも含めて徹底して財産を売り払うシーンと、子供の祝いに鯛を出せずに絵で描いた鯛を出すところなどが記憶に残っている。
 後半は一気に長い年月が過ぎ去るような構成だったような。

 著者が神田の古書店で15万円で購入した温州みかんの箱に入った古文書一式は、天保十三年(1842)から明治十二(1879)まで、約37年にわたる入佛帳、今で言う家計簿で、日記や書簡も含まれ、合わせて読むことで当時の武士の暮らしの様子が浮き彫りになるという。そこには通常江戸時代の武士に対して持っているイメージとかなり異なる姿も見えて来る。世の中に唯一存在する資料が著者のような専門家の入手するところになり、きちんと読み解かれて広く世間に知られるようになったのは奇跡というか僥倖というか。

 江戸時代というと、士農工商の身分制度があって、武士はいばっていて、斬り捨て御免、なんかもあって、百姓や町人は小さくなって暮らしていた自由のない暗黒の時代、なんてイメージがある。
 また、女性の権利というものは全く無くて、女は嫁に来れば姑にいじめられて、子無きは去れ、で子供を生む機械のようだった、女性の人権が無視された時代、というイメージも。
 武士は家柄が大事で、個人の職業選択の自由などなく、いやおうなく家を継がねばならず、一方長男でなければ能力が優れていても家を継ぐ事はできず、妻帯もままならず鬱屈した人生が続くというイメージもある。

 この本はあくまでも武家の生活というのはどのようなものだったか、というのを家計簿から読み解こう、という目的で書かれているが、そこにどのような支出が重視されているか、というところから当時の価値観もうかがえるということになる。そこがまた面白い。

 家計簿を残した猪山家の系譜は、次のように書かれている。
初代 猪山清左衛門 
    前田家の菊池右衛門という千石取りの藩士に仕え、家政をつかさどる。
   つまり前田家の直臣ではなく陪臣だった。慶長十(1605)年死去。

二代 十兵衛

三代 伝兵衛 生涯独身。養子豊祐をとって家を継がせる。

四代 豊祐(とよすけ)

五代 市進(いちのしん)
    享保十六(1731)年、前田家の直参となる。御算用者としての採用。

 ということで、藩主前田家の家来の家来という、武士とはいってもあまり上級ではなく、
百姓町人とも通婚したりと質素な暮らしだった陪臣の身分から、五代目市進の代になって前田家の家来となる。子会社から本社の正社員に抜擢されたような栄転である。
 武士の世界は身分家柄がものをいう世襲の世界。だが算術に優れた者が求められる御算用者、ソロバンをはじき帳簿をつける、およそ武士らしからぬ特殊技能を持つ者は、家柄が高いから出来がいいとは限らない。また当時は算術をいやしいものと考え、上級武士は敬遠する傾向もあった。
 ということでソロバン関係の職は身分制の風穴となっており、身分が低くとも実力があれば上にいけるということになっていたという。御算用者も世襲制ではあったが、実力があればどこかの家に養子に入ってやっていけ、実子が算術に優れなければ養子の方が家を継いだりもしたという。
 ヨーロッパでも似たような傾向があり、軍隊の将校は貴族であっても、砲術や地図作成などを受け持つのは平民出身の数学的能力に秀でた者たちだったという。

 江戸時代は士農工商の厳しい身分制社会ではなく、猪山家のような陪臣や庄屋のような上級農民が実務能力を武器に藩の行政機構に入りこみ、影響力を持っていったという。

 五代 市進は切米四十俵の俸禄を得る。暮らしていくのにギリギリの収入だったというが、やがて2人の息子が御算用者として採用され、四十俵×3人の収入が得られるようになり一息ついたという。これも一つの家から御城に上がるのは当主と嫡男だけ、次男以下は長男より優れていてもブラブラするか他家に養子にいくしかないという武士の原則にあてはまらず、能力があれば一つの家から何人でも役所に出仕できるようになっていたという。

 前田家の直臣となった猪山家はさらに代を重ね、出世していく。武士の家計簿を残したのは市進の次男・左内綏之(やすゆき)で、以下のように続いていく。

六代 左内綏之(やすゆき)
    明和七(1770)年に御算用場の見習いとなり、翌年には御算用者に正式採用
   される。天明二(1782)年には隠居した前藩主前田重教の「御次執筆」、つまり
   書記官に抜擢される。また、娶った妻の父は御算用者の小頭、弟は加賀藩屈指の
   数学者・和田耕三だった。
    重教の死後は地味な租税や藩士の給与計算の仕事を続け、文化五(1808)年には
   40俵から50俵に加増。文政元(1818)年に退職して隠居、同十二(1829)
   年に病死。

