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小沢一郎代表講演「安全保障及び自衛権行使のあり方について」

2014/05/09 11:16 投稿

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2014年4月7日 総合政策会議


4月7日に開催した第85回総合政策会議にて、小沢一郎代表が安全保障と自衛権をテーマに講演を行いました。
講演要旨は以下の通りです。


○畑浩治 総合政策会議議長


本日の総合政策会議は安全保障及び自衛権の行使のあり方についてということで、小沢代表からご講演を賜りたいと思う。

最近の話題は、まさに集団的自衛権をどう考えるかということであり、これについては色んな議論があるが、今から小沢代表のお話をいただくけれども、我党の考え方は、まさに急迫不正の侵害、あるいは周辺事態が我国に迫っている時に必要最低限の実力行使をするということであり、そこの範囲がどうかという議論はあるが、集団的自衛権というこの「自衛権」の分け方の設定自体が不適切であると考えている。

さはさりながら最近、全体の議論の中で「限定された集団的自衛権」という議論も出てきて、どのような立場に立つ党派であっても結論が似てきていると思っているが、そこの論理の立て方をしっかりやっていくことと、そして、今までの解釈が間違っているから解釈改憲でいいのかどうかというのは、また別の問題でしっかり詰める必要があると思っている。
これからしっかり勉強していきたいという思いで組ませていただいた。



○小沢一郎 代表


ご講演というほどのことではないけれども、今まで安全保障そして集団的自衛権、自衛権の話は何度もしたつもりでいたのだけれども、今話題になっているのであらためて話をしろということなので、今日の時間を活用させていただく。
これは私自身の考え方であると同時に、自由党以来皆で議論しながらしっかりとお互いに理解した考え方であり、そういうことも踏まえてお聴き取りいただきたいと思う。

まず、集団的自衛権なるものを議論するには、日本国憲法そのものを基本で理解をしていかなければならないと思う。
大事な部分だけを抜粋して皆さんにお配りしたけれども、ちょっと話の順序と資料が逆になるかもしれないが、1枚紙なので是非資料を見ながら考えをまとめていただきたい。

自衛権については、日本国憲法では明確な規定はない。ただ、だからこれに加えようという意見もあるけれども、ほとんどの国で殊更自衛権を憲法に明記しているというところはないようである。と言うのは、自衛権というのは自然権としてどの国も、あるいは個人で言えば誰でも持っているというものだからである。

その一つの根拠としては、国内法で言うと、憲法には規定がないにもかかわらず、刑法では緊急行為として緊急避難と正当防衛というものがきちんと認められている。
これは、あまり憲法論として堂々の論拠を伴うものではないけれども、現実に実体法である刑法の中に、正当防衛と緊急避難というのが憲法違反と誰も言わずに認められているというのは、当然の自然権であって、個人であろうが個々の国々であろうが自衛権を持っているということだから、この点について日本国憲法が逐条に書いていないからと言って、不思議だと、あるいは書くべきだという議論は必ずしも正当な大勢の議論ではないということである。

それから、資料を見てほしい。これをまったく当然とする考え方が、国連憲章第51条に書いてある。これは国際連合加盟国に対して、武力による攻撃が加えられた場合においては、国連の決定がなされるまではそれぞれの国の、ここには個別的・集団的自衛権という風に書いてあるが、自衛権の行使によって武力の攻撃に対しては武力の反撃を認めるということが、国連憲章51条に書かれている。

したがって、51条に書いてあるということは、当然の権利として認められているものだから、多分逐条になったのだろうと思う。そうでなければもっと前の方に規定されてしかるべきだと思うが、こういうことも当然の権利であるから、日本国も個別的・集団的自衛権を保持していると、また行使出来るという風に考えている。

従来の法制局は、持っているけれども行使出来ないという変な解釈をしている。行使出来ない権利などというものは権利ではない。行使も出来るというのは、ごくごく当たり前のことであり、法制局が戦後の度重なる変遷の中の一つの言い訳、屁理屈として言っているだけである。それさえも今また変えようとしているわけだから、法制局の理屈などというものはどうにでもなるということがよくよくお分かりだと思う。

いずれにしろ、自衛権というものは当然の自然権としてどこの国も、そして個々の人々も含めてすべて持っているということである。
それならば、日本国憲法において日本はどのような場合にこの自然権である自衛権の行使を許されるのかということになる。
私は日本国憲法だけでなくして、世界中のどの憲法にも日本国のこの精神は当てはまるべきものだと思っているが、日本には憲法9条がある。

日本が、9条の表現で言えば「国権の発動たる武力の行使」、すなわち自衛権の行使は、今まで俗に言われていたものは急迫不正の侵害が日本に対してあった時、すなわち日本が攻撃を受けた時。それからもう一つは、周辺事態法に言う、放置すれば我国が攻撃を受ける可能性のある事態ということであり、これは私どもが自由党の時に政府自民党の案に、強硬に主張して付け加えさせた文言である。

政府案はただ単に周辺事態の時は云々という法律だったが、それでは周辺事態の周辺はどこだという話になれば、もう何でもできるということになってしまうので、放置すれば日本国の安全に影響のある、すなわち攻撃を受ける可能性もあるという場合、日本は自衛権を行使できるということである。

