著:古樹佳夜
絵:花篠
吽野:浅沼晋太郎
阿文:土田玲央
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第三話第一章 文豪の集い
◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆
吽野「寝癖直んないな……ま。いっかぁ」
吽野は前屈みになりながら
右手で前髪をいじり、ぶつぶつ言っていた。
阿文「おや、先生が鏡台の前で髪を整えている。まるで猫みたいだ」
部屋に入ってきた阿文はくすくすと笑った。
足元をすり抜けたノワールが、目を細めて、細く鳴いた。
ノワール「ニャー〜」
阿文「ははは。確かに、ノワールの言う通りだ。猫だったらあんな寝癖はつけてない」
吽野「悪口が丸聞こえなんだけど」
阿文「おっと、気づかれた」
吽野「たく、聞こえよがしに言ってくれちゃって」
ノワール「にゃん」
吽野が拗ねて口を尖らせたので、阿文はからかったことを謝った。
阿文「先生はどこか出かけるのか?」
吽野「うーん……まあねー……作家交流会だよ」
阿文「交流会……? 誘われたのか」
吽野「そう。編集者経由でね」
阿文「交流会、かぁ。先生に作家友達ができるのはいいことだ。これで出無精も治るといいんだが」
吽野「行きたくて行くんじゃないって。編集から一生のお願いだ〜って、されちゃったのよ」
阿文「一生のお願いとは、また重大だな。よっぽど困っているらしい」
吽野「そうだよね〜。目の前で土下座されちゃあね」
阿文「吽野先生にお願いするなんて、高くつくぞ」
吽野「人を悪人みたいに……」
そうは言っても、吽野の口元が、にひひ、と
悪そうに歪んでいるのを阿文は見逃さなかった。
土下座されたことを思い出しでもしたのか。
なかなかいい性格をしている。
阿文は心の中でひとりごちた。
阿文「重要な人物との交流会なのか?」
吽野「そう。かの文豪、平井太郎先生からのお誘いなんだと」
阿文「平井先生! あのちょっと過激な怪奇小説を書いてる?」
吽野「そうだよ。よく知ってるね」
吽野は大袈裟に感心してみせる。
阿文「書庫にずらり並んでいるから、店番ついでに読んでいるんだ。世間を騒がせているだけあって、どれも面白かった」
吽野「俺もあの人の本は好きだけど。作家本人も好きかと言われたら、別の話だね」
阿文「そうなのか? 吽野先生と同じ怪奇小説を書いているのだし、気が合いそうなものだが」
阿文は不思議そうに小首を傾げた。
吽野はとんでもない、と言いたげに、
頭を2、3度振った。
吽野「変わり者だって有名らしいよ。変なものいっぱい収集してるらしい」
阿文「先生もよっぽどだぞ?」
阿文は思ったことが思わず口をついた。
吽野は、そんなことないよ、と反論した。
吽野「その平井先生が、俺をどーしても自分の主催する文化人サロンに誘いたいって何回も、何回も、連絡してくるんだそうだ」
阿文「何を嫌がることがある? 大変に名誉なことだろう」
吽野「名誉? どうでもいい。俺は人に会いたくない。家から出たくない!」
吽野は声を張って、力強く反論した。
その様子に阿文は呆れた。
阿文「そこまで嫌なら断ればよかったのに」
吽野「断ったさ! 飼い猫が死んだとか、同居人が亡くなって喪中だとか、毎回理由つけては、丁重にお断りしてたんだよ。でも、もう殺す人が居なかったからさ」
阿文「勝手に僕やノワールを殺さないでくれ」
吽野「ごめん。なんせ、今じゃ町内会の人は全員死んだことになっている」
阿文「ひどい話だな」
いよいよ阿文は呆れた顔になった。
取り繕うように、吽野は咳払いする。
吽野「しかしまあ、約束は約束だ。こうして身支度も整えて、行く準備もしてるでしょ」
『自分だって、これでも折れてやってるんだ』
吽野は腕組みなぞして、半ば捨て鉢な雰囲気を放った。
