まりさるの☆ウェーぶろぐ

【雑談】【哲学談義】ここで今一度「自分の人生を見つめ直してみる」「イデアと実存について具体的に語ってみる」回

2019/11/17 15:00 投稿

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皆さん、こんにちわ(^o^)

毎度のことながら、まずは冒頭の余談です。いつものことだと、ここは意味不明に長くなってしまう傾向があったりして、そのへんを反省して、ネタ自体は今のところ7つか8つほどあるのですが、今回はそのうちの5つか6つは割愛して、話題を2つに絞りました(笑)

【1】
まずは、台風19号の影響で延期になっていた、斉藤朱夏さんソロでの初の本格的なワンマンライブですが、11月7日(木)に振替公演が行われて、いい感じに盛り上がって無事に終了されたということで、おめでとうございます。おつかれさまです(⋈◍>◡<◍)。✧
    
11月20日リリースの1stシングル『36℃/パパパ』は「両A面ラブソング」だということで、Aqoursの『未体験HORIZON』がラブソング要素ゼロだった分、楽しみにしています(^^♪

    
         今回は「36℃」が公開MVになりました(⋈◍>◡<◍)。✧

撮影は千葉県の外房の海岸とかですかね? 一見したところでは、いかにも金のかかってなさそうなMVですが、しかし「君が側にいてくれれば、それでいい。」・・・これはラブソングの本領がストレートに遺憾なく発揮されているものと見ることもできるwwwww(^ω^)

この曲には、どこか懐かしいような不思議な気持ちが呼び覚まされたりして、大変に良いものを見させていただきました。ありがとうございます。(*´ω`*)

斉藤さんソロは、運営の方が結構しっかりしているのか、顧客満足度の高いサービスの提供が期待できたりして、しゅか推しの朱夏人(しゅかんちゅ)の皆さんは、ファンとしては割と恵まれている方ではないかと思われます。(´ω`)

3月に東名阪の枢軸都市でツアー開催の告知もされたようで、おめでとうございます(^o^)
ちなみに、ここに表記された「東名阪」は「とうめいはん」であって「ひがしめいはん」ではありません。(・ω・)ノ・・・「東京都」だつて?「ひがしきょうと」ぢゃなゐかwwww

朱夏ちゃんは福岡までは来てくれないようですが、2020年2月22日(土)・23日(日・祝)にはCYaRon!のメンバーとして北九州に来てくれることになっているので、そっちの方を楽しみにしています(⋈◍>◡<◍)。✧

この公演のチケットは、すでにAqours CLUB先行で申し込みました。あたれー!(^o^)

       ♥12月4日リリースのニューシングルも同時に予約済み(^^)v♥

       
     ♥どうせ購入することは分かっているので、これらも同時に予約済み(笑)♥

今回のトリオユニットのCDは、カップリング曲にあるこのへんのタイトルに、何やら魅かれるものを感じます。どんな曲になるのか楽しみにしています。(^o^)
・「Phantom Rocket Adventure」(Guilty Kiss)
・「コドク・テレポート」(CYaRon!)
・「空中恋愛論」「メイズセカイ」(AZALEA)
全くの余談ですが、うちの隣の町には航空自衛隊の基地があって、ジェット戦闘機や練習機が空を飛ぶのは見慣れた光景で、「Phantom Jet Fighter」なら子供の頃から知ってる(笑)
航空自衛隊のサイトで拾ったこの画像のファントムは、F-4EJ(改)という機種らしく、これはどこの基地の子なのか自分には分からないですが、子供の頃にはよく見慣れていたファントムも、今ではヴィンテージな稀少種のジェット戦闘機になってしまったようです。(´ω`)


    ランティス祭りのニューヨーク出張で、NYCも「ギルキス共和国」???

このへんで、はい、次。(^o^)

【2】
そう言えば、かなこ主宰のヴォーカル&パフォーマンス・ユニット、BlooDye(ブラッディー)の1stシングル『この地球のどこかで』が、これも12月4日のリリースになってました(^^♪

12月24日(火)に開催予定の、BlooDyeのZepp福岡のライブは「行きたいんだけどなあ…」と思いつつも、福岡県の東の果てから首都・博多までは京都府の宮津市から京都市に向かうようなもので、結局のところ、日程的に奇跡でも起こらない限り行けそうにないので、行ける方は僕の分まで楽しんで来てほしいと思います(^^; ・・・うーん、奇跡おこれ!('ω')
    
ビジュアル的にほとんどK-POPなBlooDyeですが、ここでは「かなこ×かりん-POP」!?

