それでははじめていきましょう!!!
しかし、いざ攻防戦が始まると、意外にも支城の攻略に手間取ったうえに、作戦面での対立が目立ち、これにイヤ気がさした国人衆の離反も相まって、結局、義隆は、出兵から1年半後の天文十二年5月に撤退を開始しました。
一説には、この出来事のショックから立ち直る事ができず、その後の義隆は政治を顧みないようになり、隆房を含む重臣たちとの間に亀裂が生じてしまったとも言われます。
また、もともと、義隆は学問や文芸に造詣が豊かで、京風の文化を好んだうえ、外国との交流にも熱心で、キリスト教の布教も許可したおかげで、当時の山口は、西の京都と呼ばれるほどの文化の花が開いたとも言われていますが、一部の重臣にとっては、義隆のあまりの京風ドップリぶりが目に余ったという話もあります。
逆に、月山富田城攻めに積極的だった隆房を、義隆のほうから避けたという話も・・・
さらに、当時、政治面をまかされていた文治派の相良武任(さがらたけとう)と、武闘派の隆房ら、重臣同士の対立もあったようです。
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