阿文「サロンなら他の作家も大勢いるだろう。作家友達を作ってくればいい」
阿文は、説得してやろうという気持ちで言葉を付け足した。
すると吽野は、
吽野「作家友達なんていらない。君や、そこの毛玉とか、話し相手には事欠かないからね」
ああ言えばこう言う、いつもの返しだ。
ノワール「フシャー!!」
足元にいたノワールは毛を逆立て、吽野の足に一撃をくらわす。
吽野「あーもう、俺を引っ掻くな!」
阿文「友達を毛玉呼ばわりするからだろう」
ノワールをしっしっと追い払いつつ、吽野は会話を続けた。
吽野「ともかくだ」
吽野「多分、今から行く場所って、君が思い描くようなところじゃないよ」
阿文「どう言うことだ?」
吽野「どうやら、サロンってのは建前らしい。やってることは、英国伝来の交霊会らしいって……編集者が言ってたんだ」
阿文「交霊会……?」
吽野「死者を呼び出して、話を聞き出すって……まあ、オカルトの会合だよ」
阿文「ははぁ、いかにも、怪奇作家らしいな」
吽野「だよね……」
吽野は、「ああ、行きたくない、行きたくない」とぼやいていた。
一方、交霊会と聞いて、阿文の目は爛々と輝いていた。
阿文「僕もついていっていいか? 少し興味がある」
吽野「別に構わないけど……気をつけてね」
阿文「気を付ける?」
吽野の頭に少しの不安が過ぎる。
なぜなら、阿文は憑かれやすい体質だ。
呼び出した霊が取り憑くともわからない。
十分に注意せねば。吽野は密かに決意を固めた。
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第三話第二章「呪われた人物画」
◆◆◆◆◆平井邸◆◆◆◆◆
平井邸は立派な二階建ての日本家屋だ。
広い敷地をぐるりと取り囲む和塀。
門の横には、美しく剪定された立派な松の木。
さすが、売れっ子作家の家は違う。
吽野と阿文がこそこそ話していると、
庭の方から、和服を来た四十くらいの男がこちらにやってくるのが見えた。
平井「やあやあ、その派手な格好。君が吽野君だね」
吽野「あなたが平井先生ですか」
平井「さよう、君を待ちわびていたよ」
男はにかりと笑う。わざわざ、家主自ら出迎えてくれたのか。
黒縁メガネに、神経質そうな細い眉。ごま塩の髪を撫で付けている。
編集者から伝え聞いていた風貌の通りだ。
平井「おや、そちらの青年は?」
吽野「私の助手の……」
阿文「阿文と申します。突然押しかけてしまい申し訳ございません」
平井「構わんよ。さあ、もう他の参加者は来ている。二人ともこちらに入りなさい」
吽野「ありがとうございます」
平井「いやぁ、今日は会えて嬉しいよ。前々から君と話がしてみたくてね」
吽野「ありがとうございます。まさか先生が私をご存知とは、意外でした」
吽野のはりついた笑顔は完全に営業用だった。
平井「そうかね? 我々の間では君は有名だよ。少々奇妙な文体ではあるが、その発想は他にはないものだ」
吽野「もったいないお言葉、痛み入ります」
普段、自堕落を絵に描いたような吽野が
その道で成功を収めている先生に評価されている。
隣で様子をうかがっていた阿文は感心し、
吽野を誇らしく思った。
平井「私が発起人となっている文学サロンでは、文人の他にも文学に興味のある芸術家も招いているんだ。月に二度ほど定期開催し、常連も多い。君さえ良ければ、ここに通うといい」
吽野「はあ、考えておきます」
吽野は笑顔を浮かべつつも、そっけなく受け答えした。
平井に導かれ、本邸と思われる日本家屋を素通りし
庭の北側に向かった。
早咲の梅にメジロが止まり、囀っている。
なんとも長閑な光景だった。
すると、敷地内にこじんまりとした
二階建ての洋館が現れた。
門からは見えなかったが……
平井「この建物は、執筆時間だけに使っている。いわゆる仕事用だね」
吽野「ははぁ。羨ましい」