この法律が出来た時に、ちょうど私は中国を訪問しており、中国の協商会議の親分が、この周辺事態の問題について非常に懸念を表明し私に対して批判がましい意見を言った。
そこで私は、あなた方の批判は当たらない、よく自分の行為を思い出してみろ、朝鮮戦争の時にあなた方は北に協力して戦争に加担した。何故だ。まさにそのまま放置すればもしかして連合軍が中国の満州まで踏み込んでくるかもしれないという、多分そちらの危機感で参戦したのだろう。だから、その判断が正しかったのかどうかは別にして、放置すれば自分の身に危険が及ぶということは、あなたがた自体も事実経過があるではないか。我々も同じだ。これは、国民党政府ではなくして共産党政権の時のことですよ。ということを申し上げたら、何も言わずに終了後はニコニコ笑って強く握手してくれた。だから、正しいことはきちんということが大事である。
それは余談だが。そういう直接攻撃を受けた時と周辺事態法に定める事態が起きた時に、日本国は武力による反撃をすることができるということである。

ただ、憲法9条があるので、これは国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄すると、武力による威嚇又は武力の行使、すなわち武力行使は永久に放棄すると。国権の発動たる戦争、武力の行使となれば国権の発動による武力行使といえば自衛権の発動であるが、これは国際紛争を解決する手段としては永久に放棄すると9条は謳っている。
国際紛争を解決する手段というのは何かと言うと、自衛のための急迫不正、あるいは周辺事態これを除くと、要するに日本が直接攻撃を受けたり、あるいは周辺事態によってそのままにしていくと攻撃を受ける恐れがあるという事態を除いては、その他の国際紛争で武力の行使はいけませんよと、9条に書いてあるわけである。

だから、簡単にいえば、日本の国の安全と直接関係のないこと、巡り巡って関係あると言えば何でも関係あるけれども、直接関係のない国際紛争について日本がそこへ出かけて行って、自衛権を行使するということはいけないというのが9条の趣旨である。

だから、日本国憲法9条がある限りは、アメリカと一緒であろうが、どこと一緒であろうが、日本と直接関係のない国際紛争に一緒になって武力の行使を含む紛争解決の行動をしてはならないということである。
これは、ずっと変遷・流転極まりない法制局も、つい最近湾岸戦争の時には、私が何としても輸送船、輸送機でもいいからこれに参加すべきだと言った時に、その輸送も武力行使の重要な部分であり、武力行使と密接不可分のものであると、憲法違反だから出来ないとぬかしたわけである。ぬかしたというのは本当にあの時のことを思い出すと癪に障るからだけれども、そう言った。

このこと自体は正しい。補給行為というのは戦争する上において、兵站線というのは、前線でドンパチやるよりも本当は一番大事なのだ。いわゆる第二次大戦において大日本帝国も、すべて補給線が続かずに前線で何百万の人が死んでいった。ヒットラーのロシア侵攻も結局補給線が続かずに破られた。その前にはナポレオンのロシア遠征もその通り。だから兵站線というのは、戦争する上において最も大事なことなのだ。
それをもっと源を探れば金だけれども。軍資金がなくては戦争は出来ない。
だから、日本は日露戦争の時はアメリカ、イギリスが味方になってくれて、一生懸命国債を売って戦費を調達した。したがって、ようやく戦争が出来たが、それが限界に達してしまって、そこで仲裁してもらって良かったということになった。

ちょっと脇道にそれたが、いずれにしろそのこと自体は正しいのだけれども、法制局はその湾岸戦争においても、密接不可分の行為だからだめだと強烈に反対した。防衛庁も外務省も反対した。その後の彼らの変節ぶりは、まさに目を覆うばかりであり、小泉内閣の時に石油の補給をやった。
これも補給線・兵站線の行為であって、法制局の従来からの論理で言えば、まさに武力行使と密接不可分の行為であるからして憲法違反なのだが、なんだか知らないけれども正しいということになった。
多分今度も、安倍総理が総理を続けている限り、またこれを解釈論でやろうとする限り、法制局はまた屁理屈をもって彼らの議論を変えるということになるのだろうと思う。

いずれにしろ、余計な事を言ったけれども、9条がある限り日本に直接攻撃を受ける、あるいは放っておけば日本が攻撃を受ける可能性のある場合以外には国際紛争に武力をもって、それを解決するためであっても参加してはいけないというのが憲法9条である。

そうすると、自分のことだけで後はわれ関せずかということになるが、そうではない。
その他の国際紛争については、日本国憲法は前文において、高らかに謳い上げている。「われらは」と始まるところで、「国際平和を維持し云々、国際社会において名誉ある地位を占めたい。」こういう風に謳っている。
それはどういうことかというと、国際社会の一員として国際の平和のためには一生懸命頑張りますということを前文で謳い上げているわけである。

