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親しみ世界ー私の分身

2019/01/14 00:30 投稿

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●荒川「人は体を失っても、その景色の中に居たという記憶と現実とで、また別の形で存在したときにそれを感じ取ることができる」[1]

・とにかく、知覚、感覚が再現される状況を形成する。そのための作品とは何か、を探求する。

・しかしすぐに俺は、「そのような『知覚再現の状態』は、何かを『作る』経験を通じて、そしてその制作後、再度その制作物と関わった際に生じ易い」と気づいた。

・つまり「親しみの生成」である。そう、なんでもいいのだ、作るものは。とにかく何か一生懸命苦労して作り上げたものに対してなんらかの「親しみ」を覚えた経験は、誰にでもあるのではないだろうか。

その「親しみ」は、なぜ生じるのか?作られたその制作物が、「私と親しい」状態となっているからだ。

「私が知覚した知覚」が、その制作物に宿っているのだ。「親しみ」の生成とは、「私の知覚の再現」のことである。

・しかししかし、本当の問題はその後だ。「いかにして、『常に作り続ける生き方ができるのか』」そのような動き方を、考えなければならない。荒川は、「僕たちが食べたり飲んだり歩いたりすることは、全部建築することなんだよ」と述べた。[2] 

未だ、この実感に至れないのだ。

河本からヒントをもらおう。彼は「作動をつうじておのずと区別を行う」[3]という、オートポイエーシスシステムの性質を述べた。

動けばすでにクリーブ(荒川の言葉:切り閉じ)が起きる?どうやら荒川の言葉も河本の言葉も、かなり一般的な話まで拡張できる内容を述べているようだ。つまり哲学的だ。勿論、普通の哲学ではない、血の通った哲学なのだが、しかし実感しにくい。

・結局必要なことは、「肉体の運動が、いかに存在の生成と関わっているか」それを実感することだ。それがつまり

④自らの「建築している動き」を経験する(確認する)ことであり、

③世界すべてが「私の作ったもの」と認識され、

②世界すべてが私にとって親しみのあるもの(「私の知覚」と似たもの)となり、

①私が世界となり、世界が私となる ための出発点となるのだ。

・そのために、「ズレ」や「破綻」が必要なのだ。とりあえず当面は。

※とりあえず、「日常生活『すべての』動きが」制作的であるということを実感したい、と思ってしまったがためにこんな面倒なことになってしまっているのは疑いようがない。



[1] 「CASA BRUTAS」マガジンハウスブック 1996 p.106

[2] 「荒川修作の軌跡と奇跡」塚原史 NTT出版 2009 p.250

[3] 「遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」展 河本英夫 奈義町現代美術館 2005 p.18 


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