外装はいかにも西洋かぶれだ。
金が有り余ってるのだろう。
吽野はひねくれた言葉を飲み込んで、
大袈裟に驚嘆してみせた。
阿文は、洒落た青い外壁やアーチ窓に素直に関心している。
二人は洋館の扉の前で若い女中に出迎えられた。
手土産の饅頭を女中に手渡し、奥に通される。
その部屋は壁一面が本棚だった。部屋の中央には
猫足の木のテーブル、
背もたれに洒落た飾り彫りのされた木の椅子が6脚。
そこに腰掛ける男が3人。
皆、琥珀色の酒を片手に、談笑している。
やたらと煙たい部屋だった。
みんな喫煙者なのか、
スパスパと巻きタバコや煙管を蒸している。
夏木「おぉ〜、来たね」
芥塵「鬼才登場だな」
夏木「本当に来てくれるとは、どんな話をしてくれるのかな?」
久多「ふひっ……」
随分と、見た目も話し方も個性的な人々であった。
阿文「みなさんは、どんな小説を書かれているんですか?」
阿文が質問すると、口髭を貯えた男が自己紹介した。
夏木「僕は、猫が主人公の小説を書いているんだ。夏木というペンネームでね」
阿文「もしかして、『吾輩は黒い猫』、ですか?」
夏木「ああ、そうだよ」
阿文「僕、それ読みましたよ! すごく面白かったです」
夏木「おぉ、ありがとう。読者から直接感想を頂けて嬉しいな」
芥塵「俺は、『足』って話を書いたな。最近」
ぎょろりとした目の青年が今度は自己紹介した。
阿文「ああ! あれも面白かったです。じゃあ、あなたは芥塵先生?」
芥塵「いかにも」
青年は嬉しそうにニヤリとした。
吽野「私は吽野です。こっちは助手の阿文。よろしく」
吽野は挨拶もそこそこに部屋の中を見渡した。
部屋の中には、平井が普段腰掛けているであろう、
原稿用紙の置かれた書斎机。
その隣の棚は、本や辞典の他にも、
平井の趣味で集められたものがずらり並んでいる。
ネズミの奇形のホルマリン漬け、ツノの生えた頭蓋骨、
カミキリ虫の標本、ひび割れた仮面、
黒曜石、日本人形……、
意味のわからないもので埋め尽くされている。
ただ、どれも一貫して曰くがありそうだった。
説明されずとも、触れるのを躊躇する代物だ。
それらが集まっているから、
この部屋全体に陰の気がこもっている。
平井「吽野君は、私のコレクションに興味があるのかな?」
吽野「ええ、まあ……」
棚から目を離さずに、上の空で吽野は答えた。
阿文「そろそろ座ったらどうだ」
話の輪に入らない吽野を引っ張って阿文は椅子に座らせた。
吽野は仕方なくそれに従った。
阿文「すみません……本当に」
平井「ははは、構わんよ」
吽野「いい品々だ。私も収集癖があるもので、つい興味を惹かれました」
平井「君ならきっと気にいるだろうと思っていた。さすが、私が見込んだ作家だ」
さっきからやたらと煽てられ、居心地が悪い。吽野はから笑いして、
懐から煙管を出して火をつけた。
夏木「それで、この前刊行されたあの小説だが……」
白田「ああ、知っているよ表現が秀逸だったね」
文人たちは昨今の大衆文学の論評や、世間話を続けていた。
阿文はその話を興味深そうに聞きいり、時々うなずいている。
一方、吽野は話題にさして興味もない。
椅子に座りながらも部屋の中のものを見たいと
キョロついていた。
ふと、吽野が目を止めたのは向かいの壁だった。
異様な絵が飾られている。
吽野「なんですか、あの絵は……」
その絵は、男が叫んでいる絵だった。
茶色と赤が混じった色で塗りたくられ、禍々しいオーラを放っている。
平井「あれは、『呪いの人物画』だよ」
吽野「呪い……?」
平井「その絵、妙に赤茶色だろう? 特殊な絵の具で描かれているんだよ」
吽野「特殊な絵の具ですって?」
平井「画家の体液……すなわち血だ」
いつの間にか、平井の話に全員が耳を傾け、沈黙が訪れた。
平井はニヤニヤと口に笑みを浮かべる。
一方吽野はさして動揺することもなく、口から細く煙を吐いた。