この試聴動画に収録されている「ever dream」と「protect you」は個人的に大好きなタイプに属する良曲で、この手の音づくりは大好物(^^♪

あと「待ってないよ」という曲は、これは試聴版のつまみ食いだけで思わず心の琴線に触れてしまいそうな「得も言われぬエモさ、何これ、ヤバい」みたいな感じで、ミディアムテンポのバラードを歌いあげる時のかなこは、ヤバいくらいにエモい!?・・・Aqoursの4thシングルでは果たせなかった何かを、もしかして、ここで叶えてくれましたか???(´ω`) 

    
        こっちはまた、見ごたえも充分にありそう(⋈◍>◡<◍)。✧

かなこはオバさんになったら、森川美穂(大阪出身。昭和にアイドルでデビューして、平成で実力派シンガーになった人)みたいに大阪芸術大学で声楽の准教授とかやってそう??? 
    

ところで、BlooDyeのCDは販売に特殊なチャネルを採用しているのか、セブンネットでは商品を取り扱っている様子がなさそうですが、今や音楽産業はライブでないと儲けられないような時代になったのは分かるとしても、ライブ中心のマーケティング戦略を露骨に採用されると、田舎者や貧乏人にとっては、これは、なかなかツラいものがあるかも。。。(´・ω・)

人気稼業は、まずは都会民や金持ちや有名人たちから支持されることが、ブランドイメージの構築に貢献するのは大いに有り得ることで、またBlooDyeが田舎者や貧乏人のファンたちにも普及して行けるのはそれからだと思われ、なので、みんなで応援してあげなさい!(^o^)

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そろそろ本題に入りましょう。(・ω・)ノ

このバカブログの、記念にもならない第1発目の記事は2015年7月14日の投稿となっていて、
これは劇場版「ラブライブ!」の感想を書いたやつでした。今からもう4年も前の話(笑)

あの時に大学1年生だった方たちは、順調に行けばすでに卒業していて、今頃は社会の荒波に揉まれて、社畜となって駱駝のように働いてるんですかね? お疲れ様です(´・ω・)

ニーチェの『ツァラトゥストラ』によれば、人間の精神は「駱駝から獅子になって赤子へ」と変化するのだそうで、中には30歳あたりで獅子にお化けになられる方も出てくるでしょう。

彼らはもしかして、ツァラトゥストラの継承者なのか!? ガンバレヨ!(^ω^)
                ニーチェ(1844~1900)

それで、このブログは今回で81発目の記事となるわけですが、4年の歳月を経たところで成長らしきものはあまり感じられない気がします。。。(^^;

僕のブログ記事は「ラブライブ!」のネタがほとんどですが、その中では、自分が人生で最も関心を寄せている問題についても語っていて、それは今になって「イデアと実存」という言葉へと収束していったのでありました。(・ω・)ノ

また、このお粗末なブログの活動は「ラブライブ!サンシャイン!!」の活動とほぼ時を同じくして、Aqoursちゃんの楽曲や物語などについてウダウダと語っているうちに気付いたことは、個人的な人生最大の関心事については、どうも「ラブライブ!」さんの方でも考えてくれているらしい・・・そのように思われたのでした。まったく、ありがたいことです(´ω`)

そういうわけで、Aqoursの3rdシングルと4thシングルについては、歌の内容からして、またアニメーションPVの内容からして格別の親しみを覚えることとなり、どちらも大変に大好きな作品となりました。めでたし、めでたし(^^♪
      
   3rdシングル「HAPPY PARTY TRAIN」   4thシングル「未体験HORIZON」

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個人的な人生最大の関心事というのは、思い返せば「生きる意味への問い」が出発点だったりするわけですが、それは長年にわたる心の旅路を経て、ようやく今になって「イデアと実存」という概念へと辿り着いたのでした(^o^) 

それにしても、長い旅になりました(´ω`)・・・それでも、まだ旅は続く……。(・ω・)ノ

「心の旅」には既存の地図は存在せず、それは自ら旅を続ける過程で徐々に作られていくものでした。これまでの行程について、大雑把ではありますが、このへんで簡単にまとめてみようなことを思い、書き出してみたところ、何やら大学の講義で使われるレジュメみたいなものが出来上がりましたwwwwww

このレジュメには哲学の専門用語のようなものが含まれていますが、それについては後で自分なりの解説を加えたり、Wikipediaやコトバンクなどのリンク先を貼り付けておきました。

僕の記事の内容よりもリンク先にある記述の方が、読者諸賢にとっては、はるかに有益な内容が、もっとたくさん書かれていることでしょう(^o^)(←自虐かよwww)

☆とある視点から照明してみたところの「人間の自己と人生の在り方」について☆

【1】人生に対する態度の変化

(A)原初的な人生の状態
 ⅰ)「世俗的な幸福主義」の追求
 ⅱ)「世俗的な幸福主義」が相対化される時――「限界状況」
 ⅲ)これまでの「自己(エゴ)」の相対化――「メタ認知」「自己の探求」

(B)「覚醒」による新しい人生の在り方
 ⅰ)「世界」という概念との出会い
 ⅱ)「世俗的な幸福主義」を超越した次元にある世界の発見
 ⅲ)「イデアと実存」の探求

