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城巡り37~大洲城(再訪)

2016/09/06 00:43 投稿

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さて、四国城巡りの旅第3弾は大洲市にある大洲城です。

大洲城


前回の記事はコチラ

今回移動がハードスケジュールだった為、
天守閣や三の丸南櫓については前回の記事をご覧下さい。

今回も主に城の「縄張り」について語りたいと思います。
この大洲城の縄張りを作ったのは前々回の今治城の城主であった
藤堂高虎である事は以前にも述べました。

四国には高虎が縄張りを担当した城は全部で

・大洲城(1595年完成)

宇和島城(1601年完成)

今治城(1604年完成)

の3城あります。

今治城は言わば平城における「高虎流築城術」の原点であるのに対して
この大洲城は四国における初めての築城であると同時に、
山城における「高虎流築城術」の原点ともいえます。

これ以前にも高虎は猿岡山城と和歌山城の2つの山城を築城していますが、

岡山城は石垣を含めて遺構が殆ど残っていない

和歌山城に関しては浅野幸長と徳川頼宣により大幅な拡張、改修を施されている

事から築城当初から残る‥とは言い難い物があります。

それに対してこの城は後に脇坂安治により天守を始めとする建造物は建てられましたが
基本的な城の構造、縄張りに関しては殆ど高虎時代のままであり、彼の築城意図が伺えます。

今治城の記事でも書きましたが、高虎の築城に関する特徴は

①城の構造自体は山城を基本とする(後に平城も手がけますが…)

②堀も作るが堀の代わりにを利用する

③高石垣をよく用いいる

④馬出や搦め手を重要視する

が挙げられます。

①は言うまでもないですが、大洲城におけるこの特徴は②です。
大洲城は南から西側にかけては三重に堀をめぐらせていますが、
北東方向に関しては愛媛県西部を流れる肱川を利用して堀の代わりに用いています。

縄張り


この肱川、江戸時代は元より平成に入った現代においても猛威を振るう

      暴れ川

でもあります。
本来であれば、城内にも浸水の恐れがあるリスクがあるにも関わらず、
高虎は大胆にもこの川を堀代わりに使用しています。

理由としては

・人口で作る堀よりもはるかに幅広く深い肱川を利用する事で低コストで天然の要害を築ける

かつては肱川と外堀の境目に位置し防波堤の役目を果たしていた苧綿櫓



地獄嶽と呼ばれる丘を本丸を作り、二の丸を上・中・下の三段に分ける事で
 城内への浸水を防ぐと同時に防御力を強化できる

前回訪れた際には修復中だった二の丸下段の下台所



・地元に通っていた知人曰く
元々、城のある西側は高台であり、氾濫して浸水するのは東側であるので問題ない(笑)」

といった事が挙げられると思います。

また、高虎が後に築城した宇和島城が
北西方向を宇和海で堀代わりにしたのに対して
大洲城では肱川を堀代わりにするといった点に関しても
彼が様々な自然の地形を城造りに最大限活かそうとする工夫の過程が伺えます。

参考までに宇和島城の縄張り


そして、宇和島城では丘陵の堅固さもあってか本丸周辺を除いては土塁部分も多い城だったのに対し、大洲城では城全体を彼のもう1つの城造りの特徴でもある「高石垣」が見られるのが挙げられます。









まだ後に作った城に比べると「高さ」はあまりありませんが、
関ヶ原の戦いよりも以前に早くも「高石垣」の城を築いていたのは
(天下人である秀吉の居城を除いては)非常に珍しく、ここの点においても
城造りの名人と謳われる高虎の非凡さが伺えるかと思います。

大洲城というとどうしても復元された天守閣や現存する4つの櫓ばかりに目が
行きがちですが、縄張りを含めた城全体としてみるとまた違った面白さが見えてきます。
ただ、市街地化の影響で二の丸付近まで家屋が立ち並び、堀が埋め立てらているのは
非常に残念な事であり、今後少しでも良いので復元・整備されることを祈るばかりです。

次回は恐らく四国の城の中で一番多く訪れている高知城を紹介したいと思います。

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