平井は嬉々として話を続けた。
平井「画家は貧乏で、絵の具が買えなかった。だから自分の体から血を抜いて、絵の具がわりにしていた。絵が描き上がる頃、自分の血を抜きすぎて絵の前で絶命していたとか」
平井は気を良くして、気味の悪い笑みを浮かべながら言った。
平井「だからかな……この絵からは時々うめき声がするのだよ」
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第三話第三章「ウィジャボード」
◆◆◆◆◆平井邸◆◆◆◆◆
吽野「ほお。うめき声ですか?」
吽野は目を細め、煙管から煙を吸った。
与太話を真に受ける気もなく、失笑している。
それを感じ取った阿文は心配した。皮肉屋の吽野のことだ、
次にどんな失礼なことを言い出すかわからない。
阿文は軽く咳払いし、平井に問いかけた。
阿文「平井先生は、実際に聞いたことがあるんですが?」
平井「ああ。執筆中に、聞いたよ、ううー……って低いうめきをね」
平井は満足げな笑みを漏らす。
吽野「ふ……」
吽野はまたも鼻で笑った。
平井をますます侮っているような態度だ。
平井「おや、信用してないようだね? 吽野君」
あけすけな態度は、平井にはバレていたようである。
吽野がどうしてこんな態度を取るのか、阿文は大体のことを察した。
先ほど、吽野がまじまじと観察していたコレクション。
あれらは曰くありげであるにしろ、偽物なのだ。
それを、吽野は見抜いたのかもしれない。
吽野「確かに、あの絵は他のコレクションとは違う。この部屋の『嫌な気』の正体はこの絵だ。でも、うめくってのは、ちょっと出来過ぎかな〜って……平井先生の勘違いでしょう」
阿文「吽野先生!」
阿文は慌てて吽野をこづく。
平井「はは。構わんよ。誰がなんと言おうが、私はこの絵が呪いの絵であると信じているから」
平井はさほど腹も立てず、鷹揚に構えていた。
その様子に、阿文もほっとしつつ、代わりに頭を下げた。
久多「ふひっ……じゃあ、今からその作家の霊……呼び出してみますぅ……?」
話に割って入ってきたのは粘着質な声で、ゆっくりと喋る男。
吽野の隣に座っていた、確か『久多』と名乗った男だ。
久多は作家ではなく、芸術家で、平井とは古くからの知り合いだという。
阿文「呼び出す? どうやって?」
久多の喋り方に薄気味の悪さを感じていた阿文だが
嫌悪感を仕舞い込んで聞き返した。
久多は緩慢な動作である一点を指差した。
久多「平井先生、アレを使ったらどうでしょう?」
それは、壁に立てかけられていた。
アルファベットと数字が描かれた木の板だ。
平井「ああ、ウィジャボードかね」
阿文「ウィジャボード?」
吽野「外国のこっくりさん、みたいな物だよ」
平井が説明するより先に、吽野が答えた。
プランシェットと呼ばれるコマに参加者が指を乗せ、
板の上を滑らせる物らしい。
本当に、日本でいう『こっくりさん』そのものである。
吽野が説明する間、
久多はゆっくり立ち上がり、ウィジャボードを取って机に置いた。
芥塵と夏木も興味深げに身を乗り出す。
夏木「降霊術ですか」
芥塵「いいですね〜オカルティックで。やりましょうよ」
平井「ふっふ。そうだな。やってみようじゃないか」
吽野「……」
吽野は子供騙しだと言いたげに、細く煙を吐いた。
◆◆◆◆◆帰路◆◆◆◆◆
深夜一時、吽野と阿文は酒を飲んでほろ酔いになりながら
帰路についていた。あたりは暗く、月明かりを頼りに、
二人は並んで歩いた。
ようやく帰れる開放感に鼻歌まじりの吽野の横で、
阿文は少し残念そうな表情だ。
阿文「結局、降霊術はよくわからない結果に終わったな……」
吽野「そりゃーそうでしょ。こっくりさんの成功率ってすご〜く低いから」
6人で行った降霊術で、『あなたはこの絵を描いた本人ですか?』