【2】人生観の(A)から(B)への変革――「覚醒」による自己意識の変革
 
 ⅰ)「自己中心的な人生観」vs.「世界中心的な人生観」
 ⅱ)「表面的で皮相的な人生の在り方」vs.「存在の根源」「深きいのち」
 ⅲ)「自我(エゴ)の立場」vs.「(トランスパーソナルな)いのちの立場」

 ⅳ)「現存在」vs.「イデア(真実在)」に導かれるところの「実存(現実存在)」

 ⅴ)「古い自己」(自我=自己:自我は自己である)から
   「新しい自己」(自我∊
自己:自我は自己の要素である)への変化


【3】「イデアと実存」に関する補足事項

 (a)「現在的(アクチュエル)なもの」と「現実的(レエル)なもの」
 
  ・「諸行無常の理」と「永遠不滅のイデア」

  ・「イデア」と「実存」の協働関係
 
 (b)「本質存在」と「現実存在」
 
  ・本質存在:普遍的・抽象的なものとして理解された一般的な人間像、
                         あるいは理想的な人間像
  ・現実存在:一つの抽象的な人間像には決して還元されえない、
          各々の具体的な現実を生きている個々の具体的な人間存在

ここからは、用語解説のコーナーです(・ω・)ノ

「限界状況」限界状況

「メタ認知」:自分の考えの正しさや思い込みを自分で吟味・批判できる能力。内省。

「世界」:哲学の文脈では、端的に「一切のもの」「すべて」を指す。
       しかし、これでは全く捉えどころがないので、補足すれば、
        「われわれが理解できると同時に、われわれの理解を超えたもの」

「イデア(真実在)」イデアイデア論

「実存(現実存在)」実存実存哲学

「現存在」現存在

「現在的(アクチュエル)なもの」:「今ここの私」が現在進行形で物事を体験している状態。

「現実的(レエル)なもの」:自らの体験が形而上的な事象に昇華・結晶化した高次の現実。
             現実世界の見方・見え方を規定する「メタ現実」「イデア」。

ところで、ハイデガーの代表作『存在と時間』について簡単に分かりやすく解説した、大変に良い記事がありましたので、ここに貼っておきます。僕のアホ記事を見るよりも、下の記事に目を通された方がはるかに有意義なことでしょう(^o^)(←自虐、自虐www)

ハイデガーまとめ、存在と時間とは:具体的に分りやすく解説する初心者向け哲学思想入門

「現存在」というのはハイデガーの用語で「今ここにある私」みたいな意味で、さらに簡単に言ってしまえば、単に「人間存在」を指しているものと解釈してもよいでしょう。

なお、ヤスパースの実存哲学では、「現存在」は覚醒以前の状態にある人間存在を指しているようで、内的な覚醒や飛躍を遂行した状態にある「可能的実存」「実存」と対比されます。

・・・オレ的な理解では、まあ、そんな感じです(・ω・)ノ

第二次世界大戦後の時代になって、フランスの実存主義において中心的人物となったサルトルは「実存は本質に先立つ」と、本質存在に対する現実存在の優位を説いていたようです。
 えも:「実存主義とは……やってみないと分からない。分からないなら、やってみよう!」

「実存主義」と言うと「~主義」の表記からして、サルトルの主張は正当なわけですが、その一方で、ヤスパースの実存哲学でいう「実存」は、イデア(真実在)を具現化したような瞬間にある現存在(人間存在)の状態を指しているものと思われます。

ヤスパースの説く「実存」に関しては、「純粋経験」という概念についても押さえておきたいところです。これを知っておくことは大変に有意義です。詳しくはリンク先へGO!(^o^)

ちなみに「純粋経験」は、西田幾多郎の『善の研究』において重要な概念となっています。

サルトルの説く「実存」とヤスパースが説くそれとは、それぞれの特色がありますが、実存の哲学者・思想家において「実存」についてそれぞれの解釈が有り得るのは、彼らの議論の前提となる立場の違いによるものだと思われます。

サルトルは「無神論的実存主義者」「有神論的実存主義者」といった区別を設定して、前者にはハイデガーと彼(サルトル)が、後者にはヤスパースとマルセルがそれぞれ該当すると、そういうことを言っていたらしいです。

この区別に該当する哲学者・思想家については、通説によれば、確かこうだったはず。
こういうのは出題しやすいから、センター試験や公務員試験に出るぞ。たぶん。(・ω・)ノ
・無神論的実存主義者:ニーチェ、ハイデガー、サルトル

・有神論的実存主義者:キルケゴール、ヤスパース、マルセル
               キルケゴール(1813~1855)

             
       ヤスパース(1883~1969)    ハイデガー(1889~1976)

        
       サルトル(1905~1980)        マルセル(1889~1973)
 
            
       西田幾多郎(1870~1945)       逢田梨香子(1992~)
       
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唐突ながら、ここで「対話篇」(?)ですwwwww(^o^)

・・・僕の担当女神さま(←役職名?)である、のぞみちゃんは言いました。
のぞみ:それで、と。一般論はこれくらいにして、まろん君の考える「実存」というのは、
    過去の記事によれば「イデアに向かって”いのち”している人間の姿」っていうこと
    やったよね。「純粋経験」の概念を援用すれば、これはもっと分かりやすくなる。
    ……そういうことやね。なるほど。

    「実存」については、それでええと思うよ。けれど、ここで聞くけど、「イデア」の
    一般論やなくて、まろん君にとっての「イデア」って何なん? それを教えてよ!
   