七代 金蔵信之(のぶゆき):映画では中村雅俊さんが演じた
    綏之の婿養子。寛政三(1791)年に十六歳で養子に入り、四年後に御算用場に
   入り、寛政九(1797)年には正式採用、40俵を支給される。
    文政四(1821)年、四十六歳で「加賀百万石の買い物係」となり江戸詰となる。
   一度金沢に戻るが文政十(1827)年に再び「御住居向買手方御用ならびに御婚礼
   方御用主付」という役を命じられ江戸詰となる。
    これは現在東京大学となっている本郷の加賀藩前田家の上屋敷に将軍の娘である溶姫
   を藩主前田斉泰が妻に迎えることになり、赤門建設ほか婚儀にかかわる物品購入を一手
   に引き受けるというもの。おそらく激務であったであろうこの職務を無事にこなし、
   褒美として領地を与えられ、70石の領主となる。これも破格のことらしい。
    そして同時に、藩主の妻で将軍の娘である姫様のソロバン役という事になる。
    だがこの仕事をするためには江戸詰ということになり、交際費など出費が増える。
   職務内容と報酬が必ずしも吊り合わない江戸時代の制度の欠陥により、真面目に
   勤めれば勤めるほど借金が増えるという悪循環に陥り、猪山家の財政は悪化していく。

八代 弥左衛門直之:映画では堺雅人さんが演じた

   信之の四男。天保元年に見習いとなり、わずか七ヶ月で本採用になる。このとき
   十八歳。天保九年には二十六歳で藩主の御次執筆役、つまり現職藩主の書記官になる。
    だが百万石の藩主に対し、直之の俸禄は四十俵である。
    そして「武士の家計簿」の元となった記録を取り始めたのはこの八代目で、七代目が
   江戸詰めになったことにより借財がかさみ、もはや放置できない危険水準に達していた
   からだという。
    天保十三(1842)年、もう十年もすれば黒船が来る頃に家財の大部分を売り
   払い、二度と借金を背負わないように家計を管理しようと、家計簿をつけはじめる。
   売却額は先ほどと同じような換算で1025万円ほどになったという。

九代 左内成之:映画では伊藤祐輝さんが演じた。
    十一歳七ヶ月から見習いとして出仕し、十三歳三ヶ月で正式採用となる。
   満十七歳四ヶ月で婚約。相手は父の兄の娘、つまりイトコで子供の頃から一緒に遊んだ
   相手だったという。

 以上の系図に関連して、いくつか武士の常識について興味深いところがある。武士の世界は身分家柄がものをいう世襲の世界、と最初に書いたけど、猪山家の七代目は婿養子。
 この婿養子をとって家を継がせる、というのは日本的な制度で、中国や韓国ではすくないらしい。加賀藩士の場合、実子が家を継ぐ確率は57.6%で、3割が他家から入った養子だという。世襲には違いないのだろうが、一子相伝みたいな印象とはちょっと違う。
 考えてみれば将軍家も必ずしも直系でリレーされたわけではない。
 また、八代目は七代目の四男。必ずしも長子相続というわけでもなかったらしい。こうした専門職のような家柄の場合、実力主義のところがあったらしい。

 また、猪山家は途中で領地を与えられるが、武家と領地の関係についても著者は指摘していて、自分の領地に直接出向いたり、支配したりするわけではなく、領地の管理は領主である藩士ではなく、藩の官僚機構がやることになっていて領民の裁判ごとや年貢の徴収など面倒ごとは全部この官僚機構がやり、領主は年貢米だけもらえばいいことになる。
 今でいえばマンション投資のオーナーみたいな感じだったのかもしれない。
 それだけ領主と領地のつながりは薄く、これが明治維新の際に武士が簡単に領地を手放したことにもつながるのだろうという。一般にいう封建制とはかなり異なるところがあるみたい。
 そしてこういうことができるためには官僚機構に算術に長けた人間が大量に必要となり、特に算術に力を入れた加賀藩は「御算用場」というものを持っていた。

 江戸時代のお金を現代の価値に換算するとどのくらいになるか、ということも著者は試算
しているが、何を基準にするかによって大きく結果が異なるらしい。石高から米の価格として
単純計算すると借金整理を思い立った時の直之の収入は父親のものと合わせて米7.7トン
程度、200万から250万程度にしかならない。
 一方、大工の手間賃など職人の収入を基準に計算すると一両三十万円くらいになり、父子で1230万くらいになるという。こちらを基準に考えて、負債総額はこの倍ほどになり、利息だけで年収の三分の一が持っていかれる状態だったという。