という質問に対し答えはなく、代わりに『w.o.c』という、
意味不明な文字の羅列だけが残った。
吽野「あの手法じゃ、参加者の意思にかなり左右される。一度誰かが動かすと、誘導されるんだよ」
阿文「ふーん。じゃあ、さっき動いたのも、誰かの意思か?」
吽野「おそらくはね〜。僕、あの芸術家の男が気になったよ。プランシェットに力を込めていたし」
久多「僕、ですかぁ……?」
後ろから声がした。振り返ると、先ほど平井邸の前で別れた久多だった。
ゆっくりとした歩調で、久多は二人に近寄ってくる。
それが妙に不気味で、二人は自然と一歩後ずさってしまった。
久多「僕、そんなに怪しいですかぁ?」
阿文「ああ、いや……そういうつもりじゃなくて、その……すいません」
阿文が取り繕うと、久多はニチャっと音をさせ、口角をあげた。
その様子はたまらなく不快だった。
吽野と阿文は、そのまま久多が追い越すのを待っていたが、
一向に久多は歩き出さない。痺れを切らした吽野が口を開いた。
吽野「何か、俺らに御用でしたか?」
久多「そんな邪険になさらずともぉ……」
久多は続けて、モゴモゴ何か言いそうであった。
阿文はそれを薄気味悪く感じ、
一刻も早く家に帰りたいと思っていた。
久多「実はねぇ……あの絵……描いたのは僕なんですぅ……」
阿文「え……?」
阿文が声を漏らすと、久多は嬉しそうに声をあげて、笑った。
そして、ようやく歩き出した。
その様子を、吽野も阿文は息をひそめて見守る。
久多は、ゆっくりとした歩調で、闇の中に消えていった。
男が完全に立ち去ってから、吽野と阿文は同時に、
ほう、と息をついた。
吽野「……気色悪いね、あいつ」
阿文「全くだ……」
阿文は言いかけて、はっと声を漏らした。
阿文「なあ、先生。久多の言ったことが本当なら、あの絵が曰く付きだと言うのは嘘じゃないか?描いた作者は生きているんだし、そりゃあ霊なんか降りてくるはずもない」
吽野「だろうね」
吽野の返答を聞き、安心した阿文は、今度は怒り出した。
すっかり「騙された!」と、鼻息を荒くしている。
その横で、吽野は顎に手をあて、「待てよ」、と一言唸った。
吽野「もしくは。あの久多って奴は、芸術家と名乗っていたくらいだし……自分の血じゃなくて、誰かの血で、絵を描きあげた可能性もあるんじゃない?」
阿文「え……」
阿文はゾッとして言葉を詰まらせた。
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第三話第四章「反魂香」
◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆
交流会から数週間後のことだった。
吽野のもとに編集者の木村が訪れた。
遅筆な作家の進捗窺いも兼ねて、茶を飲みに来たらしい。
吽野は整っていない原稿を文机の引き出しに押し込んで、
しれっとした態度をとった。
そして何食わぬ顔で阿文の出した茶を啜った。
木村「先日の平井先生の交流会、いかがでしたか?」
吽野「いかがも何も、君の付き合いで行った交流会だよ? 楽しいわけがない」
木村「いや、本当に。吽野先生が承諾してくださって、大変に助かりました。平井先生はうちの稼ぎ頭ですから」
吽野「ごきげん取りのために俺をだしに使うなって」
木村「先ほど平井先生宅にもお邪魔してきたのですが、大変に楽しかったと満足されておりましたよ」
人嫌いの吽野は不満たらたらの表情で、煙管から煙を吸った。
阿文は吽野の素直すぎる感情表現を咳払いでごまかした。
何か、話題を変えねばならない。そうだ……
阿文「そういえば……久多という人物を、木村さんはご存知ですか?」
木村「久多……?」
木村は首を捻った。
阿文「はい。あの会にいらっしゃっていた、芸術家の男性なんですけど、平井先生のご友人のようで……」
あの帰り道での気味の悪い出来事を、阿文は話そうとしていた。