    考えることやないよ。簡単なこと。前だけ見つめていれば、すぐに分かるやん♡
    ……ここまで言わせておいて「天使」とか「堕天使」とか言ったら、ぶち殺すよ?

           
      にこ:「にっこにっこにー♪」     よしこ:「ギラン!」

・・・これはほんの茶番のつもりでしたが、、、我ながら草生えるwwwwwww(^^;

それはさておき、自分自身にとっての「イデア」とは一体何なのか!?

言い換えれば、「自分がそのために生き、そのために死ねるような真理」とは何なのか?

個人的な「人生最大の関心事」とは、つまりはコレのこと(・ω・)ノ

社会的地位とか経済的な富とかは、個人的な価値観・人生観からすれば、生活に困窮してしまうようなことが阻止できれば、こんなものは、もはやどうでもいい事柄ですが、とはいえ趣味に使える予算は何とか確保しておきたい・・・うーん、あれかこれか。。。( ˘ω˘ )

自分自身にとっての「イデア」については、すでに過去の記事で語ったと思います(^ω^)

女児向けアニメ「プリパラ」の思想について、個人的な体験を顧みて「ラブライブ!」のネタとともに語る回

ここからまた私事になって恐縮ですが、これからの記述は実存的、あまりに実存的な!?

僕が、これまでの人生の中で最も「キラキラ」していたと自分なりに思うのは、おそらく10歳の時、小学5年生の1学期から2学期にかけての約半年間だけで、今になって自分の人生をふり返ってみると、心当たりがあるのは、たぶんそれくらいかも。。。(´・ω・)

今思うに、あの頃は自分の価値観が性欲によって支配されてしまう直前のことで、まだ恋愛は純粋に憧れで、好きな女の子も単なる憧れで、人生が「彼女ほしい病」「エッチしたい病」に振り回される以前の話でした。

その一方で、あの頃の自分の現実世界は、とあるきっかけによって、数か月の短い間で飛躍的に急速に広がっていきました。あの頃は、体験することの多くが全く新鮮でした。初夏の薫風に乗って、自分の人生における新しい時代・新しい世界の到来を、子ども心ながらに実感したものです。

その詳細については、上に挙げた過去記事の中で語りました。あの当時に体験した出来事は、遠い歳月を経た今になっても、とても大切で貴重な思い出です。思い出抱いて前に…(´ω`)
 ♥自分の視界が突然一気に開けてきた、あの感覚はまさに「未体験HORIZON」(!?)♥

とはいえ、あの当時が人生の中で最も「キラキラ」していたといっても、当然のことながら、その中には辛いこと、嫌なこと、ムカつくこと、悲しいこと、恥ずかしいこと、情けないことなども、それなりにありました。・・・まあ、人生ちゃあ、そんなもんですよ。(´・ω・)

それはさておき、あの時に体験した「具体的な出来事」というのは、あくまでも「キラキラ」の契機となったもので、その内容は人それぞれに様々なカタチで存在していると思いますが、一方、「キラキラ」の本質を成しているものについては、実のところ「その体験をどのように感じ取ったのか?」――そういった主観的な次元に存在しているように思われます。

言葉を変えて繰り返すと、体験で得られたものが精神的な次元(意識的、無意識的)において、一体どのように取り扱われたのか?――自己の内面における「イデア」の形成に当たっては、このことが重要だと思われます。(・ω・)ノ

そういったところで、「自分自身にとってのイデア」とは、要はこんな感じ。(^ω^)
「イノセントでピュアピュアなハート」――それがオレの「キラキラ」

「自己の内にある生命が十全に実現された状態」――それがオレの「イデア」
さて、――その後になって、性欲的なものが単なる憧れから実現したい願望になってしまったところで、それまで自分が抱いていた「キラキラ」は、徐々に「モヤモヤ」の背後へと隠れていったように思います……。(´・ω・)

あの時に味わったドキドキ感やワクワク感、生命の充溢(じゅういつ)感、打算や下心のない素朴で純粋な情熱、それらが体の底から湧き起こるようなみずみずしい感動、躍動感といったものは、小学校6年に上がった頃には、早くもすでに曇りかけてきたように思います。たぶん、それまで自分の中にあった「キラキラ」の汚染がこの頃から本格的に始まって、いつの間にか「ギラギラ」したものへと変質してしまったのでしょう。

