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「縁」をつくれ、「血縁」ではなく~生身と涙~

2017/10/30 21:49 投稿

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URAZARU企画 vol.1 「pooh」は、ひとりの青年と彼の仲間、彼の妹、そして彼らが出会った医療関係者の物語だ。物語はきわめてわかりやすい、途中からこうなるんだろうな、という予想もつき、予想通りになる。たとえば、「感動系」の一言ですんでしまう。

少なくとも、私が観劇した、2017年10月27日の青チーム(青pooh)の公演会場で、一度も涙を流さなかったひとはいないだろうと思う。でも、それは「感動系」の物語に感動したから、では、おそらくない。では、なぜ、あの舞台を観て、私たちは涙を流すのか。


あすぱら(以下、敬称略)が演じた羽田雄大という青年は、脳梗塞で倒れ、脳血管障害が悪化するうちに、運動障害、記憶障害、言語障害が起きて、最後にはその若い一生を病院のベッドの上で「たったひとりで」終える。

岡部直弥演じる由森を初めとする兵太、玉緒、舞、光子は雄大の幼馴染みで地元の仲間であり、雄大の妹陽菜とともに、記憶を失っていく雄大のその記憶を、雄大の「忘れたくない」という願いに、「忘れさせたくない」「忘れられたくない」という祈りをこめて、引きとめようとする。

雄大の仲間と妹たちのそんな思いに応えようとして、病院のスタッフはそれぞれにできる限りのことをする。だが、それもむなしく、雄大の病状は悪化の一途を辿り、記憶は幼児退行するほどに失われ、一時は回復した運動障害も再び悪化し、言語障害も起きてしまう。

演劇というジャンルの特質は、編集のきかない舞台という場所に置かれた役者の身体-心の生なましさ、だろう。身体と心のつながり、身体-心をとりあえず、「身」と呼ぶなら、役者の「生身」が目の前にある、ということ、それが演劇というジャンルの特質であり、魅力であり、そしておそらく、「力」でもある。

セリフを動きを通して役者は、私たちの生において、身体も心もいつも同じ強度で存在しているわけではなく、その強度をゼロから無限大にまで変化させながら私たちは毎日を生きている、という事実に気づかせる。身体の強度と心の強度はつながってはいるが別々に決まるから、その組み合わせである「生身」もまた、無限のかたちと強度をもつ。

たとえば、雄大の演じるあすぱらの「生身」は、記憶を失うことで心の強度を弱めていくが、それとは逆に、衰弱し公演時間2時間ほどのあいだでこれほどまでに変化して見えるものなのか、と思う身体のほうは衰弱とともに強度を増し、その「力」で観るものを圧倒しつつ触発する。

私たちが泣くのは、泣いてしまうのは、物語がなければ、仲間や妹、医療関係者がいなければ、私たちの目の前につくられ、現れることのなかった雄大の「生身」の「力」に触発され、自分もまたそうした「生身」を持つ者にほかならないことに改めて気づくから、いや、私たちの「生身」が、雄大の「生身」と共鳴するから、ではないか。


この物語に、雄大と陽菜の両親は登場しない。雄大が病に倒れた時点で、母親は他界しており、単身赴任している父親は病院を訪れようとはせず現実と向き合おうとしていない。記憶障害の果てに幼児退行した雄大は、「おかあさんは? おとうさんは?」と由森を初めとする仲間に問う。現在の陽菜のことも忘れてしまい、「おねえさんだあれ? ひなはぼくのいもうと、ちっちゃいんだよ」と言う。その時の雄大は、あたかも、誰とも血縁を持たず生まれてきた子どものようだ。

「忘れること」のかなしみと「忘れられること」のかなしみが交差するところに生まれるかなしみに対し、無力であることのかなしみを医療従事者も含め、登場人物全員が、分かち有つ。

その無力さにたったひとつだけ、抗うものがある。ひとつの歌が。この舞台の題名にもなっている、「pooh」という歌は、雄大が仲間たちとかつてつくった歌だ。歌の題名の決定の過程から、「肛門期」がどうの、などという話もできなくはないだろうが、そんなことは「解釈するだけで、世界を変える」ことのない「精神分析」の専門家にまかせておこう。

記憶を失い幼児退行した雄大は、由森を「おにいちゃん」と呼び、「pooh」のことも忘れている。だが、「はじめてきく」その歌を、「いいうただね、ぼくこのうたすき」と、雄大は言う。そして由森に、ピアニカで演奏してほしいとせがむ。病に倒れる前も、倒れてからも音痴な雄大に、由森は「pooh」を教える。時には自分で歌いながら、時にはピアニカで演奏しながら。

誰ひとりとして止められなかった忘却を、ほんの一瞬だけ、ひきとめたもの、病に倒れる前の雄大と病に倒れた後の雄大をつないだもの、それが「pooh」だ。

「pooh」という歌とそれが呼び覚ます仲間たちと過ごした海の光景が、ほんの一瞬、病に倒れる前の雄大の心を、呼び戻し、「由森」と、忘却された名を口にさせる。その時、衰弱しきった雄大の身体、最も強い強度の身体が最も強い強度の心と結びつき、「生身」とともに私たちの目の前に現れたもの、それを「縁」と呼びたい。「血縁」「地縁」「社縁」といった「〇縁」ではなく、ただの「縁」と。