吽野は会話の成り行きを黙って聞いている。
木村は思い当たる節があるようだった。
木村「ああ、先ほど平井先生が仰っていた方かもしれない。その男性なら、失踪したらしいですよ」
阿文「失踪!?」
驚いた阿文は声を張り上げた。
木村「ええ。その男性、画家と画商の両方を生業にしていたそうで、平井先生は長年贔屓にしていたんですよ。ところが、あの会以降パタリと連絡して来ない。心配した平井先生が画家の家を訪ねたら、夥しい血痕、それに、真っ赤な描きかけの絵が室内に……」
吽野「ほお?」
吽野はニヤニヤしながら身を乗り出した。
吽野「もしや、絵の具に血を混ぜていた形跡がある、とか?」
木村「おや、吽野先生。もうこの噂ご存知だったんですか?」
飄々とした口調で木村は答えた。
隣で阿文は顔面蒼白だった。
阿文「やはりあの日、久多が言っていたことは本当だったんだ。あの呪いの絵を描いたのは、久多だった……!」
木村「現在も久多さんの行方を捜査中だって仰ってましたよ。まあでも、家の中の夥しい血痕が全て久多さんのものでしたら、到底助からないだろうと、平井先生談です」
吽野「そこに死体がないってこた、生きてるでしょ。逃げたんだよ」
阿文「じゃあ、彼は殺人犯なのか?」
吽野「そうね。誰かを殺して、血を吸い取って絵の具にしていたと……!」
身近で起こった凄惨な事件にもかかわらず、吽野には
少しも怯えた様子がない。
しかし、それは木村も同じだった。木村は明るい声で笑った。
木村「おや、先生。これは次回作のネタになりますね! 早く原稿あげてくださいよ」
それを聞いた吽野は、調子づいた表情を一瞬でこわばらせ、
吸っていた煙管の灰を灰皿に落として言った。
吽野「あ〜もう。わかったわかった! 今日はもう、饅頭食ったら帰ってくれよ」
都合が悪くなると、いつもこうやって
有耶無耶にするのは吽野の悪い癖だった。
木村を帰した後に、
吽野はふらりと店を出た。
いい加減原稿を上げないと、
木村がまた訪ねてくるぞ、と阿文は言ったが
気分転換だと言い張って聞かなかった。
阿文はいつものことだと諦めて新聞に目を落とす。
夕方六時になった頃、吽野は帰ってきた。
脇には大きな四角い包み。
その包みを店のカウンター下に落ち着けるや、休む間もなく
店内の戸棚を漁った。
阿文「落ち着かないな。帰ってくるなり……」
吽野「お、あったあった」
阿文「なんだ、それは」
新聞を畳んで、近づいてきた阿文が尋ねる。
吽野は手に白い布包みを持っていた。
吽野は勿体ぶって白い布を解くと、中身は……
阿文「香炉?」
それは金色の香炉で大きさは握り拳ひとつほどだ。
阿文「そんなもの、この店にあったのか」
吽野「売り物だけどね」
阿文「そんな大事そうにして、高い代物か?」
吽野「いや、別に。それよりも……」
吽野は細長い桐箱を取り出した。
吽野「こっちの方が珍しい」
中には、小指ほどの大きさの木片が入っていた。
綿にくるまっていかにも大事そうだ。
阿文「いい香りがする」
吽野「これは、反魂樹の木片。反魂香の材料になる」
阿文「反魂香?」
吽野「これを焚くとね、死人の魂を呼び返せるんだよ。煙の中に死人の姿が浮かび上がるってわけ」
阿文「へえ、またおかしなものを持っているな……」
阿文は興味深そうにつ木片をつまみ上げた。
阿文「誰を呼び寄せるんだ」
吽野「この絵の原材料になった人」
阿文「この絵って……あ……!」
吽野がカウンターからいそいそ持ってきた。
それは平井邸に飾られていた呪いの絵画だった。
阿文「どうしてこんなところに!」
吽野「預かってきた」
阿文「預かっただと?」
吽野「さっき木村さんが言っていただろ。現場になっていた久多の家に描きかけの絵が残っていたって。あれを調べれば、いつかは平井先生の所有してるこの呪いの絵も証拠になるだろう」