また、この頃になると、自分の中で新たに生成された「キラキラ」には、絶えず「ギラギラ」が影のように付きまとうようになったのでした。。。(´・ω・`)

人生の社会化の過程で、それまで自分の中に在った「キラキラ」は「モヤモヤ」のヴェールにだんだんと包まれて、すっかり曇ってしまい、それに代わって何やら「ギラギラ」したものが自分の内面で次第に幅を利かせるようになりました……。悲しいことです。( ;∀;)

年齢的あるいは生育する環境による個人差はあると思いますが、自我の成長期・拡大期とは、得てして、そういうものなのかも知れません。。。

ここで余談ですが、物語としての「ラブライブ!」が高校生のお年頃の少女たちの物語でありながら、性愛的な要素を微塵も出さずに全く捨象していたのは、もしかして、高純度のピュアピュアな「キラキラ」を語るためには、是非ともそうしなければならなかったから???

今回の記事をグダグダと書いていると、そのへんの理由がよくわかる???(^ω^)

念のために付け加えておきますが、今回の記事では「恋愛」や「性愛」といったものについて批判的なノリがありますが、しかし、個人的にはこれらを否定するつもりもなければ、かといって賛美するつもりもなく、これはあくまで「人間の自然」として、どちらかといえば肯定的に見ている、そんな感じです。('ω')ノ

というわけで、恋は、いいぞー! おまえらもガンバレヨ!(^o^)(←おいおいwww)

閑話休題。はい、次。(・ω・)ノ

――彼はかつて、少年だった。彼はやがて大人になった。
             僕にはあまり楽しそうには思えないな。(´・ω・)

――おっと、恋の話はやめてくれ。あれには辛い思い出が多すぎる。(;´Д`)

少年はやがて大人になった。彼の自我も出来上がってきた。しかし大人になってから、孤独の砂漠の中で彼の自我が行き詰まってしまうと、彼は「世界」の概念や「無意識の世界」などを学習する羽目になってしまった。――「駱駝」は「獅子」に変化しなければならなかった。

彼の基礎学力は、人生に失敗してから真理探求のための基礎体力となったので、二十歳前後に大学受験や公務員受験のために、机にかじり付くようにして、まるでバカみたいになって勉強した経験は、決して無駄なことではなかったことを、ずっと後になってから悟った。

若かりし時分は人一倍エロスで、人一倍に派手に遊び回っていたような彼であったが、しかしそれは実際のところ、薬物依存症などの患者と本質的には何ら変わりなく、それほどお目出度いことでもなかった。結果として、彼は不本意ながら、浮世に逼塞(ひっそく)する人生の悲哀などについても人一倍知る羽目になった。

かつて遊び人をやっていたためか、性欲的な衰えは予想以上に早かった。『老子』(第30章)の一節を思い出した。しかし肉体的、性欲的な衰えは同時に、自分の中に在る「ギラギラ」したものの衰退の徴候でもあったのだった……。
         物は壮(さかん)なれば則ち老ゆ。
             是れを不道(ふどう)と謂(い)う。
                   不道は早く已(や)む。

  ものごとは強壮であればあるほど、無理なことをして老衰へと落ちこむ。
     これこそ、「道」に従わないということだ。
        「道」に従わないのでは、すぐに滅びてしまう。

                   金谷 治『老子』(講談社学術文庫)より
さて、自己の在り方を長年にわたって支配し続けてきた、あの「ギラギラ」の衰退は、肉体的な衰えという意味では、なるほど悲しむべきことではありましたが、しかしそのことは、長い間にわたって忘却されていた、遠い過ぎ去りし日において存在していた高純度の「キラキラ」の欠片(かけら)を再び発見する機会となったのでした。(^o^)
                 よはね:「キラン!」

失われた無邪気の楽園。パラダイスロスト。――そこから「キラキラ」遺跡の発掘調査を開始したのは、この曲(タイトルまで含めて)が「超越の暗号」として作用し、自分に対して何やら啓示と促しを与えてくれたからなのでした。今となっては、これも懐かしい曲(^^♪
      ♥lily white「秋のあなたの空遠く」(昭和89年11月26日リリース)♥

かつて自分の中にも存在していた、あの高純度な「キラキラ」を、まるで昨日のことのように想起することが可能になったのは、実は、2014年も終わろうとする頃から「キラキラ」の発掘と復元の作業が始まり、それからのことなのでした。めでたし、めでたし。(´ω`)
 ♥こちらも「キラキラ」の発掘作業を手伝ってくれて、ありがとうございます(^^)b♥

しかし、あの時と同じ「キラキラ」を取り戻すことは、もはや不可能でしょう。(´・ω・`)

――これまでの人生経験の中で、自分はいろいろなことを知り過ぎてしまった。

――「明るい世界」も「暗い世界」も、自分なりとはいえ、いろいろと見てしまった。

そのことが良いことなのか悪いことなのか、その判断は保留しますが、とはいえ、それが意味しているのは、あの頃に体験されたイノセントな心を今になってから取り戻そうというのは、結局のところ、それはもはやできない相談だと、つまりそういうことなのだと思います。