そして、その具体的な日本の声明というのは、国連加盟時に3度に渡って言っているのだけれども、加盟申請書、加盟が認められた時の外務大臣、それからもう一つ政府声明だったか、それにおいて触れている。
何と言っているかと言うと、「何とかして国連に参加させてください。」あるいは「参加させて頂いてありがとうございます。」、「我々は国際連合の加盟国となったその日から、その有するすべての手段をもって、その義務を遂行することを約束する。」これを3度に渡って謳っている。
あらゆる手段をもって国際連合の仕事に参加する。日本が言っているのである。他の国が言っているわけではない。日本国政府がそう言って声明を出している。

この、「あらゆる手段をもって」という部分の英文にケチをつけて、「at it proposal」という英語だが、「proposal」=「申し込み」、それは何か日本の特殊事情でもって武力の行使はだめよという英文の意味だという、あほな事を言う人がいるが、これはアメリカ人に聞いても、イギリス人に聞いてもその英文にそんな意味はない、「あらゆる手段をもって」という日本語訳そのものであるということが、言語学的にも確認をしている。
だから日本は、自分に直接関係ないことの国際紛争については、国連の決定に従って、あらゆる手段をもってそれに協力するということになっているわけである。

このことを右の人は右の人でおかしな解釈をしているし、左の人は左の人でおかしな解釈をしているし、非常に筋道の論理が混乱をしている。
それは、自分の目先の都合のいいように屁理屈を付け回すものだから、結局おかしなことになる。左の方の人たちは何が何でも武力の行使に渡るものはだめだと言うし、右の方の人は安倍さんのように、憲法改正をするのはなんだから解釈で勝手にいける様にしようとするし、どっちも非常に論理性に欠ける議論であると私は思っている。

こういうと一番右の人が文句をつけるのは安保条約である。日米同盟と国連中心というのは矛盾すると、必ずこういう変な議論をする。全然矛盾していない。ここに安保条約の抜粋があり第5条を抜粋しているが、ここにも(国連憲章)51条と裏腹だけれども、日米安保条約、国連が決定した場合においては日米の共同行動は中止すると、それによって終わると、すなわち国連の紛争解決の手段に任せるということになっていて、国連決定までには必ずタイムラグがある。その間はそれぞれの国が個別・集団的自衛権によって、武力の行使を含んだ反撃をしてよいということになっており、51条、日米安保はまさにそのことを明文で書いており、なにも論理的に矛盾することはない。
日米同盟と日本国憲法、国連憲章、国連の理念、これは三位一体。三者が同一の理念を背景に書かれているものであるということを、是非理解をしていただきたいと思っている。

この集団的自衛権を安倍さんは憲法解釈で進めたいというように聞いているけれども、もしこれをやりたいのならば、それは憲法9条改正論を堂々と打ち出すべきである。
改正論であれ、あるいは付け加えてもいいのだけれども、いずれにしろ現行の日本国憲法の変更を正面から主張すべきだと私は思っており、公明党が賛成するかどうかは別ですが、衆議院では自公で3分の2持っているならばやるべきだろうと、そう思っている。これが結論である。

それから、日本国憲法9条というのは世界でも類を見ない変わった条文であって、こんな現実に合わない理想的なものはそもそもおかしいという、これまた右の人の理論があるけれども、そんなことはない。
これは、国連憲章の前文にも書いてある。「武力の行使を用いないことを原則の受託と方法の設定において云々」という、武力の行使をしないという意味のことは国連憲章の前文にも書いているし、一番最初にこの文言を使ったのは、第一次大戦後の俗に「不戦条約」と言われる「ケロッグ=ブリアン協定」である。

この中にも「国家の政策の手段として」、「戦争を放棄することをそれぞれの人民の名において厳粛に宣言する」、まさに9条そのものの文言がある。
だから、9条が何か敗戦の賜物で突然出てきたように右の人は主として言う人が多いけれども、そんなことはない。不戦条約の時に全く9条と同じ文章がそこに書かれているということもまた、覚えておいていただきたいと思う。

いずれにしろ結論は、自衛権の行使は我が国が直接攻撃を受ける、あるいは周辺事態で放置すればわが国が危ういという時にのみ行使し、その他の国際紛争は国連を通じて日本国は積極的に参加して、平和の維持の為、回復の為に努力するというのが、私は正しい憲法解釈だと思う。

これに付随してちょっと、今話題になっているから申し上げると、限定的集団的自衛権とある。
これも、私どもが今言った個別的・集団的自衛権を攻撃を受けた時はやれるのだとすると、その時の集団的自衛権とはどういう形なのかということを、そういう時だけつまらないことを色々言う人がいるけれども、戦争だから、そんな今からこういう事態、ああいう事態なんて個別に定めることが出来るはずがない。

だから、今の限定的な集団的自衛権の行使なんて言うのは、ではどういうケースを限定するのか、そんなの法律なり解釈なりで限定出来るはずがないのである。そんなわけのわからないことは論理にならない。ではどうするのだとなると、もちろんそれはその時の政府の判断になるけれども、今申し上げたように、日本は現憲法の下では、日本と直接関係のない国際紛争に集団的自衛権の名の下に武力の行使を含めた行動をとることは許されない。そういうことであろうと思っている。

以上が私の話である。

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