おはようございます、マクガイヤーです。
登戸で嫌な事件がおき、ショックを受けています。
自分の実家は小田急線で隣駅にあたる向ヶ丘遊園と生田駅の間にありました。
登戸駅には、塾に通うついでに近くにある本屋や古本屋で長時間立ち読みしたり、美味しいピザ屋さんに通ったり、何故かあったアクリル水槽専門店で水槽を買ったり、好きな先輩が住んでいたりと、わりと楽しい思い出ばかりです。
取材協力した『やれたかも委員会』(https://note.mu/yoshidatakashi3/n/na63c34ee5adc)の「童貞からの長い手紙」にも、そのうち登戸が出てくるはずです。
なんだか生々しすぎて、すごく嫌な感じですね。
マクガイヤーチャンネルの今後の放送予定は以下のようになっております。
○6月2日(日)19時~「『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』公開記念、神と怪獣と人間のトリニティ」
5月31日(金)にハリウッド版『GODZILLA』の続編にしてゴジラシリーズ最新作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が公開されます。予告編や玩具でアナウンスされた、ゴジラの背鰭やモスラの羽根の眼状紋などのデザイン、ゴジラたちを”Monster”でも”Kaiju”でもなく”Titan”と呼ぶこと、なによりも神々しいまでの怪獣描写に、わくわくが止まりません。明らかにマイケル・ドハティは怪獣が分かっています。
そこで、「怪獣が分かっている」とはどういうことか? 、人間と神と怪獣のちがいは? 、怪獣に感情移入できるのか/しても良いのか? ……『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を解説すると共に、そんなことを考えるような放送を行ないます。
ゲスト兼アシスタントとしてアメコミ翻訳家の御代しおりさん(https://twitter.com/watagashiori)にまたもや出演して頂く予定です。なんと大内ライダーさん(https://twitter.com/ohuchi_rider)も参戦決定しました!
○6月16日(日)19時~「最近のマクガイヤー 2019年6月号」
いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。
○7月7日(日)19時~「漫画家漫画のメタとネタ(仮)」
『バクマン』、『アオイホノオ』、『かくかくしかじか』……ゼロ年代の後半以降、漫画家を目指す過程や道程をテーマとした漫画――「漫画家漫画」の名作が次々と誕生しています。中には知名が低かったり、それとは気づかない形で発表されていたりする「漫画家漫画」も存在します。
そこで、「漫画家漫画」の成り立ちや意味合い、個々の作品の魅力について紹介するような放送をお送りします。
ゲストとして編集者のしまさん(https://twitter.com/shimashima90pun)に出演して頂く予定です。
○藤子不二雄Ⓐ作品評論・解説本の通販しています
当ブロマガの連載をまとめた藤子不二雄Ⓐ作品評論・解説本『本当はFより面白い藤子不二雄Ⓐの話~~童貞と変身と文学青年~~』の通販をしております。
https://macgyer.base.shop/items/19751109
○『やれたかも委員会』に取材協力しました。
『やれたかも委員会』(https://note.mu/yoshidatakashi3/n/na63c34ee5adc)の「童貞からの長い手紙」に取材協力しました。単行本1巻分のエピソードになるそうです。
ちなみに基になったお話はこちら
https://ch.nicovideo.jp/macgyer/blomaga/ar1011063
さて、今回のブロマガですが、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』公開に合わせて、怪獣映画における人間ドラマについて書かせて下さい。
●怪獣映画に人間ドラマは必要か?