年齢や経験を重ねるということは、ある意味、そういうことなのかもしれません。(´・ω・)

今となっては、未来に漠然とした光を感じて、それに向けて素朴な憧れを抱くようなことは、もはや出来なくなってしまいましたが、しかしその代わりに「残された人生を徒(いたずら)に過ごすわけにもいかない」という思いが、これまで以上に切実なものとなってきました。

前章で紹介したハイデガーに関する記事の中に「本来的な自己を生きる」みたいな記述がありましたが、今頃になって、自分もそのような思いを強く抱くようになりました。

そうした過程を経ることによって、あの頃の自己に内在していた生命は、今や純粋に仰ぎ崇めるべき「イデア(真実在)」となって、自分にとっての至高性となっていったのでした。

そして、自分が愛し慈しむべきは、あの時の高純度な「キラキラ」今でも想起させてくれる諸々の物事であり、そういった人たちなのでしょう。(´ω`)

リリホワの「乙姫心で恋宮殿(おとひめはーとでらぶきゅうでん)」という曲は、これまで僕のブログの過去記事にも何度か登場してきて、ここでまたの登場となって恐縮ではありますが、ここで見てきた「自分自身にとってのイデア」談義について、これをひとつの楽曲で表現するならば、曲の調子といい、歌の内容といい、この曲はまさにシンクロニシティ(意味ある偶然の一致)だったりして、これには運命的・奇跡的な出会いを素直に強く感じ取ったりしたもので、「ラブライブ!」を好きになった理由がよくわかる。セレンディピティですね!(^o^)
       ♥lily white「乙姫心で恋宮殿」(2015年5月23日リリース)♥

話は変わりますが、「ギラギラ」な目で見られた希ちゃんというのは「おっぱい!おっぱい!ボイン!ボイン!ボヨヨン!ボヨヨン!」なわけですが、しかし「キラキラ」な目で見られた彼女というのは「人生を芸術の目で見る修行」を側に付いてサポートしてくれる頼もしい女神さまなのでした(⋈◍>◡<◍)。✧

「世界」を性的な目で見るのか? 聖なるものとして見るのか? それが問題だ!?(^o^)
のぞみ:「『…諸々の事物であり、そういった人たち』の中には、うちもおったんやね♪ 
           ……あっ、そうや! クッキーでも食べる? うちが焼いたんよ♡」

・・・僕の担当女神さまは、何かいいことでもあったのか、どこか上機嫌なご様子でした。

               (茶番劇「実存くん、イデアへの道程~対話篇~」おわり)

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さて、「自分の人生を見つめ直してみる」というタイトルで、「自分自身にとってのイデア」談義に終始してきたわけですが、ここでは今回の記事を作った動機などについて語ってみようと思います。(・ω・)ノ

「自分がそのために生き、そのために死ねるような真理」を探究する場としての、小説らしき作品の執筆が6月から全く進んでいない状態という、そういった個人的な事情がありまして、
今回の記事の作成は、まずは、そこからスタートです。(^^;

「なぜ書くのか?」「何を書きたいのか?」・・・そのあたりについて、このへんで今一度、洗い直してみたいと考えました。

今の自分の状態というのは客観的に見ると、たぶん、こんな感じだと思われます(´・ω・)

――「世俗的な幸福主義の追求」「イデアと実存の探求」の両者が自分の中でせめぎ合っているような現状。「煩悩」ですね。(^ω^)

          ♥迷いも助走 だんだんスピードアップさ♪♥

ここで、両者の言い分について、それぞれ聞いてみましょう。(^o^)

(A)「世俗的な幸福主義の追求」の立場にあるオレいわく、こんな感じ。(・ω・)ノ
作品を出してみたところで、誰が見てくれるのかも分からない。誰かが称賛してくれるようなことも全くない。

「あなたの読者です、応援してます」みたいな奇特な人が一人でもいてくれれば、努力が報われた気持ちになって、ずいぶんと救いになって励みにもなってくれそうなものの、それは単なる虚妄でしかない。そういった現実。

「アンチがdisってくれるようなら、まだマシ」なくらい、何の反響も手応えも感じられない。

こんなものは、ネットの宇宙で塵芥になって漂流を続けているだけで、誰の手にも取ってもらえない。これは絶望的なメッセージ・イン・ア・ボトルでしかない。

こんな無意味な徒労をいつまで続けているのか? 

これじゃあ、いつまでたっても幸せな人生なんかは送れないだろう。

(B)「イデアと実存の探求」の立場にあるオレいわく、こんな感じ。(・ω・)ノ
ちょっと待て! 物書きを志願した以上、「100年後の知己を俟(ま)て」の精神を忘れちゃあ駄目じゃないか! 

