メタ坊のブロマガ

水野英子さんトークイベント「トキワ荘の思い出…U・マイアのこと」

2016/08/02 19:00 投稿

  • タグ:
  • 水野英子
  • トキワ荘
  • U・マイア
  • 赤塚不二夫
  • 石森章太郎
  • マンガ
  • 漫画
「描く!マンガ展」というイベントが川崎市市民ミュージアムというところで開催されていて、その関連イベントみたいな感じで、トキワ荘の一員であった漫画家、水野英子さんのトークイベントがあった。




 対談形式で行われるとのことで、お相手は水野さんを上京させた張本人でもあるらしい、「マルさん」と呼ばれて出版会では有名人であるらしい 講談社で少女クラブなどを担当した
丸山昭さんという方の予定だったのだが、体調不良ということで欠席され、急遽ヤマダトモコさんという方がピンチヒッターで出られていた。フリーのマンガ研究者という事だったが、この市民ミュージアムに勤務されていたことがあるらしい。急なことで準備もろくにできなかったのではないかと思うが、私は楽しませてもらった。丸山氏の体調回復もお祈りしたい。


 本番中の写真撮影はNGとのことでしたので、開始前に撮った写真。

 主題はU(ユー)・マイアについて、とのことだが私はU・マイアそのものを知らなかった。石森章太郎さんと赤塚不二夫さんが いずみあすか というペンネームで合作をしていたのは有名だが、そこにもう一人、水野英子さんが加わったのがこのペンネームということらしい。当時の読者はそんなことは知らなかったんだろう。

 いろいろ調べて補いながら書くと時間ばかりかかってしまうので、当日の対談で私がメモした内容に従って書いていきます。
 トキワ荘は1952年に建てられて、翌年に手塚治虫さんが入る。手塚さんを慕って石森(後に石ノ森さんに改名しますが、このブロマガでは石森名義にします)、赤塚、藤子不二雄さんなどがここに集まって来るいきさつやエピソードは、様々なところでいろいろな方が描かれているが、水野さん曰く、みんなサービス精神が旺盛な人たちだから面白くしようと思って嘘も書く。するといつの間にかそれが本当になっちゃう、というのもあるそうだ。
 例えば水野さんがトキワ荘を出るいきさつについて、石森さんは著書でいつの間にかいなくなっていた、なんて書いたらしいが、それはウソで 石森さんと赤塚さんはちゃんと見送ってくれたとか。
 ただ、出ることになった理由は言わなかったそうで、その理由というのが、三ヶ月で帰る、と家には言ってきたのが、楽しくてついつい家への連絡も忘れて(当時は電話は無いも同然で電報か手紙だけ)長居してしまい、祖母から編集部に娘はどうしているのか、と問い合わせの手紙が届いたのが帰るきっかけになったとか。これも本日はいらっしゃらなかった丸山さんは著書でもっと大げさに書いているそうだが、それもウソとの事。娘を返せ!みたいな手紙が来たわけではなく、様子を尋ねる手紙が来たので帰ることにした、という感じらしい。
 水野さんがトキワ荘に入ったのは1958年の3月、出られたのが同じ年の10月。約8ヶ月で、そう言われるとどなたがその時期に入ってどの時期に出たのかなんかはあまり気にしていなかった。一番最後までいたのは石森さんで、1963年までいたそうだ。
 名前のあがる全員が4年も5年もいたような気がしていたが、結構短かったんだなとも思う。
 上京当時の水野さんが18歳、石森さんが19歳から20歳、赤塚さんが21歳から22歳だったそうだ。石森さんのお姉さんはこの4月に24歳で亡くなっていて、水野さんと石森さんのお姉さんはひと月ほどトキワ荘の滞在期間が重なっている。石森さんがお姉さんにきついことを言っている姿なども見たらしい。
 当時のトキワ荘というのは、みんな部屋の扉を開けっ放しにしていて、いつでも誰でも出入り自由だったそうで、本人が留守でも開けっ放し、テレビやステレオを持っていた石森さんの部屋に水野さんが勝手に入ってテレビを見たり、といったこともあったそうだ。
 U・マイアとして発表された作品は3つ。「サムソンとデリラ」を下敷きにした「赤い火と黒かみ」、「アイーダ」を下敷きにした「星はかなしく」、そして「くらやみの天使」。これはオリジナルなのかも。これらは電子図書であれば今でも購入できるようだ。くらやみの天使だけは、何か石森章太郎全集みたいな箱入りの本で読んだことある気がする。ニコニコ市場に無いので、アマゾンの画像だけ貼る。無料サンプルも少し見れるので興味のある方は。