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の公開は5/31ですが、試写やプレミアで映画を観た人のレビューがアップされています。
そのうちのいくつかに、「人間ドラマが少なくて不満」というものがあり、そのレビューを聞いて「むしろ人間ドラマが少ない方が期待できる」という反応があったりするようです。
https://www.cinematoday.jp/news/N0108747
https://togetter.com/li/1359561
そういえば、ハリウッド版『ゴジラ』の前作にあたるギャレゴジこと『GODZILLA ゴジラ』に対して、自分が抱いた不満も同じようなものでした。
怪獣映画の作劇についてよくいわれることの一つに、「人間と怪獣との関わりを描かないと、作り手にとっても観客にとっても他人事になってしまう」というのがあります。これは実によく分かります。『ウルトラファイト』や『レッドマン』は実に楽しい番組でしたが、5分間という短さだからこそ成り立っているのであり、劇場で同じものを2時間近くみせられたら多くの観客は閉口してしまうでしょう。
さらに、人間が怪獣同士の戦いを観て、ただただ呆然としたり、男塾の冨樫みたいな解説役ばかりになってしまうのが不味いというのも分かります。ついでに、ギャレス・エドワーズが故郷を目指すロードムービーという形式に何らかのこだわりを持っているらしいというのも分かります。
それでも『GODZILLA ゴジラ』の後半、アーロン・テイラー=ジョンソンが米軍の様々な部隊に相乗りしつつ、行く先々でMUTOと出会いながら、なんとか妻と子供の待つサンフランシスコに帰りつこうと奮闘する人間ドラマパートは、やっぱり退屈だったのです。
MUTOは二匹しかいないのに一人の人間が怪獣に襲われる偶然がそんなに重なるのはおかしいと思うし(『GMK』の篠原ともえのような演出は、そのような偶然が滅多に重ならないということになっているから有効なのだと思います)、米軍は同じ軍属ならそんなにもフランクに飛行機列車への相乗りを許してくれるのかしらとも思うし、まず何よりも、そんなに家族を安心させたいのなら電話じゃなくメールで連絡とれよ……とか思ってしまうんですよね。
そう思ってしまう最大の原因は、怪獣映画で人間ドラマなんてみたくないからです。格好良かったり怖ろしかったりする怪獣をみたいから怪獣映画を観に来ているのに、怪獣より格好良くも怖ろしくもない人間が走ったり泣いたり銃を撃ったり窮地を脱する姿をみても、なんだか冷めてしまうわけです。冒頭に挙げた「むしろ人間ドラマが少ない方が期待できる」という反応も、同じような理由からでしょう。
直裁にいえば、怪獣映画でみたいのは人間ドラマではなく怪獣ドラマなのです。
●「怪獣ドラマ」とは何か?
ここでいう「怪獣ドラマ」とはいったい何なのか? ご説明しましょう。
「人間ドラマ」が人間によって演じられる人間的感情を描いたドラマなら、「怪獣ドラマ」は怪獣によって演じられる怪獣的感情を描いたドラマのことです。
人間的感情とは、愛や友情、成功や挫折、精神的な苦悩やその克服に伴う成長といった、人間に特徴的とされる感情のことです(「とされる」と書いたのは、必ずしもポジティブなものばかりではないからなのですが、これについては後で言及させて下さい)。
それでは怪獣的感情とは何なのでしょうか? これには二種類の解釈がありえます。
一つは、擬人化された存在としての怪獣が持つ感情です。
たとえば、『ウォーリー』やリブート版の『猿の惑星: 創世記』、『新世紀』、『聖戦記』三部作は、ロボットや猿によって演じられるロボット的感情や猿的感情を描いたロボットドラマや猿ドラマでした。ここで描かれたロボット的感情や猿的感情は明らかに人間的感情と同一のもので、その意味でこれら作品に出てくるロボットや猿は擬人化されたロボットや猿でした。
『ウォーリー』やリブート版『猿の惑星』が凄かったのは、可能な限り台詞を排してロボットや猿の人間的感情を描いていたことです。映像メディアである映画では台詞に頼らない感情表現こそが観客の心を打つという理由以上に、このことは重要に思えます。