ここで他人からの評価を求めてはいけない。そんなことでは、自分の天命が果たせなくなってしまう。この仕事は、すでに世俗的な価値観を超越しているのだから。

「永遠なるもの」は、一人の人生の中で消えてしまうようなものではない。これが一人の人生の中で語られたものだとしても、記録さえ残っていれば、後世へと受け継がれる望みはある。決して無意味なことにはならない。

難しいことは何一つない。虚心坦懐にして一心不乱に事に臨めば、それでよい。
命を燃やして「イデアと実存」について描いていれば、それでよいだけの話だ。

それ以外のことについて、自分は何も書こうとは思わないし、自分が書かなければならない必然性も感じていない。それ以外のことについては、他の人たちの誰かがやってくれそうな仕事だ。

これは自分だからできる、また自分でなければできない仕事だ。

すでに「気付いてしまった者」として、世俗的な成功などとは関係なく、人としての務めを、人生をかけて果たさなければならない。天命とはそういうものだ。

自分には「作家の素質」は無いのかもしれない。しかし「作品づくりが進まない」ことをネタにして記事を作ってしまうくらいだから、少なくとも「表現者の素質」は有しているのだろう。それは事実として認められる。よかったな(^o^)
「作品を出してみたところで、だから何なんだ?」――結局のところ、周囲の無理解と自分との闘いの中であがいている自分の姿について、ここで改めて確認することになった。――要はそういう話みたいですが、それでは次に、「クリエイティビティを発動しない時の自分の姿」というものについても考えてみましょう。(・ω・)ノ

これについては、過去の記事にも使わせてもらいましたが、ヤスパースが「平凡な大衆人」について語ったあの引用が一番しっくりくるものと思われます。

「イデアと実存の探求者」の立場を忘れて、「世俗的な幸福主義の追求」にどっぷりと浸かりきった状態にある自分の姿というのは、このような人間像に該当するでしょう。(^o^)
 私は、何らか一般的であるような人間の像を思い描く。その人間像は、これを容認しようとしまいと、とにかく私に、社会的現存在という一般的なものを媒介として、私がかれと交渉する仕方に対する理由を、与えてくれる。すなわち、その人間像によれば、人間は、子供から大人になり、労働する。だがそれも笞とパンによって駆り立てられてである。そして、自由に放任されると、怠惰で享楽的である。そうした人間の現存在は、食うこと、交合すること、眠ることであり、これらのものが不十分な程度にしかできないときには、その現存在はみじめなものとなる。かれは、機械的な、習い覚えられる労働以外のことをする能がない。かれは習慣に支配され、さらにはかれの仲間の間で共通の意見と認められるものに支配される。かつまた、かれを支配するものは、かれの不足した自己意識の埋め合わせを求める権勢欲である。かれの意志と行動の偶然性において、運命に対するかれの無能力が顕わになる。過去のものは、迅速に、どうでもいいものとして、かれから逃げ去る。かれの予想は、最も手近なものと極めて大ざっぱなものにしか及ばない。かれは自分の生活を深く知らず、心得ているのは在り来たりの日常事だけである。かれの魂をすみずみまで霊気あるようにする信仰は何もなく、かれにとっては、盲目的な現存在欲と幸福を求める空虚な衝動との他には、何ひとつとして無条件的なものはない。かれが機械労働をしているにせよ、あるいは科学的作業に協働しているにせよ、またかれが命令するにせよ、あるいは服従するにせよ、またかれがどこまで食いつないでゆけるか分からずに不安がっているにせよ、あるいはかれの生活が安定しているように見えるにせよ、とにかく依然としてかれの本質は同じである。諸々の状況や偶然的な傾向によってあちこちとゆすぶられて、絶えずかれは、自分と同様な者たちの近くにいようとする衝動に駆られているにすぎない。共同体の内に基礎をおいた持続性ももたず、人間同士の間の信義も欠いて、かれは、実体的な存在に重心をおく生活の進路がないその日暮らし的な人間としてとどまる。

            ヤスパース 草薙正夫・信太正三 訳『実存開明』より
上の文章を一読してみて、これに抵抗を覚えるのか? それとも、それで良しとするのか?

・・・そこで、歌は流れる、あなたの心wwww(^^♪
      そうさ君は 気づいてしまった
        やすらぎよりも 素晴らしいものに
          地平線に 消える瞳には
             いつしかまぶしい 男の光
                        
                       ゴダイゴ「銀河鉄道999」
          作詞:奈良橋陽子・山川啓介 作曲:タケカワユキヒデ 
    
さて、今回の記事は、当初は「コンパクトなサイズに収まるだろう」と見積もっていたわけですが、画像や動画の貼り付けや引用などが思った以上に多くなってしまい、結局、それなりに長い記事になってしまいましたwwww(^^;

そもそも、テキスト(文章の塊)だけで構成された作品というのは、個人的にはそんなに好きではなくて、見開きごとにとまでは言わなくても、せめて3ページに1枚は挿絵がほしい。