 その負債をどこから借りていたか、という考察もこれまで知らなかった話で、よく時代劇だと無名裕福な商人や高利貸が出て来るが、猪山家のような下級武士は相手にしてもらえない。ではどこから、というと同じような役職の同役の武士や、親戚などから借りていたらしい。武士の婚姻が相手の家との釣り合いや格式を重んじる背景には、あまりに身分が違うとこうした借金を互いにできなくなる、ということもあったらしいと著者は指摘している。

 こうした知人から借りた借金というのはなかなか踏み倒すわけにもいかず、顔見知りの癖に金利は高く、金利の高さは担保がとりにくいということもあったらしい。
 映画では仲間由紀恵さんが演じた新婚の妻は大部分の着物を売り、松坂慶子さんが演じた母も衣服を売り、直之は商売道具の本を売り、父信之は茶道具を売り、それでも借金完済には足りなかったが彼らが覚悟を示した事により妻の実家から無償で返済原資を提供されたり、大口融資先と交渉して四割を即時に返す代わりに残学は無利子で十年かけて返す事にしてもらうなどして利払いを無くし、なんとか残りの借金を返済していく道筋をつけたという。

 著者はそんなに借金をして、武士は一体何にお金を使っているんだろう、ということも調べている。すると、生活が苦しく食費も衣服も圧縮している中で、祝儀交際費や儀礼行事が全く圧縮されていないことがわかる。つまり「武士身分としての格式を保つために支出を強いられる費用」が、最低限の生活を送るのに必要な費用を10とすれば8くらいの比率でかかってくるのだという。これをしなければ武家社会からはじかれてしまう、身分に伴う経費のような、「身分費用」ともいうべきものがばかにならないという。明治維新の際にすんなり武士の身分を捨てたものが少なくなかったのも、この身分費用の重圧のためではないか、と著者は言っている。

 猪山家の支出の3分の1がこうした祝儀交際費で、支出先は親戚との交際が65%、同僚が25%、残りが町方や知行所との交際と書いてある。何も無くても年中家来や下女を伴って(この家来の人数も、身分によって最低何人雇わねばならぬと決まっている)互いに訪問しあって、お金を使っている。さらに葬式や婚礼、病気見舞いなどがあればそれにもお金が必要になる。だが一番お金がかかったのは「通過儀礼」だという。例えば元服みたいな、ある年齢になると行わねばならぬ行事みたいな。現代でいう七五三みたいなものが、箸初・髪置・着袴(袴は武家のシンボルで、平常は百姓が身につけてはならぬもので、この儀式は大変重要だったらしい)・角入・前髪など様々に存在しており、子供を授かると 着帯、出産、三つ目、七夜、初参詣などの行事が立て続けにあってそれぞれ費用がかかるという。
 武士はこうした通過儀礼を行う事が社会的な身分の証みたいになっていて、なかなか一人だけ逆らうわけにはいかなかったらしい。親族の誰かが罪を犯せば一族全体に責任が振りかかることもあり、親戚同士、傍輩同士の付き合いは重要で、作法やしきたりを教えるのもこの親戚間で行い、跡継ぎを決めるにも親戚の意見は重要で、親戚が後見人となって出世の面倒を見る、ととにかく親戚付き合いは重要みたい。
 また武士の収入というのはご先祖様のお手柄によっているようなものなので、先祖に対する祭祀もやらねばならない。現代の感覚で年18万円くらい使っていたらしい。
 一方で当主の小遣いは月6000円弱くらいだったらしい。家来の方が自由になるお金は多かったらしい。

 そんなわけで、江戸時代の一揆とかは俺たちにも身分をよこせ、ではなくて生活が苦しいので年貢を下げろ、みたいなもので、西洋の革命みたいなものではなかったらしい。
 圧倒的な勝ち組を作らないというのが江戸の仕組みで、武士は商人でなくて良かった、商人は百姓でなくて良かった、百姓は武士でなくて良かった、などと、どの身分であっても何かを持っている代わりに何かが無い、みたいな三すくみかジャンケンみたいな関係だったみたい(士農工商だと4すくみだが)。