言語を操る生物である我々人間は、人間的感情といったものを言語で理解しがちです。しかし人間的感情が非言語的表現で描かれた時、人間性というものを別の視点から観察することになります。更にそれが人間以外の生物によって描かれるのです。
このような怪獣映画は、過去に沢山ありました。我々はキングコングの中に人間と同じ愛情や慈しみの心があるのを感じましたし、モスラや(映画じゃないですが)シーゴラス・シーモンスやエイリアン・クイーンの中に兄弟愛や夫婦愛や子供への愛を感じたし、サンダとガイラに兄弟で殺しあわなければならない哀しさを感じたものでした。
もう一つは、人間性の対極にあるものとしての「非人間性」や、人間が想像すらしえないものとしての「無人間性」を象徴するものとしての、怪物や怪獣が持つ感情です。
英語で、非人間的な殺人鬼や、人間性の欠片もない官僚やビジネスマンに向かって”Monster”と呼ぶとき、このような怪獣的感情というか怪物的感情を意味します。
人種としての黒人をテーマとした映画で、黒人の感情を描かなかったら、それは失敗作でしょう。同じ理由から、怪獣をテーマとした映画で怪獣の感情を描かなかったら、それは失敗作になります……とはいかないところが、怪獣映画の難しさです。
何故なら、時に怪獣は荒ぶる神や戦争や災害のアナロジーであり、神や戦争や災害の感情を描くことは困難だからです。たとえ神や戦争や災害を前述した意味で「擬人化」した結果としての怪獣であるとしてもです。
思い返せば、1954年版の初代『ゴジラ』は、ここら辺を実に上手く描いていました。1954年『ゴジラ』のゴジラは誰の理解も共感も不可能な存在であり、圧倒的な恐怖や怨念の象徴でした。登場人物の中で、山根博士と芹沢博士のみがゴジラに対して共感を示しますが、その心情は娘であり元婚約者であるヒロインにすら理解不能で、ある種のマッドサイエンティストとして表現されているのです。つまり、ゴジラに共感を示す山根博士と芹沢博士の感情を登場人物の誰も理解できないという意味で、ゴジラの怪物・怪獣性や怪獣的感情が表現されているのです。
同様の例は多数存在します。人間が理解不能な宇宙の深淵からの猛威であるキングギドラやガイガンやレギオンや一作目のエイリアンの感情は人間には理解できません。自らの星を核実験で滅ぼしたバルタン星人の哀しさは(『ウルトラマンコスモス』まで時間が経たないと)全く表現されませんし、ウルトラマンを倒す程の力を持つゼットンやパンドンはまるで機械のように感情移入を阻む存在として描かれました。
●怪獣的感情を持った怪獣バトル映画の問題点
ここで一つの問題が発生します。
非人間的な怪獣同士が織り成す、もしくは戦いあうことによって発生する非人間的な怪獣ドラマのどこが面白いのか、誰が観に来るのか? といった問題です。深海に棲むゴカイのような生き物の恋愛や、顕微鏡でしか観察できないバクテリアの繁殖を面白いと感じ、感動できる人間は少ないでしょう。(生物学者以外が)感動できるとすれば、それは(ある程度)擬人化されているからdesu。
1954年『ゴジラ』のように怪獣が一体だけの場合は、まだなんとかなります。怪獣VS人間の構図をきっちりと成立させ、非人間的な怪獣に抗する人間のドラマを描けばいいのです。しかし、チャンピオンまつりや平成VSシリーズや『GODZILLA ゴジラ』や今度の『キング・オブ・モンスターズ』のように、二対以上の怪獣が対決する場合は一気に難しくなります。クライマックスが怪獣同士の対決とならざるを得ないこの種の映画では、映画前半でどんなに人間のドラマを描こうとも、それが映画全体のストーリーの解決に繋がりづらいのです。
つまり、人間もしくは擬人化が必要なのです。怪獣映画は怪獣さえ出てくれば成立しますが、面白くなるためには、どうしたって人間もしくは擬人化が必要になるのです。
怪獣映画でみたいのは怪獣ドラマですが、我々が人間である以上、究極的には人間ドラマにしか共感できない――これは大いなる矛盾です。
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