自分が本格的に文芸作品を作るとしたら、そんなスタイルを目指すだろうと思います。小説家には正直、向いてないと思います(笑)

それはさておき、最後に「作品づくりの意志」について少し語ろうと思いますが、これも過去の記事に使わせてもらったことがありますが、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』第3章の中でデミアンの言葉によって語られているものが最も当を得ているように思われるので、ちょっと長いかもしれませんが、引用をここに貼っておきましょう(^o^)

引用元は、ヘルマン・ヘッセ 高橋健二 訳『デミアン』(新潮文庫)です。(・ω・)ノ

「……つまり人は自由な意志を持ってはいないんだ。牧師さんはそれを持ってるようにふるまってはいるけれど。ほかの人も自分の欲することを考えることはできない。ぼくにもぼくの欲することをほかの人に考えさせることはできない。しかし、だれかをよく観察することはできる。

そうすると、その人が考えていることや感じていることを、かなり精確に言えることは珍しくない。
そうすると、その人がつぎの瞬間になにをするだろうかということも、たいていあらかじめわかる。
それはごく簡単なことだ。みんなが知らないだけだ。むろんそれには練習がいる。

たとえば、チョウ類の中のある蛾に、雄より雌がずっと少ないのがある。チョウ類は動物と同じようにして繁殖する。つまり雄が雌をはらませ、雌が卵を産む。

さてきみがこの蛾の雌を一匹持っているとすると――自然科学者によってたびたび実験されたことだが――夜その雌のところに雄が飛んで来る。しかも数時間もかかるところを! 数時間もかかるところだよ、きみ! 幾キロも離れていても雄はみんな、その辺にいるただ一匹の雌をかぎつける! 

その説明が試みられているが、それは困難だ。一種の嗅覚か、あるいはなにかそんなものにちがいない。よい猟犬が目につかない足跡を見つけて追及することができるようなものだ。わかるかい?

そうしたことなんだが、そういうことは自然界にはいっぱいある。そしてそれはだれにも説明できない。だが、ところでね、その蛾にしても、雌が雄と同じようにひんぱんにいたら、鋭敏な鼻を持ちはしないだろう。そういう鼻を持ってるのは、訓練したからにほかならないんだ。

動物、あるいは人間も、彼の全注意と全意志をある一定の物事に向けるとすると、同じようになれるんだ。それだけのことだ。

たとえば、さっきのような蛾がその意志を星かあるいはそのほかのどこかに向けようと欲したとすると、そんなことはできないだろう。

ただ――蛾はそんなことはまったく試みはしない。蛾はただ、自分にとって意味と価値のあること、自分にとって必要なこと、絶対に手に入れねばならないことを、求めるだけだ。そういう場合にこそ、信じられないようなこともうまくいくのだ――蛾は、ほかのどんな動物も持たない、不可思議な第六感を発揮する!

われわれ人間はたしかにいっそう多くの活動の余地を持っている。動物よりも多くの興味を持っている。しかしわれわれだってかなり狭い範囲に束縛されていて、それを越えて出ることはできない。

ぼくはなるほどしかじかのことを空想することはできる。自分はどうしても北極に行きたいんだ、というようなことを頭に描くことはできる。しかし、実行したり、十分に強く欲したりすることのできるのは、その願いが完全にぼく自身のうちにある場合、実際にぼくというものが完全にその願いに満たされている場合に限るのだ。

そういう場合になってきて、きみが自分の内から命令されることを試みる段取りになれば、きみは自分の意志をよい馬のように駆使することができる。
僕も、「…そういう場合」が自分に来るのを、求めて待っているところです。(^^;

ただ、これは経験的に思い当たる節があったりもしますが、実際は、自分の全てを注ぎ込んで命を削るような状態なので、本当に「自分がそのために生き、そのために死ねる」ような覚悟がなければ、到底、成し得ないことのようにも思います。

これは「世俗的な幸福主義の追求」のレベルを、すでに超越しているのです。。。(´ω`)

このレベルではすでに、その人の人生観は「幸福主義=人生:幸福主義が人生である」から「幸福主義∊人生:幸福主義は人生の要素である」にシフトしているのです。

そうは言っても、「世俗的な幸福主義の追求」と「イデアと実存の探求」とが自分の中で互いにせめぎ合っている状況は変わりなく、たぶんそれは一生続くのだろうと思います(笑)

そこで『デミアン』の第2章と第5章の引用から、この物語の主人公であるシンクレール少年の言葉が思い出されます。
ああ、いまにして私は知った。この世の中で人間にとって、自分を自分自身に導く道を行くより、心にさからうものはないということを。

私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを、生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難であったのか。
にこ:「あなたも、そろそろジェットコースターの頂上まで来たようね。
     ここまで来れば、あとは……、にっこにー にっこにー にっこにっこにー♪」

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