母親はすでにおらず、父親はいないも同然、妹のことも忘れてしまった雄大には、「血縁」はない。自分の生活のための時間を削ってまで足繁く病室に通っていた妹も、忘れられたかなしみに耐えられず、もはや病室を訪れることはない。彼を看取るものは、誰もいない。

だから、彼は「たったひとりで」死んでいく。入院した病院のベッドの上で。一瞬甦った記憶に喜び医師を呼びに行った由森がいないあいだに、雄大は「たったひとりで」死んでいく。

でも、彼は「孤独」ではない。彼には仲間との、「pooh」がつくった「縁」がある。だから、ピアニカを、あたかも「pooh」を、そして「縁」を抱きしめるかのようにして、死んでいく雄大の顔は、笑っている。その笑顔に、笑顔の幸福さに、私たちは触発され、私たちの身体は、心は、静かに泣く。


主役のあすぱらが所属する COJIRASE THE TRIP (通称、こじとり)の先日の定期放送で初公表されたように、あすぱらの前職は、医療ソーシャルワーカーだ。

ここで、個人的な思い出を語ることを、お許し願いたい。

2011年6月14日ニコニココミュニティ、あすぱら@Terfume で、ひとつの生放送が行われた。生放送主は、今や、ボーイズアイドルグループ MeseMoa. のメンバーであるにーちゃん、つまりコミュニティをジャックした放送で、当日が誕生日のあすぱらへのサプライズだった。同じく今や、MeseMoa. のサブリーダーでもある気まぐれプリンスも交え、のべ552人のリスナーも参加して誕生日を祝った放送で、あすぱらはだいたい次のような感謝のコメントを述べた。

「もっと生きたくても生きられないひともいる。そんな世の中で、こんなふうに誕生日を祝ってもらえることができる自分はなんて幸せなんだろう。」

号泣しながら、ほとんど支離滅裂で、実際、あまりにも「もっと生きたくても生きられないひともいる」という話が唐突すぎて、ほとんどのリスナーは「???」状態で、実際生放送のコメントにも「なんのこと?」「よくわからない……」といった当惑したコメントもあったように記憶している。その段階であすぱらの仕事のことをはっきりと知っていたのは、にーちゃんと気まぐれプリンスの2人だけだっただろうし、そうした反応も仕方なかったと言える。

今にして思えば、医療ソーシャルワーカーとして仕事をしていた彼は、病院で起きる避けられない出来事としての「死」に幾度となく出会い、自分の無力さを思い知らされる経験をしてきたのだろう。彼は、今回の物語でいえば、医療関係者の立場の経験をしてきた、そういうひとだ。そして、私はそれにそれとなくなら、6年前から気づいていたし、先日の本人の公表で確信も得た。

だから。

終演後の交流の時間で、たったひとつだけ、どうしてもあすぱらに訊ねたいことが、私にはあった。

「終盤、ベッドでずっと身体を震わせていたの、大変じゃなかったですか?」

あすぱらの答えはこうだった。

「いや、そんなに大変じゃなかったです、あはは、俺アル中なんかな」

演技なのだから、役者の意識が皆無ということはないだろう、自分で身体をコントロールして、その場面にふさわしく身体を動かす、それは当然行っている。だから、身体を震わせよう、とあすぱらがしていたのは確かなことだ。

だが、あの震え、雄大が病に倒れる前から忘備録として持ち歩いていたノートいっぱいに「ありがとう」と書き綴る、あの震える腕の動きには、役者としてのあすぱら個人の身体を超える何かがある。もっと生きたいと願いながら、その願いが叶わなかったひとたち、医療ソーシャルワーカーとして彼が出会い、見送ってきたそのひとたちに、自分の身体を貸し与えるようにして、彼は身体を震わせていた、私にはそう思えた。

そしてそれは、「喪に服する」と私たちが呼ぶ身振りのありようなのではないか。

亡くなった者を祀り上げ、自らの無力さを否むのは死者への冒涜だ。それが国家のための祀り上げであろうと、国家に抗するための祀り上げであろうと、祀り上げることは、「喪に服す」ことから遠く離れた身振りだ。

そして私たち、残された者に、「喪に服する」時間の長さは決められるのだろうか。私たちはいつ、「喪に服し」始め、そしていつその「喪は明ける」のか。私たちは誰の「喪に服する」のか。「誰」を私たちは自在に選べるのか。

「縁」をつくるには、誰かの死を止められなかった自らの無力さを否むことなく、今は亡き誰かに身体を貸し与えるように、ひとつの身体をともに分かち有つようにすること、「喪に服す」ことが必要で、「青pooh」で、雄大の死に顔、あの笑顔が表す「縁」の確かさがリアルなものとして観客に伝わるとしたらそれは、「喪のない縁」「縁のない喪」もないから、ではなかろうか。


ひとは「縁」をつくる、だが思うようにではない。

どこかで似た言葉を目にしたことがある。でもそれは今はどうでもいい。

そして。

「縁」をつくれ、「血縁」ではなく。

あすぱらの「生身」があの舞台の上にあらしめた雄大の死に顔、あの笑顔が、私たちにずっと、そう語りかけ、命じ続けるだろう。

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