 合作はどんな分担でやったのかというと、全体のストーリー構成と下書きを石森さんが考えて、主役の男女が水野さん、花とか背景とかが赤塚さん、石森さんはある時はライオンを描いたり、ある時は石像を書いたり、と自分が描きたいところをチャッカリペン入れしちゃっていたという。下書きといっても人間は顔のところがマルで身体が三角、程度のもので水野さんはこの人物は男?女?などと解釈に苦労したそうだ。
 また群集シーンなどを手塚治虫さんの影響で描く事も多く、そんな時はモブを3人全員で手分けして描き、モブの顔を自分達や編集者の似顔絵にしたり、というお遊びもしたそうだ。

 石森さんは実験的な手法、大胆な手法を常に試す人で、U・マイアとしての活動の中でも
本来横長であるべき画面を縦に入れたり、見開きの右下に小さく砂漠に追放される主人公を書き、画面の大部分をスクリーントーンを効果的に使用したハゲタカの影で埋めるなど 非常に印象的な構図を生み出していると、いくつか例を上げて解説していたが、そう言われるとあらためてその凄さに気付く。
 赤塚さんは花畑や背景、群集などを担当するのが常だったが、背景だけのコマでも一枚のイラストとして成立するようなセンスを発揮し、非常に面倒くさい、個性が出しにくい山や樹木、建物などを写実的なタッチで黙々と描いている印象。
 作業中、水野さんと差し向かいでちゃぶ台に向う時は さりげなく電気スタンドの位置を水野さんが書きやすい位置に置いて、自分は手の影が原稿に落ちてしまう体勢で描いていたという。
 当時の写真も紹介されたが、後年のイメージからは想像がつきにくい美男子で、それでさりげない気配りができ、料理や片付けなんかも得意だったとのことでモテたろうと思う。
 赤塚氏美男子説というのは何度も聞いた事があるが、後年の変なオジサンイメージにどうしても引きずられてしまう。当時を知っている人から見ればなおさら信じられないかもしれない。
 U・マイアの第1作は水野さんが上京する前、電話が一般の家には無かった時代で、電報と郵便で打ち合わせを行い、原稿をやり取りしていたとのことで、1957年の秋から製作をはじめたものが2月発売の雑誌に掲載された、というペースだったらしい。
 電話は国道を挟んだ商店にあったらしいが、どうしても電話で話さないといけないことができるとまず電報が来て、いついつ電話します、と書いてあって、いざ電話が来ると商店のおじさんが道路を走って渡って知らせにきてくれる、みたいだったらしい。
 これはあまりに非効率、ということで雑誌社がお膳立てする形で水野さんが上京。これで作業効率は上がり、三人が一部屋で作業したりもできるようになるが、先に述べた群集シーンのようなお遊び的な部分に時間を費やしてしまう面もあったとか。つまり3人で合作すると1/3の労力ですむ、なんてことは全然無くてかえって労力も時間もかかったみたい。
 水野さんが上京しての2作目は80ページ?くらいの別冊付録として発表され、水野さんが祖母の手紙で帰らざるを得なくなると、石森さんは大部分を自分で描いてしまうようになり、3作目の「くらやみの天使」は水野さんの参加シーンは多くなかった印象。
 さらに各自自分の仕事が忙しくなり、水野さんも翌年再び上京する(この時はトキワ荘には入らず、講談社とトキワ荘とほぼ等距離に下宿を構えてトキワ荘に通ったとのこと)が、合作はもう行わなかったみたい。みんな自分の事で精一杯、という売れっ子になっていた。
 以前はみんな暇な時間もあって互いの部屋に遊びに行ったり、誰かがピンチの時は手伝ったりしていたが、遊びに行っても編集さんなどが詰めていて話もできない、なんて感じになっていったらしい。