 一方で女性は財政的にも虐げられていたのかというとそうでもなく、けっこう当主と同じくらいの小遣いはもらっており、一番小遣いを使っているのはいわゆるおばばさま、当主の母親だという。嫁入りした段階ではたいへんだが、辛抱して子を産み、子が成長すると立場が強くなっていくという。

 また女性は嫁入りしても一般には実家との関係は切れず、実家からもお小遣いを定期的にもらっていたりもしたという。また夫と妻の財産というのは基本的に別勘定で、猪山家の当主は家計簿に「妻から借り入れ」などと書いているという。第一子は嫁の実家で生み、第二子以降は嫁ぎ先で産むなどという慣習もあり、第一子の出産費用は嫁の実家持ちだったりもしたらしい。墓にも、嫁の実家の姓が刻まれたという。このへん農家の嫁と武家の嫁はかなり違ったらしいが、農家の嫁のイメージをそのまま武家に当てはめている創作も多い気がする。
 ただ家や地域によって異なるかもしれないので、今後の調査課題だとも。

 これには現代と違って寿命が短く、妻とは死別することも多く、思っている以上に離婚も多かったので妻の財産は独立勘定にならざるを得なかったともいう。ある統計では20年連れ添った夫婦は全体の四分の1もいないといい、四割が離婚しているという。また離縁した女性もたいていすぐに再婚しているという。漠然と思っている封建時代の女性像とはかなり異なる記録が残っている。

子供の教育にお金がかかるのも今と同じで、成之の教育のために一度売り払った机や文箱、硯や墨や筆や紙を買い揃え、手習い塾へも通わせる。武士だから剣術道場にも。さらに和算塾へも通い、父や親戚からも学んだらしい。
 藩の御算用者になるためには「筆算御撰」という試験に合格せねばばらず、藩校ではなく家庭内で英才教育をしたらしく、十一歳七ヶ月で見習いとして出仕するようになる。
 十三歳三ヶ月で本採用となり一人前の大人扱いとなり、十七歳四ヶ月でイトコと婚約。
 ここも面白いが、婚約から結婚に至るまでに、未婚と結婚のどちらでもないグレーゾーンみたいな「結婚しつつある状態」が存在し、互いの家を訪問しあったり同居したりしてこの結婚に無理がないかを確かめる試行期間みたいのがあって、その間に縁が熟せば結婚ということになったらしい。これも初耳だが相性を時間をかけて確かめるというのは悪いことではないかも。十八歳で縁は熟して結婚の運びとなり、二人は離婚することもなく二十四年間、妻が死去するまで一緒に暮らしたという。

 成之は欲がなく正直で藩主や同僚にも愛され、幕末の動乱の時代になっても自ら政治的野心を抱くことなく誠実な勤めを続け、将軍家から前田家に輿入れしてきた姫の秘書官としてなみなみならぬ手腕を見せ、さらに徳川慶喜方に立った加賀藩の兵站責任者として京都へ行き、敗軍の責任者に成ったにもかかわらず、今度は彼の事務方の才能を聞いた新政府に呼び出されて大村益次郎の軍務官会計方として活躍したという。
 直属の上司の益次郎が暗殺されたため新政府では出世しなかったが、彼の死後も誕生したばかりの日本海軍の会計を担当することとなり、財務面での海軍育ての親みたいな感じらしい。

 父である直之も、息子である成之も、江戸へ単身赴任した期間が長く、この間金沢の家族と多くの書簡を交わしており、これが当時の社会の変化を知る上で非常に貴重な資料になっているという。猪山家の親戚の消息が、そのまま没落していく武士と生き残っていく武士の生活の記録みたいになっているらしい。また、士族の忠誠の対象がどのように藩主から皇室にうつっていったかなども垣間見えるという。

 成之は最終的に呉鎮守府の会計監督部長として退役。三人の息子も海軍に入り、長男は大佐まで出世し、次男も本部の技官となるが三男は日露戦争で死亡。戦死ではなく自殺だったらしい。25歳だったという。また妹の息子である甥はシーメンス事件に巻き込まれて官界を追放される。
 成之は妻の死も、末子の死も甥の失脚も見届けて七十七歳で、大正九年まで生きて世を去ったという。
 子孫が現在もおられるのかよくわからないが、こうした文書が古本屋に出たということはそれなりに察せられるものがある。

 この本は映画ではわからなかったこと、特に江戸時代の武家の姿がテレビ時代劇のそれとかなり異なるものを持っていたらしいことが多く書かれており、たいへん面白かった。

 資料的価値のある表なども多数収録されおり、興味がある人は必読ではと思う。

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