阿文「まあ、そうだな?」
阿文はまだ納得がいかない様子だ。
吽野「んで、さっき平井先生の家に行って助言したんだ。『この絵を持ってたら、事件関与を疑われるよ……』とね。そしたら、平井先生顔をしかめて。俺にこの絵を託すと言ってきた。事が落ち着くまで、しばらく不思議堂で預かってくれと……」
阿文「馬鹿! 僕らも疑われるだろう!」
吽野「大丈夫っしょ」
阿文「その自信はどこからくるんだ」
吽野はうーんと考えるそぶりをしたが、
その実、何も考えてはいなかった。
ただ『面白そうだ』という思いつきで預かってきたのだろう。
吽野「久多のこと、あの夜から妙に心に引っかかってたんだよ」
阿文「それは僕も同じだ。けど、本人は失踪中。真相を知る術なんか……」
阿文は自分で言いかけて、ハッと口を抑えた。
吽野「そ。だから、反魂香ってわけ。この血の持ち主……すなわち、『死んだ人間』にさ、絵が作られた経緯を聞くのが早いかと」
阿文「はぁ……理屈はわかったが、まったく、どうかしてるぞ」
阿文は呆れてため息をついた。
吽野「どうかしてるのはいつものことさ」
阿文「あの時はちっとも興味を示してなかったじゃないか!」
吽野「そうね……天邪鬼なのは認める。みんなが興味を示してるものに、俺は気持ちが動かないのよ」
吽野は木片の一部を削り取り、
香炉の中に火を焚べた。
それから絵画の上に隆起している絵の具の上で、
軽くナイフを滑らせる。
絵画の端から絵の具をこそげ落としているのだ。
それを、香炉にポトリと落とす。
すると、あたり一面、もうもうと煙が立ち上がる。
甘い香りが部屋に充満し始めた。
香りが強い。阿文は酔ってしまいそうだと、袖で口を覆った。
阿文「あ……!」
阿文は目を見開いた。
香炉から立ち上る白いもやが、段々と人の形を得てきたのだ。
その煙の中に、確かに浮かんだのは……
吽野「おや、あんた……」
その顔は、忘れもしない。
あの日出会った、久多の顔だった。
吽野「なーんだ。あんたやっぱり死んでたんだな」
阿文「じゃあ、この血は久多のものか」
久多「……」
久多はじろりと吽野を見下ろしている。
久多「あ……?」
くぐもった声だった。
それは確かに、あの日向かい合わせで話した、
久多の声だ。
久多「あんたら、誰だ……」
モヤは、しっかりと言葉を発した。しかし、
その問いかけは妙だった。
この前、吽野と阿文は久多に挨拶をしたはず。
霊になって、記憶がなくなってしまったのか?
吽野「この前挨拶しただろう」
久多「……してないよ」
吽野「え?」
阿文「あのーあなた、久多さんですよ、ね?」
阿文が聞くと、モヤの中で口は動いたが、
煙が揺らいで、うまく聞き取れなかった。
吽野は、手元の反魂樹を少し削って、香炉に焚べた。
阿文「少しこの前話した感じと違くないか……?」
吽野「そうだね」
吽野と阿文は顔を見合わせる。
記憶の中の久多は、ねっとりとした喋り方をした、
空な目の男だった。それが、このモヤは、
気弱そうではあるものの、しっかりと、声を発する。
顔つきは同じだが、表情が全く異なっているのだ。
久多は、口をゆっくり動かして、また語り出した。
久多「いつ、我々は、話した……?」
吽野「数週間前だ」
久多「嘘をつくな」
モヤは、怒ったような口調で言った。
ふざけていると思われたのだろうか。
阿文「嘘じゃないですよ、だってあなたはこの前、僕らに……」
久多「私は5年前に死んだ」
吽野「え」
香炉から煙が絶えて、久多の姿は見えなくなった。
二人は顔を合わせた。
吽野「では、あの日、俺たちが会った久多は誰だったんだ?」
久多に入っていたのは何者だったのか。
今、あの男はどこに行ったのか。
真相は闇の中である。
【第三話 了】
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