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遺言 その7 2015/12/14
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特に転機となったのは農耕です。畑でも田んぼでも、稲でもコメでもトウモロコシでも、種を蒔いたらそれだけで一年後に必ず収穫できるというわけではありません。肥料を捲き、雑草を抜き、間引きをし――単位面積あたりの収穫量を上げるには、様々な工夫が必要です。栽培している品目によっては、夏の暑すぎる日には冷たい雪解け水を与えたり、冬の寒すぎる夜には保温シート……ビニール製品の無かった昔なら藁や布で保温してやる必要すらあります。DASH村をチェックしていた人にはすぐ理解できる話です。何もしなければ収穫量ゼロということもありえます。
つまり、農耕は、一人きりではほとんど不可能なのです。「誰か」と協力して行う必要があります。
「誰か」とは誰か――コミュニケーションコストの安い誰か――同じ言葉を喋り、同じ色の肌や髪や目を持ち、同じ穴居や住居で生活を共にする者たちです。
特に水田を用いたコメの栽培には人手が必要です。コメは単位面積あたりの収穫カロリーが小麦の5倍であり、水稲栽培なら連作障害が起こらないので、年に2回、熱帯地域なら最大で3回収穫することができます。つまり、年あたり最大で小麦の15倍のカロリーが得られます。しかし、これを実現させるには小麦の3倍以上のマンパワーがかかります。水田に水をひくためには大規模な灌漑工事が必要なのです。更に、一つの田んぼで病害虫が発生すれば、水路を通じてすぐに他の水田へのコンタミネーションがおこります。
一年を通じて一箇所に定住する必要がある。上手くやれば多量の農産物、すなわち富を得られることができる。そのためには親類縁者をはじめとした一族との密接なコミュニケーションが必要である。これらがコメ栽培の特徴です。これを満たしたライフスタイルを選択した結果、コメを栽培する東南アジアには独特の文化圏が生まれました――イエ・ムラ文化の誕生です。
地方にいくと、首都圏では信じられないほどの豪邸が水田の真ん中にぽつんと存在しているのをみかけたことはないでしょうか。これは、地主が小作人とよばれる農民に土地を貸し出して耕作させ、地代として徴収する小作制度――寄生地主制度の成果であり、象徴です。そして、地主の長はたいてい複数の妾を持ち、複数の子供を儲け、家屋を基盤とした自分の一族の維持発展に労力を費やしました。
日本では、こういったライフスタイルが太平洋戦争後、GHQによる農地改革が行われるまで続きました。いや、70年代の高度成長後も、日本人の心の中にはイエやムラの影響が強く残っています。マンションや賃貸よりも一戸建てを好む。盆暮れ正月といった季節の節目とされる農閑期には「故郷」に帰省し、一族で食卓を囲み、同じ食べ物を食べる――田んぼに足をつっこんだことも、肥溜めの匂いをかいだこともない我々が、もはや合理性や合目的性を失った風習を無視できないのは、未だにイエ・ムラ文化の影響に囚われているからでしょう。
だから、私がこのマンションの一室にある程度の懐かしさを感じるのも必然なのです。
「なかなか連絡がとれなくて不審に思ったばあちゃんの友人が、マンションの管理人に頼んで鍵を開けてもらったんだと」
そう言いながら室内を見回す兄も、私と同じ種類と同じ程度の懐かしさを感じているはずです。兄弟なのでよく分かります。
棺桶に整然と横たわっている祖母の顔は、うっすらと微笑んでいるようにみえました。インフルエンザをこじらせ、肺炎で急死したにしては安らかな顔をしています。どおりで電話してもなかなか連絡がとれない筈でした。
よくみると、口紅が少しはみ出しています。葬儀社の社員や出入りのメイク業者は、死後硬直で固くなった故人の顔を苦労して整えるといいます。果たして、祖母の人生はこの表情に見合ったものだったのでしょうか。
「じじいと同じ肺炎で死ぬなんて、運命だな」
兄の口調は、つぶやきに精一杯皮肉なニュアンスを湛えようと努力しているかのようでした。私と同じく複雑な思いを抱いていることは明白でした。
数年前、祖母はそれまで住んでいた家を処分しました。兄と私が仕事の都合や結婚を契機に家を出て、一人暮らしするには手狭になった――そのような理由だと思っていました。
私も兄も家の売却には反対しました。電車で数時間の範囲にあるとはいえ、お盆や年末年始に帰省する「故郷」が無くなるのはなんとなく寂しいものです。また、祖母が両親から受け継ぎ、曾祖父はその両親から受け継ぎ、高祖父はその両親から受け継ぎ……家屋は震災や戦争や経年劣化で何度か立て直したものの、それなりの歴史があった土地でもあります。
でも、今の職場で今のライフスタイルを続ける限り、私も兄も、あの家を受け継いで住むということはまずないでしょう。祖母が死んだら売り払うことになります。
でも、あの家をそれなりに愛していた私たち兄弟にそんなことができたでしょうか。
それなら、祖母に売ってもらった方がまだ心理的なストレスが少ないし、曽祖父母の唯一の娘である祖母にはその資格もある――そんなふうに考えていました。
しかし、後に祖母から打ち明けられた真相に、私も兄も仰天しました。
祖母が家屋を売り払ったのは、祖父に財産分与するためだったのです。
作家という人気商売、やくざな商売を続けていた祖父よりも、曽祖父母から受け継いだ遺産をしっかり運用しつつ、晩年まで税理士として仕事を続けていた祖母の方が裕福でした。祖母はなんとか家屋を売り払わずに祖父にお金を払う方法を探していたのですが、結局断念した……そういうことだったそうです。
だから、私が、祖母が一人暮らしをしていたこのマンションの一室を訪れたのは、年に数回ずつの僅かな期間しかありません。それでも、このマンションには懐かしさを感じます。一時期は私と兄の親代わりを勤めてくれ、大好きだった祖母の匂いや名残りのようなものを感じます。
通夜に来る直前、市役所で祖母の戸籍謄本をとりました。A子さんから聞いた話の通りでした。祖母が祖父と離婚したのは、祖父が家を出たずっとずっと後、それも、祖母が家を売った数ヶ月前というタイミングでした。
祖母は、あの家を売り払わないですむ算段がつくまで、離婚を引き伸ばしていたのです。
あるいは、もしかすると祖父も、イエ文化の価値観に囚われていたのかもしれません。世が世なら、祖父は我が一家の家長であり、家長としてイエの存続に責任を持つ立場だったのですから。無論、それを放棄したのは祖父自身です。
祖父の立場から考えると、書類上だけの話とはいえ、離婚しないままの別居に同意したのも、元夫が元妻からおカネを受け取るカッコ悪さをなるべく先延ばししたかったからではないでしょうか。けれども、何もせずにおカネが転がり込むチャンスを放棄するほど余裕があるわけではないし、無欲であるわけでもないし、善人であるわけでもない。財産分与請求を先延ばしすれば、とりあえず選択を先延ばしできる――そういうことだと思っていました。
この通夜に出席するまでは。
目の前にいるしょぼくれた初老の男――祖母の遺体の第一発見者である友人であり、祖母の通夜で、兄や私を差し置いて半ば喪主の役割を務めている男。
仮にこの男の名前をCさんとしましょう。
Cさんは祖母の「彼氏」だというのです。
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