 U・マイアの活動だけをしていたわけではなくて、三人ともそれぞれの連載を持っており、それらは全て少女マンガだったという。この頃の少女マンガは男性が描くもので、ちばてつやさんや松本あきら(後の松本零士さん)、赤塚さん、石森さん、トークショーでは名前があがらなかったが横山光輝さんなどが描いており、水野さんあたりから少女マンガを描くのは女性、と変わっていったらしい。
 当時の少年雑誌はまだ絵物語が主流で、巨匠が固めており、新人マンガ家が入り込むには敷居が高く、男性作家も活躍の場は少女雑誌にならざるを得なかったそうだ。

 また、スクリーントーンを使い始めたのは手塚治虫さん、というのが定説になっているが、最初に使ったのはトキワ荘とも縁があった永田竹丸さんで、それがトキワ荘の仲間に広がったのがはじまりで、石森さんはやはりスクリーントーンをふんだんに使った印象深い作品を残しているという(使用例を見せていただいたが作品名はわからなかった)

 水野さんは何度も赤塚さんの背景の上手さについて、石森さんの構成力や冒険心(大胆なコマ割の例をいくつか紹介しながら)に言及されていた。

 ヤマダさんが、田中圭一さんが赤塚さんの絵は模写が難しい、線に細い太いのメリハリがある人は真似しやすいが、赤塚さんの線は一定の太さなので難しい、みたいな話をしたが、水野さんは田中さんをご存知無かった様子だった。

 私は水野さんの作品は読んだ事がないのだけど、この機会に読んでみようかと思って、売店の「赤いくつ」復刻版というのと、マンガではないが「Uマイアって誰?」「トキワ荘日記」というのも買ってみた。こちらにもほぼ今回のトークショーにあったエピソードは入っているようだが、ちょっと読んで トークショーで聞いた事と、これらで読んだ事が混同しそうだったので、先に当日とったメモからレポートを書くことを優先することにした。なのでまだこれらはきちんと読んでいない。

 メモの内容からは以上だが、あと思い出せることを書くと、本木雅弘さんが寺田ヒロオさんを演じたトキワ荘の青春という映画で、(この日午前中に上映していたが私は見ていない)寺田さんが寂しそうにトキワ荘を去るシーンがあるそうだが、実際には結婚して出たのであって、出た後も毎日のように様子を見にきたりしていたので寂しそうに去ったのはこれもウソです、と水野さんは言っていた。後にペンを折り隠遁生活に入ったのでどうしてもそういうイメージが重なってしまうのでしょうがウソです、と。

 私がトキワ荘について見聞きしたのは、主に藤子A氏の「まんが道」とそのドラマ化(銀河テレビ小説)、つのだじろう氏の「その他くん」にトキワ荘の事が出てきたのを読んだような記憶があるのと、石森さんの書いた文章だったか漫画だったか、で他の人が書いた証言みたいのはあまり読んでいないし、さほど熱心に記録を調べてもいない。
 だからなんとなく 面白くしたサービスの話を本当に思ってしまうことはあるだろう。
 水野さん自身も、U・マイア第一作を描いている石森さんの姿を見ていて、背中から覗き込んだその時描いていたページまで記憶にあるのに、どう考えても記録を調べるとその時期東京にはいなかったはずだ、あんなにはっきり覚えているのに記憶が間違っているらしい、という経験があるそうだ。
 歴史的真実を語るのがいかに難しいか、ということかもしれない。
 私も幼なじみと話す機会がもしあれば、いろいろ記憶に齟齬があるのだろうな。

 また終わりごろに水野さんが取材を受けて、カメラの前で原稿を描く様子が映ったが、見開きのページにわたる微妙な曲線を、雲形定規を使わずに一気にフリーハンドでひいていた。
 今はコミスタとかクリスタとか、漫画用のソフトのおかげでいくらでも正確な線がひけるのだが、フリーハンドの線の魅力みたいなものは紹介されたU・マイア作品でいろいろ感じるところがあった。

 だいたい覚えているのはそんなところ。何か思い出したら付け加えるかもしれないし、別のページを作るかもしれない。

コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事